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朝霧 (Day6)

寒い。

赤道直下なのに、寒さで目が覚める。

骨の芯まで染み込むような冷気が、私を眠りの淵から無理やり引きずり出した。


眼を開ければ、あたりは一面、真っ白だった。

艀に設けられた小屋-私たちの寝場所として貸し出されたーの窓から垣間見れば、舳先すら白くかすんでいるほど。

水に浮かぶ集落は、あたかも雲の上に浮いているかのようだった。


石炭紀は寒いと聞き、その嵩ばりに文句を言いつつも毛布を持ってきた。

しかし、熱帯雨林で使うのは失敗だった。

たしかに夜は冷え込んだ。しかし夜明け前のこの濃霧が、それを台無しにした。

じっとりと濡れた毛布は私の体に重くのしかかり、ぺっとりとへばりつき、寧ろ体温を奪いはじめていた。そんな毛布の成れはてを引きはがすと、ひんやりと冷え込んだ、湿度の高い空気が肌をなでる。

その重さは、まるでこの森の沈黙が私の肩にのしかかっているかのようだった。

私は普段からいつも、防水の雨具を四六時中着こんで生活していたことに感謝した。

もしそうでなければ、全身ずぶぬれで風邪をひいていたかもしれない。

さらに、今回の旅に紙媒体の本を持ち込まなかったのも正解だ。

貴重な本もこれでは持つまい。なにせ、室内でこのありさまなのだ。

湿気が本のページを波打たせ、インクを滲ませ、カビが生える姿が容易に想像できた。

知識さえも霧に溶けてしまうかのように。


いかにも手作りで作られた感満載の、この小屋。

その隙間から漏れ入る微かな風音が、まるで森がひそひそと何かを囁いているかのようだ。そして煙のように、霧雨に充填された外気が侵入してくる。


アリアとリリィは先に起きたらしく、もう小屋をあとにしていた。

小屋の扉を開け、一歩外に出る。

すると息を吸うたび、炭酸ソーダにも少し似た、ひんやりとした刺激がのどを舐め、泥炭が奏でる甘く香ばしい香りがそれをフレーバー付けしている。その香りは、どこかの山で嗅いだことがあるような懐かしさを含んでいたが、どこの山のものに似ているかといわれると、正確には思い出せなかった。その香りのモダン・アナログはあったとしても、その香りそのものは存在しないだろう。

なにせ、この森を作る種の一種たりとも、現存していないのだから。

刺激の正体は水滴だ。空中に浮かんだ微細な水滴が、私の口腔や気道に触れて水滴となっていくのだ。

そう、空気に湿度が高いというより、水に空気が含まれているようだ。霧雨である。

ただいるだけで、肌がどんどん水ににじんでいき、もとからぐしゃぐしゃだった短い髪も、べったりと濡れていき、水の重みに負けて頭蓋にへばりつく。

額を伝う水滴が、涙のように私の頬を冷たく流れていった。


静けさに覆われた森。

熱帯雨林の朝というと、様々な鳥が鳴いて目が覚めるイメージがある。

かつて旅した東南アジアやアフリカの熱帯雨林でも、私は鳥の美しい、笛の奏でる音色のような歌にやさしく目を覚まされた。

しかし、この森には何一つとして鳴くものがいない。鳥はおろか、カエルや鳴く虫もまだ出現していないのだ。ある意味で、この原始の森はまだ声を発明していないようにすら思えた。

昨日の日中や夜間も、がさがさという音はあれど、歌うものは何一ついなかった。

そして朝の冷え込みは、変温動物であるこの時代の動物たちから、自由を奪う。

その静寂は、まるでこの惑星の生命が、まだ息吹をためらっているかのようだった。

空に飛ぶものもいなさそうだ。もしこの中で飛べば、じっとりと湿った空気が翼の上で凝結し、バランスを急速に崩してしまうだろう。見上げた空は白く閉ざされ、翼を持つものさえもこの霧の檻に閉じ込められているように感じられた。


霧の隙間から、発電艀がちらりと見える。

そこにはアリアとリリィの姿があり、ほかにも村人たちが次々に集いつつあった。

朝食を待っているのだろうか。濡れた甲板に足を滑らせないようにしながら、私は慎重に艀と艀の間に架けられた橋を渡る。常に揺れ続ける艀。一歩足を進めるごとに水滴がしたたり落ち、時折足音に驚いた魚が、まるでバッグか何かが水面に落ちたのではないかというような大きな音を立てて逃げていく。そのたび、私は足がすくむ思いをしたのだった。


水上集落は、どこか懐かしさを感じる素朴さがある。

この植民惑星で見た人類の居住権は、まるで機械に住む場所を設計させ、それが破綻して簡略化されたような無骨さと退廃性のあるものだった。しかしこの集落は、たしかに設計は簡素だし老朽化が進む場所も多いつぎはぎだけれど、ちゃんと血の通った温もりがある。祭りのようなワクワク感が常に覆っていた。私が生まれ育った階層都市とは真逆で、数えきれないほどの旅で出会ったさまざまな地球の秘境と同じ・・・誰かに作られたのではなく、自ら生きる力を感じた。

それは人の生命力であり、生きる根性だ。


発電艀では、調理の準備が行われようとしていた。

大鍋にはさまざまな古代魚や両生類の頭と肝臓が煮られており、一目ではわからないものも多かった。

こう書くといかにも生臭くてまずそう、という印象を受けるものがいるかもしれない。

しかしながら、「生臭さ」というのは海水魚が浸透圧調節や耐圧能力のためにもつトリメチルアミンオキシドが過熱されてトリメチルアミンになることや、漁獲後、死んだ後に脂質が酸化して生じるカルボニル化合物が原因だ。しかし淡水魚にはトリメチルアミンオキシドは含まれないし、昨夕にほぼ生きたままの魚を〆て作った”あら汁”を一晩煮込んでいるので、鮮度が低下することもない。

つまり、魚のうまみこそあれ、悪臭の類は一切なかった。湯気とともに立ち上る香りは、むしろこの星の生命の濃厚なエッセンスを凝縮したような深みがあった。

こうして昨晩の残りから作られたスープ・・・”あら汁”に、配給によりもたらされるデンプン粉で作った団子を浮かべて食べるのがここでの朝食らしい。


艀の周囲には、調理に関わっていない村人たちの姿も多く、特に女性たちが目立った。

彼女たちの笑い声が、霧の中にふんわりと広がる。

その音は、このしんとした朝に、はじめて人間らしい温かみを添えてくれた。


アリアとリリィの姿も、その輪の中に見つけた。


彼女たちは、発電艀のガス化エンジンの排熱を利用して髪を乾かしていた。

アリアは指先でゆっくりと髪を梳きながら、村人と談笑しているようだった。

霧に濡れた茶色のウェーブが、かすかな朝日を受けてきらめいている。


その様子は、まるで異邦人ではなく、この村の一員のようですらあった。


一方、リリィは明らかに勝手が違ったらしい。

肩をすくめ、小刻みに震えながら、火に手をかざしている。


「寒い……寒い寒い! こんなの寒すぎるでしょ!」


そう叫びつつも、視線はしっかりと艀で煮られている大鍋に向いている。

文句とは裏腹に、どこかこの状況を楽しんでいるようにも見えた。


「おはよう、アリア、リリィさん」

私が声をかけると、すぐにリリィが返した。


「ようやく起きたわね、もうすぐ朝食よ。ここの“あら汁”、ほんと美味しいの」


そう言ってにっこり笑った彼女の様子からすると、どうやらまだお腹に余裕があるらしい。


……たぶん、ここにいる中で、それができるのはリリィだけだ。


普段なら豪快に食べるアリアも、さすがに昨晩の食事で限界らしい。

あの1.5m超の両生類を、ほとんど一人で平らげたことを思えば無理もない。


「ごめん、今日だけはちょっと無理かも」


私もそう言いたくなった。

アリアと比べれば、私は身長で三分の二、体重ではおそらく半分ほどしかない。

それだけに、昨晩の“ごちそう”のダメージは深刻だった。


……恥ずかしいが、正直に言う。


寒さのせいもあって、夜明け前から腹部に違和感があり、艀を渡ってくるまでに何度かトイレに駆け込む羽目になった。

食べ物を粗末にしたくはない。けれど、今の私の胃には何も入れられそうにない。


アリアが言った。


「あと30分ほどで霧が晴れるわ。そうしたら出発。準備できてる?」

といった。


この村の人々は、主に朝9時ごろと夕方6時ごろに食事をとる。

漁に出る人々は朝食を軽く済ませ、霧の残る水路へと舟を出し、昼過ぎに戻ってきて夕食の残りを食べるのが常だという。


アリアの荷物は、すでに昨夜のうちにタグボートに積み込まれていた。

「私たちも、そろそろ出ようか」

そうアリアが声をかけると、リリィはすぐさま漁師の一人に話をつけた。

少し姿を消していたかと思えば──自分の分の“あら汁”をしっかり確保して戻ってきた。

その手際の良さに、思わず苦笑が漏れる。


霧がまだ色濃く残る桟橋。

そのボートは小さいながらも金属製で屋根までついており、木製の小舟が並ぶ中で異彩を放っていた。

両絃には木製のカヌーのような小舟が、まるでソリのように両側に曳航され、漁に使うとおぼしき縄や網まで装備されていた。

小型だがパワフルなエンジンを持つタグボートは、艀を運搬するだけでなく漁船としても使われているらしい。

ケイは事前情報から水上集落のタグボートは泥炭で動く、と聞いてワクワクしていたが、液化天然ガスのボンベが積まれているのを見て落胆した。

しかしこれはあくまでイレギュラーなのだ。

液化天然ガスは泥炭と違って自給できず、金銭を払って購入することが必要だ。

そのため通常、水上集落のボートは泥炭ガス化による自給式が主流である。

液化天然ガスは高価で、輸送が必要なため、自給自足を基本とする村では扱いにくい。

だがこの集落は、都市圏に比較的近く、外貨を得やすい立地にある。

さらに、他の止水域の集落と異なり、この村は上流の流域にあり、水位変動が激しい。

緊急時には集落ごと移動する必要があるため、強力なエンジンは命綱でもある。


今回、燃料の手配を含めてリリィが手を回し、特別にこの貴重なボートを借り受けたのだった。

どうやら、泥炭ボートではないものを確保するには相当苦労したらしい。



左舷に曳航された小舟には、案内役を兼ねた漁師が乗っていた。

手には銛。

獲物を見つければ、“突きん棒漁”のように舟上から仕留めるのだという。

この桟橋からでも、大物を一突きで仕留めた例があるらしい。


だが今日の彼の役目は漁ではなく、案内だ。

石炭紀の水路は障害物が多く、進路取りが難しい。

タグボートの操縦を彼に任せてもいいのではと思ったが──彼曰く、「操縦していると大物を見逃すから、むしろ操舵は頼みたい」そうだ。


……たぶんリリィが手配を進める中で、「自分が操縦したい」と言い出したのだろう。

それも込みで話がついているあたり、彼女の交渉術には頭が下がる。


さて、今日の旅が始まる。


いよいよ、石炭を生んだ“リンボクの森”へ。


タグボートから身を乗り出し、エンジンに火が入る。

力強い駆動音が、夜の静寂を断ち切った。

水面をかすめる霧が、せっかく乾かしたアリアのウェーブのかかった長い髪に、再び冷たい水の粒を落としていく──

降雨栄養性湿地もまた発達した石炭紀の低湿地。

高湿度と放射冷却が合わされば浅型にはとんでもない霧が出たはずです。というはなし。

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