シギラリア・トラップ/アースロプレウラ(1)(Day5)
岸からわずか5メートルほどの地点に、異様に黒ずんだ切り株が見えていた。
周囲の木々は刈り払われていて明るく、5メートルを超える巨大な葉をつけたメデュロサ類のシダ種子植物が群れている。その多くは茎の高さが人の背丈をわずかに超える程度で、傘を広げたように辺りを覆っていた。
それよりもずっと小型で、直立する幹の先から二枚のシダ状の葉を伸ばす植物も見える。おそらくジゴプテリス類だろう。中にはつる性のものもあり、黒い切り株に絡みついている。
「見に行ってみよう。」
そう言って足を踏み出した瞬間――
「危ない!」
いきなり強い力で腕を引かれ、思わず体勢を崩す。引き倒されるように地面を見下ろし、何が起きたのかを理解するより早く、振り返ると狩人の男が真剣な表情でこちらを見ていた。
「ケイ! 罠は落とし穴なのよ!」
アリアが、少し怒ったような声で叫ぶ。その言葉の意味を咀嚼する間もなく、男が足元を指差した。
「そこ、偽装の上だ。うっかり踏み抜くと、あんたも落ちるぞ。」
改めて足元を見下ろす。たしかに見たところ何の違和感もない。
だが言われてよく見れば、その一角だけ、周囲に散らばる枝の破片や太い根の断片が一切落ちていない。
「落とし穴は入念に隠されてる。何か大きいものが落ちると、そこで偽装が破れて初めて気づくんだ。」
狩人の一人が、先ほど誰かが落ちた形跡の残る偽装の破れを指さした。
「どんな仕組み?」
「まず、フウインボクの樹皮を薄く剥いで何枚も重ねる。表面は乾燥させて、泥や木くずで目立たないようにするんだ。軽いものなら耐えるけど、5キロ以上の荷重がかかるとバリッと裂けて、中に落ちる。」
足元を見れば、枯れたフウインボクの樹皮が夥しいほど散乱している。
こうした殆ど腐らない樹皮が積みあがって石炭の主原料となったことを体現していた。偽装の材料はそこいらじゅう、無限にある。
根が張っておらず、他の植物が生えていない、というのが、唯一の違和感だった。
これでは、下調べもせずに足を踏み入れれば、古生物学者でさえ罠にかかるだろう。
――これでは、どれだけ用心深い古生物学者でも、下調べなしではまず見抜けない。
「俺、この前落ちたわ。」
「落ちたら引っ張り上げるのが大変なんだよな!」
狩人たちが笑いながら言う。
意外なことに、この完璧な偽装に引っかかるのは、私のような間抜けだけではないらしい。
そう思うと、少しだけ気が楽になる。
どうやらこのあたりでは、「自分で仕掛けた罠に自分で落ちる」が日常茶飯事なのだという。
笑い話ではあるが、実際には助け起こすのもされるのも骨が折れる。
ただし、獲物を仕留めるための棘や槍などの仕掛けはなく、基本的には落下の衝撃以外に大きな危険はないという。
「こっちに安全な道があるぜ。」
別の狩人がそう言って、落とし穴を避ける迂回路を示した。
その道をたどって、ようやく切り株のそばへとたどり着く。
狩人たちは慣れた手つきで、黒ずんだ巨大な切り株の内部をのぞき込み、棒切れで中をつついたり、表皮を軽く叩いたりして確認している。
「いねえな。はずれだな。」
どうやら、この切り株そのものがトラップとして活用されているらしい。
中に獲物が潜むこともあるのだろう。
さて、せっかく近くまで来たのだ。
ここで、私はこの切り株をじっくり観察してみることにした。
切り株からは4本の太い“根”が突き出しており、すぐに側方へと分岐を伸ばしている。
直径は約1.2メートル、高さは1.5メートルほど。ケイの背では背伸びしてようやく縁に指がかかるくらいで、覗き込むのは難しい。
アリアが脇の下から両腕を回して抱えるようにして、ようやく中をのぞくことができた。
内部は深さ2メートルほど。内壁の厚さは7センチほどあり、驚くほど滑らかだった。
これは自然の侵食によるものなのか、それとも狩人たちが何らかの手を加えたのか――判別できない。
確かに、これは天然の落とし穴だ。
もしケイが、無邪気に“根”の上に足をかけて覗き込んでいたなら、見とれているうちに転落し、抜け出せなくなっていたかもしれない。
アリアがさっとカメラを構え、録画を始めた。
このフウインボクの切り株は、古生物学に少しでも親しんでいれば見逃せない“ネタ”だ。
最初期の爬虫類であるヒロノムスの化石は、かつてフウインボクの切り株の内部から発見されており、最も有名な解釈は、「内部が腐って中空になった切り株が落とし穴となり、生物が入り込んでしまった」という「落し穴仮説」である。
カメラの意味を理解し、私は解説にうつった。
「この切り株をまず見てみよう。」
「巨大な根のような部分が、地面の上にせり立っているこの担根体は一見すると根のように見えるけれど、現在のミズニラ類の球根と相同な構造なんだ。板根に似た形状をしていて、地中に深く伸びるのではなく、浅く広がることで木を支えている」
こんなこともあろうかと、ミズニラ類の拡大模型を持ってきていたのが幸いだった。この解説をするだけのために、3dプリンタで作って持ってきていたのだ。
「この根は見ての通り、大きく地上にせり出している。昔は根が出ているところから土に埋まっていると考えられていたけど、実物はこの通り地上にむき出しになってる。これに似たものが現在の木にもあって、板根という。その共通点は、根が浅いことなんだよね。力の効率的な伝達のために重要な構造だよ」
幹の上部には点線状に葉のついていた場所がかすかながらも縦方向に並んでいる。
外見はまったく違って見えるけれど、剥がした樹皮の断面と、この切り株の表面には一致する構造がある。つまり、どちらも同じフウインボクに由来しているというわけだ。
先ほど拾っておいた樹皮の一部を軽く剥ぎ取り、切り株の表面と比較する。
「表面が剥がれていて姿が違って見えるけど、同じ構造だよ。表面が層状になっていて、剥くとこんな感じに、姿が変っていく。ほら、この層で一致した。これはフウインボクの切り株で間違いないね。」
「ところで切り株が奇妙な円筒状を呈しており、落し穴のような構造になっているのはなぜだろうか?狩人たちが磨いたから?それはあると思う。でも、化石記録からは自然にこうした中空の切り株が勝手にできていたことがわかってるんだ。」
「ヒロノムスが見つかったジョギンスの化石崖からは他の爬虫類や両生類をはじめとして様々な動物がフウインボクの切り株の中から発見されている。というよりも、こうしたフウインボクの切り株が化石を良好な状態で保存したと考えられているんだよ」
「一番有名なのは落し穴仮説。だけど、どういう理由でフウインボクの中にはいってしまったのかに関してははっきりしない。天然の落し穴として這い上がれなくなったとする説、普段から巣穴として活用していたのが、そのまま埋まってしまったという説、嵐などで死体が中に詰め込まれたとする説・・・。いろいろあるけれどどれにしても、フウインボクの切り株が壁の薄い中空構造となっていたのは確かだね。」
「そうした仮説のどれが正しいか、確かめるのに一番大切なのは……」
ズボッ——
それは唐突で、静かに始まった。
右足の足元が突如として崩れた。崩れた、というより、足元が消えたようだ。違和感を覚えたときにはすでに遅かった。
内臓がふわりと浮く感覚。重力の向きが一瞬失われたようだった。
滑り込むように斜めに引き込まれる。
「わっ……!」
反射的に両手を広げるも、わずかに落下する感覚のあと、体全体が衝撃とともに地面に叩きつけられた。底に積もっていた柔らかい土がクッションになったのか、骨までは折れていなさそうだが、全身に鈍い痛みが走り抜ける。
あたた…
しりもちをついて見上げると、天井に空いたスリット状の穴から光が僅かに差し込んでいる。
「実際に落ちること……じゃないんだけど……」
息を整えながらぼそりと呟くと、地上から笑い声が響いた。
「あっははははっ! いやもう、見事に落ちたわねぇ!」
アリアが腹を抱えて爆笑している。膝に手をつき、笑いすぎて涙まで浮かべているのが、スリット状の視界の端に映った。まったく、落下速度と着地姿勢が少しでも違えば、骨折どころではすまなかった。
……しかし、狩人たちは様子が違った。
顔から一瞬にして血の気が引き、凍りついたように地面を見つめた。
その様子を見たアリアは、単にケイが落し穴に落ちたわけではないことにようやく気付いて黙りこくる。
笑い声が消えると、周囲には葉擦れの音すら聞こえなかった。
狩人たちは落し穴について熟知している(それでも落ちる)が、それはあくまで自分たちが仕掛けたものに限った話だった。
「……そんな穴あったか?」
「いや、ここはもう全部チェックしたはずだ。」
「まさか……自然にできたやつか?」
「んなばかな、ずっとあったら今までも誰か落ちてただろ。」
リリィは腰を抜かしたようにその場に座り込んでいた。目は大きく見開かれ、手が震えている。
「うそ……こんな穴、聞いてない……。」
その声は、かろうじて声帯が動いているというだけの、かすれたささやきだった。
誰ひとり、助けに向かおうとはしない。
落ちたのがケイではなく彼ら自身であっても、やはり同じように動けなかっただろう。
見渡す限りの地面が、一転して信頼できないものに変わった。
どこが安全で、どこが崩れるのか。それを知る手段は、今や存在しない。
ここは、地雷原だ。
狩人たちは槍の柄で周囲の地面を何度も叩き、慎重に足場を確かめながら移動していた。先ほどまでの無邪気な笑いは完全に消え去り、彼らの視線は地面に釘付けになっている。
「……他にもあるかもしれん。慎重に動け。」
「ったく、なんでこんな場所に……。」
彼らは低く言葉を交わしながら、周囲の探索を再開した。
——穴の底は、異常なほど柔らかい。
全身を包む感触が、これまで歩いてきた地面とは明らかに違う。まるで分厚い腐葉土の上に落ちたようだ。おかげで、受け身を取る間もなく落ちたにもかかわらず、身体に大きなダメージはなかった。
せっかく作った模型は粉々になっていた。機器類は最低限しか持ってきていないので無事そうだが、鞄に入ったボトルから水が滴っている。
落ちた切り株の内側から見る世界は、思った以上に閉ざされていた。
スリットから差し込む光は頼りなく、地上の動きも声も、すべてが遠い。ここがもし誰にも気づかれずに落ちていたら──と考えると、体内で血の気が少し引いていくのが分かった。
薄暗い穴の中、唯一の光源は、落ちてきた天井にぽっかりと開いた隙間だった。そこから乾いた土がパラパラと落ちてくる。天井を見上げながら、ケイは状況を整理する。
——少なくとも、ここは人為的な落し穴ではない。地面に埋もれたリンボク類の切り株だ。周皮だけが残り、中は空洞になって天然の落し穴になってしまったのだ。
「おーい! 無事か?」
上から狩人たちの声が響く。ケイは泥まみれの顔をしかめ、深く息を吐きながら答えた。
「……たぶん無事。でも、最悪の検証方法だった……。」
——こうして私は、フウインボクの切り株が「天然の落し穴」になりうるという仮説を、見事なまでに実地で証明した。
穴の大きさは、先ほど見たフウインボクの切り株よりもずっと広く、直径はゆうに2メートルを超えている。慎重に手を伸ばすと、天井部分にしっとりと湿った感触の何かがあった。分厚そうで、軽くたたいても何の音もしない。滑らかな曲線を描く木質の表面——いや、単なる木の表面ではない。
これは葉枕だ。
手のひらでゆっくりと触れて確かめる。しっとりと湿った樹皮には、5センチほどのひし形が崩れたような模様が、斜めに規則正しく並んでいる。この配置……この触感……
レピドデンドロンだ……!
ケイの脳内で、数多の研究論文や化石標本の記録が閃光のように駆け巡る。レピドデンドロン——石炭紀に栄え、石炭の多くを供給したという「真のリンボク」。
まさか、こんな形で遭遇するとは。
じわじわと事態の全貌が見えてきた。
ここは、かつて巨大なレピドデンドロンが折れた切り株だ。
リンボク類はまるで”外骨格性のような”構造を持っているので、幹の内部は簡単に腐って中空になる。
それが縦方向なら巨大な落し穴になり、横方向なら潰れて板材のようになるのだ。さらにリンボク類の周皮はほとんど腐らないので、数十年以上にわたってそこに空間を作る。この穴の場合、倒れてすぐにほかのリンボクがかぶさったせいで土砂が流入して埋まることを免れた。しかしその封印も完ぺきではなく、わずかにふさぎきれなかった隙間から足を滑らせて落ちてしまった、というわけだ。
それにしても、なんて巨大なんだ。
レピドデンドロンは、ほかのどんなリンボク類よりも巨大だ。
長さ30mを越す幹や、半径6mもある樹冠が知られている。
それでいて一回結実性でほかのリンボク類よりも寿命が短かったらしく、周皮が薄いまま急激に成長し、胞子を飛ばすと枯れてしまったという。
昔の学者は、わずか10年で成木になったと推定した――それが本当ならばこの二酸化炭素不足の時代に植物史最速の成長スピードを実現したということになる。
試算した結果、産業革命以降の人類がCO2濃度をあげた速度に匹敵するほどの勢いで大気中のCO2濃度を減少させたという、驚異的なシミュレーション論文すらあった。
その説が正しいか間違っているかはともかく・・・それはまさしく、特異点だ。
ある学者はこう言った・・・「植物の進化における恐竜」と。
これだけの大きさがあったら、中で野営できそうだ。雨ごいにもよさそう…
もうここに住んでもいいかもしれない。
ケイは落ちたということよりも、レピドデンドロンそのものに感銘を受けていた。
しかし、いつまでもここにいるわけにはいかない。気を取り直して脱出を考えようか。
ケイが落ちたのはスリット状の隙間だった。
上に大きな樹皮・・・潰れたレピドデンドロンの丸太が横たわって切り株の殆どを埋めていた。隙間は幹の外縁がひしゃげてわずかに開いていた。ケイはそこから滑り込むように落下したのだ。
ケイは内壁に触れてみる。明らかに先ほど見かけた落し穴と様子が違っており、足や手をかけて登れるほどざらついている。
ん?
手が何か、手触りの違うものに触れた。それにはごつごつとした隆起が規則的にあり・・・
というか・・・動いた?
「うわっ、なんかいる。でかい!」
巨木の空洞の中には先客がいたのだ。
「ケイ!大丈夫⁉」アリアが懐中電灯を片手に覗き込むと、そこにあったものに息を呑んだ。
竜のようだった。
こぶ状の突起が、光を反射して鈍く光る。それは、三日月形の側板の一部だった。チェーンソーのように並ぶ側板は、一枚一枚が手のひらほどもありそうだ。指よりもはるかに大きな頑丈な足が、しとしとと足音を立てながら、内壁にへばりついている。
ケイは懐中電灯の助けを借りて水の滴る鞄からヘッドライトを取り出し、叫ぶ。
「ちょっカメラカメラカメラ!中から凄いのが見える!」
これは…なんということだ。アースロプレウラだ。しかも特大である。
幅は、私の肩幅と同じか、それより大きいかのように思われた。
長さではもちろん、負けている。
鎧のような側板が滑らかに波打ち、数十本の脚が静かに、滑るように壁を這っていた。
自然と息が速くなった。知る限り、アースロプレウラは危険な節足動物ではないはずだ。よく「ムカデのような」と認識されるが、生態や見た目は(臭いを出す以外は人畜無害な)ヤスデに近い。その主食はリンボク類の枯れ葉や枯れ木のようで、現在のところリンボク類を食べた証拠がある数少ない生き物で、もちろん毒牙もない。つまり、少なくとも肉食ではない。しかし問題がある。草食動物が安全とは誰も言っていない。むしろ身を守るために凶暴な場合すらあるのだ。
しかし、このアースロプレウラ・・・いや、アースロプレウラたちは本当におとなしかった。光を嫌がるようにゆっくりと歩き、入り口を開けてくれるように移動する。巨大な頭・・・本当にそうか?の下から眼柄がちらりと覗き、それがどうやら現在のヤスデともだいぶ違うらしいことがわかった。
「凄いのはこっちからでももうわかってるから私も入る!」
といって・・・アリアはヘッドランプをつけ、カメラを構えながら無理やり隙間に入ろうとし…
「うっぷs」と変な声をあげた。詰まったのである。アリアは肩と胸が入りきらないのだ。
アリアは足をじたばたさせながら
「というかよくこんな隙間から滑り込んだわね」と悪態をつく。
「……無理だと思ったよ」と、ケイは真顔で答えた。
「か、カメラが安定するからよ」
リリィは二人のやり取りを見て、あきれ返った様子で目を細めた。口をすぼめて溜息がでる。
そして、穴から2人して「カメラちょうだい」
という声が響くと、内心腹を立てながらリリィはアリアの鞄からカメラを取り出し、一歩一歩を慎重に確かめながら渡す。体が小刻みに震えていた。
それは舟でも使っていた、丈夫さが売りのカメラだ。隙間はさいわいスリット状で(アリアが無理やり入ろうとしてすこし広がった)、カメラを回したままハマっているアリアの脇からもう一本のカメラを挿入することができた。
それを受け取ったケイは、興奮を押し殺すようにしてナレーションを始める。
「私はさきほど滑落してしまいましたが、思わぬものを見ることができました・・・私が落ちたのは、アースロプレウラの巣だったようです」
側板が発達するその姿は、すこし三葉虫にも似ている。何匹もが折り重なるようにして壁にへばりついており、頭に光が当たると嫌がるように、ゆっくりと”頸”を丸めて足を前に寄せる。思った以上にヤスデそっくりの行動だ。
狩人たちはその様子を見て安堵する。彼らは何者かが勝手に落し穴をかけたのではないかと警戒していたのだ。
幸いこれは本当に天然の切り株であり、ケイが落ちたのは本当に運が悪いだけだった。
アースロプレウラの出入りでできた隙間に滑り込んでしまったのだ。
今回の古生物
フウインボク シギラリア Sigillaria
ジゴプテリス類 Zygopterid
メドゥロサ類 (茎)メドゥロサ Medullosa (葉)ネウロプテリスNeuropteris
リンボク レピドデンドロン Lepidodendron
アースロプレウラ Arthropleura




