第一話 カタストロフ
人類文明が宇宙へと旅立ったのは、はるか昔のことである。
火星をテラフォーミングし、木星の衛星で資源採掘がはじまったのも、いまや遠い話。
いつまでたっても恒星間飛行に必要な超光速航行は実現できず、火星もスペース・コロニーも、住みやすさという点で地球に匹敵することはなかった。人類は太陽系といういずれ燃え尽きる檻に縛られ、地球に代わる新天地を見つけることができず、資源は枯渇し、知識は衰退し、長い長い停滞期に入った。いずれ来る終わりを待つだけかに見える時代が、何百年も続いた。
超光速航行は結局、いまだに実用の域に達していない。
だがその過程で偶然発見されたのが、我々の生きる世界に酷似し、時間軸がしばしば異なる並行世界への航行技術――いわゆる超時空ゲートである。
長い長い停滞期は、ようやく打破されつつある。
この技術により、人類は数世紀ぶりに“新天地”を得た。
ラグランジュ点に配置された超時空ゲートを越え、過去の地球によく似た惑星に、次々と植民都市が築かれてゆく。とりわけ資源問題の解決は、人類の“栄光期”とされる20〜21世紀の再来すら思わせる繁栄をもたらそうとしている。
人類は実質的に、数十個の地球型惑星を手にし、時空大航海時代が訪れた。
ゲートの先に広がる未踏の大地――人はそこを、フロンティアと呼んだ。
世間は古生物ブームである。
長い停滞期の中、様々な学問が化石と化して久しく、古生物もその一つであった。しかし、フロンティアの出現は文字通り、古生物を”生き返らせた”。
過去の古生物研究はまさに”預言の書”となり、かつてないほどの注目を浴びるようになったのである。
ただし、この動きもまた、人類文明が新天地を支配するための前段にすぎない。
フロンティアは次々に工業化され、商業化され、農地化され、観光地化されてゆく。
灰色に舗装された第二、第三の都市惑星へと姿を変えるまで、そう長くはかからないだろう。
――そんな中に、人の支配をまるで受け付けず、ろくに調査も進んでいない、緑の惑星があった。
石炭紀後期、モスコビアン――この星は、植民初期の惨劇から、まだ立ち直れていないのである。
「雨、降りそうだね」
白く輝く街。
駅ビルの屋上通路には、石炭紀の熱帯の日差しに焼かれた午後の熱気が、まだじっとりと滞っていた。
けれど、ほんのわずか、風が動いた気がした。
髪がふわりと揺れて、思わず空を仰ぐ。
青く澄み渡った空に、どんよりとした雲が、黒々とのしかかろうとしている。
その輪郭は濁っていて、じわじわと膨らんでいるように見えた。
──今日のは、ちょっと黒すぎない?
「マテオ?、空なんて見てないで、行こ?」
とっくに歩き出していたのは、アレナだ。
スカートを揺らしながら、カツカツと学生靴がコンクリートを打つ。
「うん……」
「なに? 体調でも悪いの?」
「いや、そうじゃないけど……なんか、雲が黒すぎない?」
「爆弾雨でしょ? 毎日来るじゃない。ね、降る前に、いこ?」
彼女はすいっとスカートを揺らして早足になる。
私も慌てて追いつき、濡れたらまずい書類が入ったサブバッグを体の内側に抱え直した。
「今から寄り道するって、決めてたよね?」
「うん……」
「リュウも待ってるかもだし」
「え、来るって言ってたっけ?」
「……たぶん言ってたような、言ってなかったような」
ざっ、ざっ、ざっ……
雨音の幻聴みたいな足音が重なる。
下校ラッシュの通路には、ほかにも制服姿が散らばっていて、みんな早足だった。
遠くで子どもの声がして、カタンと何かを落とす音。
湿った風が横から吹きつけて、制服の袖がふくらんだ。
駅ビルの入り口では、人が集まりはじめていた。
閉店前セールの呼び込み。シャッターの下りかけた自動ドア。
「ゲリラ豪雨前にどうぞ〜!」と誰かが叫んでる。
「ね、言ったでしょ、急ごうって」
「……はいはい」
この街には、毎夕、とんでもないスコールが降る。
だから夕方になると、みんな建物の中に逃げ込む。
この惑星の“夕方”は、街が内側に吸い込まれる時間だ。
だからセールタイムは、夕方だ。
カフェも、本屋も、コンビニも、夕方のほうが混んでいる。
花の香りがする。——いや、花の香りと言われている香りがする。
雑貨店の前には、もくもくと、アロマミストが煙をくゆらせていた。
ところで私たちは、本物の花を知らない。
この惑星は、まだ〈花〉が咲く時代ではない。
<一家をあげて、ときの向こうへ>
そんなスローガンのもと、私がこの、石炭紀の惑星に降り立ったのは5年前。
宇宙船育ちの私、マテオ・オリヴェイラは、あの日はじめて本物の重力を知った。
スローガンに惹かれて移住したのは、ライフカプセルに詰め込まれ、電極に繋がれて育ち、大地に憧れてやまない、宇宙居住者ばかりだった。
アレナもまた、木製航路のヘリウム輸送船団で生まれたのだとか。
宇宙船には、花なんてなかった。だから私たちは、花を“知らない”。
そんなことを思っていると、ポーチが目の前に飛び込んできた。
アレナだ。
「このポーチ、かわいくない? 麻布で風通しよさそうだし」
「……それ、シダ繊維って書いてあるよ。フェイクだし、ちょっと硬くない?」
「触ってみて、ふわふわよ。それに――どっちでもよくない?」
アレナはそういう、“ふわっとした”選び方をする。
わたしは、もう少し“本物かどうか”にこだわってしまう。
「いや、やっぱ地球の本物の麻がいいかなって」
と私がいうと、
「はいはい出ました、地球オリジナル至上主義者」
「いや、なんか・・・」
上手く説明できなかった。でも、しなくてよかった気もした。
だって私は、地球を知らない。
憧れてるのは、たぶん幻影だ。
彼女は目を細めて笑うと、すぐ隣の棚に移った。
「あ、あとさ、このボールペンどう? グリップおしゃれじゃない?」
「この星の原生植物……レピドなんとかを使ってるやつだっけ? 植物っていうより、なんか……」
「どちらかというと、校章バッジ?」
「そう、それそれ。メタリックだし、軍用品みたいな質感」
「うちらの校章も、このレピドなんとかがモデルなんだよね」
「AIに聞いてみよっか」
「……ん。『リニャーリア市立高等学校の校章は、何をモデルにしていますか?』……こうかな。送信っと」
ローカルAIの反応は、一拍遅れて、そして長かった。
<<Lignária私立高等学校の校章は、Lepidodendronをモデルにしています。
A. Lepidodendronとは何か? ———>>
「……うわ、来た来た」
「いっつも最初に全部ぶち込んでくるよね」
「まあ、オフラインだし、しょうがないけど」
「地球じゃさ、リアルタイムでぜんぶ教えてくれるんだって」
「でも……それって、楽しいのかな?」
「楽しいんじゃない?少なくとも“宿題やりなさい”とは言われない世界でしょ?」
「・・・今日の課題、多かったよね。数学とか本当に何に使うんだろ」
「リュウからメッセ来てる。宿題ヤバいから帰るって」
「あいつ、自由だよな」
「ま、テストで赤点だったらしいし、再試に向けて頑張ってるのよ、たぶん」
カンピナ・クララ( Campina Clara)
――石炭紀の惑星に築かれた、最初の植民市。国ではないけど、首都みたいなものだ。
古テチス海を臨む町は、どこかリゾート地のようだった。
湿地を切り開いて作った街。
しかしジメジメ、びちゃびちゃとした湿気はまるでない。
干拓されたのだ。
硬く、白く、舗装された道には、街路樹として植えられたコルダイテスが、長い葉を涼し気にそよがせていた。
――熱帯雨林の中にありながら。
街の周囲には、まるで壁のように、森が広がっている。
その姿は、現在——この、過去の惑星に移住した人々は、地球、とよぶ――のものとは、大きく違っている。
――針山、という表現が近いかもしれない。
いちめんに広がるシダのような葉の中に、30mはあろうかという塔が立ち並ぶ。
塔は集まり、柱の列となり、剣山とか針山のたぐいを思わせる。
青空がよどみ、積乱雲が黒々とした影を落とす。
そして――
森の片隅、一本のレピドデンドロンに――一発の雷が、落ちた。
パッと樹冠に、火が灯る。
黒煙を噴き出しながら枝葉に火が広がり、葉を焦がしていく。
しかし、簡単に炎上するわけではない。
酸素濃度30%を超える大気では、あらゆるものが簡単に炎上する。
しかし――植物もまた、燃やされまいと抵抗力を身につけているのだ。
レピドデンドロンもまた、そうしたひとつである。
燃えやすい葉は、最小限だけ。
分厚い樹皮は、熱せられると溶け、強固なバリアーとなる。
樹冠はごく小さく、たとえ燃えたとしてもかんたんには延焼しない。
――しかし、それは死を待つ老木であった。
レピドデンドロンは、定命の木である。胞子から芽生え、高さ30から50mにもなる塔状に育ち、分岐を開始する。分岐するごとに葉の数や維管束数が減少し、耐火性のある樹皮の生産能力もまた、衰えていく。現代の木々と違って、幹が太ることはほとんどない。
幹の下部は、芽生えて最初に上に伸び始めたころから、ほとんどそのままだ。
上に向けてタワー状に成長し始めた時点で、その木が何回分岐できるかもまた、すでに決まっている。
そして――分岐しつくした巨木は、死を待つのみである。
雷と炎が、そこに終わりをもたらした――幹が爆音を立てて、爆ぜる。
――あるいは、それが彼らの生存戦略なのかもしれない。
周囲の植物のほとんどが10mにも満たず、光競争する相手がいないまま、光を独占するわけでもないのに、他の植物の3~5倍の高さまで巨大化する戦略――一番よく似ているのは、避雷針である。
むしろ、雷に当たりにいくかのようである。
どこか濡れて、粘り気を帯びた音。
水分をたっぷりと含んだ巨木が、内側から裂け、圧縮された蒸気と揮発性のガスが、熱に煽られて爆ぜる音だ。
30mの塔が、爆ぜて四方に火をばら撒く。
遥か下方に茂るのは、メドゥロサ類に属するシダ種子植物、ネウロプテリスである。
シダ種子植物、とくにメドゥロサ類は、油を非常に多く含んでいる。
この油分は、3億年たった後も石炭や化石の有機成分として残されている。さらに、その葉は多くの種で枯れたのちも幹に固着したまま残るのである――自重を支えるために。
酸素濃度が30%を超える大気の中、火はぱっと燃え広がった。
まるで、焼夷弾を投下したかのように。
20世紀末、DiMicheleはこう書いている――”メドゥロサ類の落ち葉——石炭球の研究に基づけば――は、他の樹木や低木と比べるとしばしば異常なまでに炭化している、さらに、メドゥロサ類を多く含む石炭球ゾーンは概して、最も高い炭化率をもつ。メドゥロサ類自体が燃焼しやすさを高めていたのかもしれない。なぜならば、その組織は樹脂様の封入体を持ち、その羽葉は枯死しても幹に着いたままであり、豊富な非常に燃えやすい燃料を提供したためである。植物の燃焼は基質に栄養を放出し、そうした栄養は燃えた場所にシダ種子植物が再定着することを助けたのであろう”——
そう、燃えること自体がかれらの生存戦略だったのかもしれない。
その異常に分厚く、大きな種子――しばしばアボカドの種より大きい――は、燃え尽きずにある程度は残されたのかもしれない。
そして――巨木が、また倒れた。
長さ30mを超える着火した木は、一気に燃焼範囲を広げる。
地上に広がるメドゥロサ類の葉は、長さが5mを超える。
一端に火が付くと、火が葉の上を走るかのように猛烈な勢いで駆け下りていく。
地表火の勢いが、止まらない。林床はあっという間に、火の海だ。
しかし、その内側ではさらに大きなものが燃えようとしていた――地面、そのものである。
大地が、ぐつぐつと煮立っている。
酸素濃度30%を超える石炭紀の大地において、水があれば火が止まる――とは限らない。
おそろしいことに、石炭紀の石炭においては、ときに15%が、炭に占められる。
石炭というのは、泥炭のなれはてである。
そして泥炭というものは――湿地に堆積し、基本的には濡れているものである。
——にもかかわらず、燃えている。
現在の泥炭だって火災を起こしているではないか――そういう声もあると思う。
しかしながら、新生代の泥炭および石炭は、ほとんどもって炭の成分を含んでいない。
それはつまり――自然状態の湿地の泥炭はそう簡単には燃えるものではない、ということだ。
しかし――石炭紀の泥炭は、よく燃えた。
それが水の中であろうと、なかろうと。
大地は燃え上がり、ふつふつと地面が沸騰する。
そして、地面がぐらぐらと煮立ち、白煙とともに地盤が揺らぎ始める。
そう――加熱とともに含まれる水が沸騰し、火が来るとともに燃料が露出していくのである。
白煙が立ち上る。黒煙ではない――大量の湯気が上がっていく。
いつもの、スコールが来るはずだった。
しかしどういうわけか、この日だけは、なかなか来なかった。
森の端でおきたこの出来事に、まだ誰も危機感を持っていなかった。
誰もがそれを“いつもの音”だと思っていた。
遠くで雷が落ちた。
いつもどおり、午後の爆弾雨が来るはずだ。
なら、今日も早めに買い物を済ませて、建物の中に避難すればいい。
人々の歩みは緩まず、声も弾んでいた。
屋台ではアイスキャンディが売られ、傘売りの男が声を張り上げる。
制服姿の学生たちが、焼き魚の串を片手に歩いている。
「雷、近くない?」「昨日も鳴ってたし」「よくあるよねー」
だが。
森の方角を見ていた一人の少年が、わずかに眉をひそめた。
「……煙?」
それは、雲ではなかった。
石炭紀の森に火がついても、いわゆる黒煙がもくもくと立ち上がるわけではない。
黒煙が上がるのは、本当に最初だけだ。
いちど泥炭に火が付けば、煙は、真っ白。
そして、まっすぐに立ち上る。
そう――一番近いのは、積乱雲とか、竜巻のたぐいだ。
火は大量の水を沸騰させながら広がる。
水蒸気は強烈な上昇気流を産むため、煙はどよんと広がるのではなく、まっすぐだ。
水蒸気は空中で凝結し、強烈に光を散乱して真っ白く光る。
火の粉は、舞わない。
なぜなら――煙の外縁では凝結した水蒸気が、火の粉を軒並みかき消してしまうためである。
だから――なかなか雲と見分けがつかず、発見が遅れがちになる。
沿岸側の観測台にいた気象係もまた、それを見抜いた。
「熱源異常、複数…泥炭火災です!」
警報が鳴る。
しかし最初は、それが何の音かさえ、誰も気づかなかった。
あまりにも長いあいだ、あの音が鳴ったことはなかったからだ。
「都市防災、コード・デルタ……?」
「まさか、そんな……」
「うそ……うそ、でしょ……?」
石炭紀の森において、火災は日常茶飯事である。しかしながら、普段は消防隊の緊急出動で初期のうちに食い止められている。
「デルタ」というのは――もはや封じ込め不能であり、街が火に呑まれるほかない、という意味なのだ。
熱帯の風は、静かに海の方へ吹いている。
だが、森から立ち上る熱が、その風向を変えはじめていた。
さらに、地響きのようにうなり声が上がる。
道路は通行止めになり、道の真ん中からどうどうと消火砲塔<ターレット>が姿をあらわす。
口径40センチ――戦艦のような巨砲を掲げたその機械に、誰もが一瞬、言葉を失った。
「……なに、これ……」
主砲の後部には巨大なインテークがあり、轟音をあげて試運転が始まった。
それだけではない。
地面から水が湧きはじめる。
側溝から、歩道の隙間から、どこからともなく水が流れ出し、白い舗装をひたひたと満たしていく。
悲鳴が上がる――というのも、道路にはまだ人が大勢いるのだから。
しかし、もう現実感などどこかに吹き飛んでいた。
人が次々と溺れていく。
しかし、ビルの窓から見おろす人々の口から
「ほんとに、街の下って、川だったの?」
といったような、まるでひとごとのような感想が飛び交う。
「嘘でしょ……浸水してるの?これ……!?」
「ちが……ちがう、これは――」
ゴゥン……
重低音が街を揺らした。繰り返す。
地面の底から、破裂音と重低音がこだまする。
足元のアスファルトが、腹の底から鳴るような震えとともに、ゆっくりと沈みはじめた。
水道管が吹き飛び、下水が逆流してあたり一面を腐臭に包む。
見慣れた街並みが、ぐにゃりと歪む。
足元が――傾いている。地面は、ぺりぺりと剥がれ、その隙間にときどき、人が吸い込まれた。
――大惨事の筈なのに、なんというか、映画みたいで、現実味が全然なかった。
「こんなときに、さらに地震・・・⁉」
一瞬、誰もが地震かと思った。
ここ石炭紀において、地震もまた、日常茶飯事である――あの忌々しい、パンゲアBのせいだ。
だがいまのこれは、違う。
ゆっくり、意図をもって地面そのものが沈降している。
「いや……沈んでる……地面が、街が、落ちていく……!」
そう、都市の一部が――沈みはじめたのだ。
排水路で水を抜いてから、排水路を跨ぐように板を敷いて町がつくられている
…そして、緊急時には排水路に水が満ちて防火対策とする
――そう学校で習ったけど…本当なんだ。
私もまた、他人事だと思っていた一員だった。
「これは、設計どおりだ……」
と、誰かが呟く。
坂道の上では、買い物袋を持った女性が転び、子どもが泣き叫ぶ。
小型の電動車がずるずると傾き、駐車していた車がゆっくりと滑り出す。
高架を走っていたトラムが急停止し、線路ごと歪む。ブレーキ音と金属のきしむ悲鳴が重なり、乗客の叫びが響いた。
「下、下がって!潰れる…くるし…!」
だが声は届かない。
泥炭地に築かれたこの都市は、火災時に備えて地盤ごと街を沈める設計になっていた。
いま、排水され空洞化した地下構造が作動し、巨大な機構が、ゆっくりと目を覚ましつつある。
戦艦のダメコンを参考にした、最新鋭の防災機構である。
――ただ、「誰もを守る」ものではなかった。「誰か一人でも」守るためのものだった。
というより、それが限界だった。
しかし――その最低限すらも、破られてしまうかもしれない。
沈み方は、想定どおりではなかった。
沈んだ区画と沈まなかった区画の境界に、段差が生じる。
見慣れた通りが、亀裂を生じ、膨れ、裂け、落ちる。
石畳が波打ち、坂道は滑り台のようになり、人が転がる。
悲鳴と叫びが交差するなか、高架のトラムが軋みを上げて崩れた。
遮断機が浮き上がり、レールが波のようにたわむ。
止まっていた車両が、緩やかな傾斜に引かれ、レールごと滑り落ちていく。
避難誘導は、ほとんど意味をなさなかった。
「設計どおり」などと呟いていた誰かの声は、もう聞こえない。
見慣れた街が、分解され、呑まれていく。
――これは防災ではない。
――これは、戦時だ。
ガラスが割れ、車体が横倒しになりながら、建物の側面に突っ込む。
街の地下階からは、濁流とともに人々が駆けあがってくる。
「下が水で……階段が、水で……!」
「やばいっ、閉まって、ドア閉めて!閉めてったらぁ!!」
誰もが、なにが起きているのか分からない。
窓という窓に人が押し寄せ、火の方角を見つめた。
火は、もう――すぐそこまで迫っていた。
もはや水の上にぽつぽつと浮かぶようになった消火砲塔が、火の方角をめがけて一斉に水を放射する。
口径40㎝の砲身には、ジェットエンジンが仕込まれている。砲身は海中に通じており、莫大な量の海水を投射することができる。射程はなんと、1キロメートルもある。
この規模の火災は、想定されている範囲内だ。
酸素濃度35%の大気において、防火設備に念を置きすぎることはない。
干拓した泥炭はいやがおうにも燃えやすいため、建物を支える基礎を爆破して泥炭を圧縮し、それとともに一気に水路に水を流して地下の泥炭層を海に押し流してしまうのだ。
もちろん、街は水に沈むし、おぞましい数の死者が出るだろう。
しかし――ここは人類のフロントライン。「誰かが生き残らなければならない」のだ。
防災庁の会議室では、緊急時対応フローチャートに従って、区画ごとの注水と崩落が指示されていた。
「ブロック21を切り離す……それで中央医療区が水に沈む」
「だが、他に手はない。あの区域が燃えれば、都市全体が崩壊する」
モニターの上で沈んでゆく地図。誰も何も言わない。わかっていたことだった。
そして――来た。
世界を覆いつくすほどの勢いを持った、爆弾雨。
それは自然現象でありながら、どんな消防よりも強力であって、地上の火をあらかた消してしまった。
地面は沈み、火は消え、空は豪雨に洗われた。
すべては、想定された通りだった。
けれど――泣き叫ぶ声は、止まらなかった。
「そっちは封鎖されてます!戻って!」
「でも……この子の母親が、向こうにいるの!」
崩れかけたトラムの車内には、まだ人がいる。閉じたドア越しに、ガラスを叩く手。
「開けてくれ!誰か、外に――」
通信が錯綜する。「避難経路が塞がった」「新市街のゲートが開かない」「避難棟が定員オーバー」
ある者は「だから言ったのよ、学校棟を優先的に沈めるべきじゃなかったって!」と叫ぶ。
が、実際には学校棟優先沈降の事実はない。
しかし、誰もが自分の大事な存在を救えなかった恐怖と怒りをぶつけ合うのである。
「落ち着いて、みんな、列を崩さないで……!」
だが、列の後方から、怒声が上がる。
「順番なんか守ってられるか!」
「もういっぱいなんだよ!後ろに回れってのか!?」
混乱の波が、じわじわと前方へ伝播していく。
泣きじゃくる子ども、取り残された老人、誰かを助けようとして消えた誰か。
すべては、手遅れになってから気づかれる。
しかし、まだ地獄は始まったばかりだった。
マテオ・オリヴェイラ、当時14歳。
どうも、台帳上はこのとき、死んだことになっているらしい。
――そもそも、あの日以降、戸籍なるものが機能していない。
あの日の混沌——それもまた、あまりにも鮮烈すぎて
あまりにもノンストップすぎて、あまりにも情報量が多すぎて――
どこから私の記憶で、どこから誰かの語ったことなのか、はっきりしていない。
ただ――すべては、あの日、失われた。
――30年後。
ボートの波紋のほか、動くものは見当たらない。
岸辺に立ち並ぶカラミテスの間を、巨大な羽虫が一頭、緩やかな弧を描いて飛んでいく。
そして――その間から、柱が並んでいた。
レピドデンドロン。一本の分岐もない円筒状の幹が、まっすぐ天を突いている。
多くは立ち枯れていたが、それすらも越える勢いで、新しい世代が頭をもたげていた。
水は、沈黙していた。
水の底は、真っ黒。
三十年が経ったいまも、機械油のような虹色の膜がときおり水面に浮かび上がる。
それが、ここに文明があったという唯一の痕跡だった。
私――ケイ・ヤマナカは、この植民惑星——人類が植民した、過去の地球のパラレルワールド――に来ている。
目的は、自然観察。しかし――この、なかば神話となった大惨事の跡地を、訪れざるを得なかった。
私は覗き込みながら、ソナーの波形を見る。
泥の中――おそらく12メートルも下に、反応がある。金属らしい。
水面からでは何も見えないのも、無理はなかった。
だが、これほどの短期間で、これほどの堆積がありえるのだろうか。
――ありうるか。灰は流れやすく、急激に堆積する。
この周囲一帯の泥炭が燃えて、大きな湖になるほど地面が陥没したとしたら―――
いまソナーに映っているのも、往時の街の、ほんの最上層部なのだろう。
この星のかつての首都――カンピナ・クララが、まぼろしの街となっているのも納得である。
「マテオさん、本当にここなんですか?」
ボートのへりに寄りかかるようにして、彼は答えた。
「ここです」
マテオ・オリヴェイラ、この街が失われた時、十四歳だったという。
そんな彼は、今や還暦に届こうかという年齢になっていた。
日に焼けた顔には、かつての表情は残っていない
――表情筋が、両側麻痺してしまったようだった。
彼は水面を見つめている。
なにかを見ているわけではなかった。
むしろ、水の奥からこちらを見ている“何か”に応じているかのようだった。
「ここです」
もう一度、同じ言葉が、低く、静かに繰り返された。
「右手にホームセンターがあって……その奥に、制服のまま走っていった友達がいた。見失ったのは、あのときでした」
迷いもなければ、演出もない。
語られるのは、記録のような断片。
しかし、なぜか胸の奥を抉るのだった。
そして彼は、ソナーの画面を指さして言った。
「あの坂の先に、学校がありました」
そう指さす先には、黒々とした水面が広がるだけだった。
ふと水面を見ると、イチョウの葉を軸にたくさん並べたような葉が浮かんでいる。
Noeggerathiaだ。
21世紀の古生物学者、Pfefferkornは、この仲間の植物は熱帯の、栄養に富む湿地に生えていた、と書いている。
私はそれを手に取ると、ああ、これもまた人がいた証拠なのだろうか、などと思った。
しかし、ここでそんな話をするのはあまりにも不謹慎な気がして、言い出せなかった。
それでも、はじめて見る葉だったので、そっと押し葉に挟むのだった。
葉からにじんだ水分が、紙面にぱっと、花開いた。