第7話 その部屋は
「先生!」
牡丹は遊楽に振り向き、小さく叫んだ。
言葉を続けようとするが、遊楽は無視する。そのまま、瑞香に歩み寄る。
見上げれば、細い顎には僅かに無精髭。あわせようともしない胸元の着乱れは丁度、瑞香の目の前だった。端正な造形から連想することの難しいような、引き締まった胸筋が覗いている。
瑞香は戸惑い、目を伏せた。
その肩に遊楽は手をかけた。
電流に撃たれたように、ぴくりと身体を震わせる。
「……来て呉れ」
口調は柔らかかったが、反駁を許さない昏さを秘めていた。
瑞香はわずかに躊躇い、それでも、心を極めた。ついと立ち上がる。
荷物をとろうとすると、牡丹が走り寄った。鞄を両手で持ち上げ、瑞香に頷いて見せてから、遊楽を上目に睨んだ。
遊楽は、ふ、と微かに笑って、踵を返した。奥に向かう。
牡丹が続き、瑞香はその背を追った。
厨房の横に狭い階段があった。洋風の手摺りの設けられたそれは、中途で直角に折れ曲がっていた。小さな踊り場からさらに十段ほど上がると、廊下に出た。
右の壁には洋燈が並んでいる。それと、三つの扉。
遊楽はいちど振り返り、奥の扉に歩み寄った。把手に手をかけ、引き開ける。再び瑞香たちのほうを見て、顎をくいと、開かれた扉の奥に向けて見せた。
瑞香はこぶしを握って、胸に当てた。脚が出ない。横の牡丹を見る。眉を下げ、哀しげな表情をした牡丹は、だが、頷いた。
ゆっくり、踏み出す。廊下は木張りで、ぎし、と、僅かに軋んだ。
遊楽の横に立つ。彼の目に笑みはない。
瑞香は、すう、と、息を吸った。
これで、ここで、仕舞いなのだ。
そう、肚を極めた。
部屋に、入る。
「……あ」
瑞香は、両手で口を抑えた。声が大きくならなかったことは幸いだった。
後ろによろめきかけ、それでも、気持ちで身体を支えた。
後ろから牡丹が入ってきた。
瑞香の横に鞄を置き、腰に手を当て、嘆息した。遊楽を睨み上げる。睨まれた方は、目を逸らした。
「……昨日、仰っていましたよね。明日の昼までには片付けると」
「……進捗は芳しくない。が、努力はしている」
牡丹は薄く眇めた横目を遊楽を投げ、会話を打ち切った。瑞香の方に振り向く。気の毒そうな表情を浮かべ、頭を下げた。
「あの、御免なさい……ここ、先生の書庫だったんだけど、瑞香さんのお部屋にする予定で……ああやっぱり、お手伝いすれば良かった。先生が、独りで片付けるって仰るもんだから」
「……え」
呆然としていた瑞香は、その言葉に改めて室内を見回した。
薄暗い。奥の明かり取りが、半分塞がれているためだ。
うず高く積み上がった本に隠されている。
わずかに見える部屋の角から推しはかると、その面積は六畳ほどもあろうと思われた。が、床のすべての箇所が、左右の本棚に入りきらない書籍に埋められているから、正確なところはわからない。
紙の塔は、酷い箇所では天井付近に至っている。
それらの隙間には、紙片。大量の原稿用紙、あるいは、書き付け。なにかの図面なり地図の一部のようなものも見える。手帳もいくつか、落ちている。
瑞香は、手元にあった本に手を伸ばした。古い時代の呪術に関する本だった。
その下の書籍の題名も目に入った。陰陽術の変遷。
次は、近世科学と占星術。
小説もある。学術書もある。歴史、習俗、あらゆる分野の書籍。
瑞香は、次々に本を取り上げ、表紙を確かめていった。
その様子に、遊楽と牡丹は、目を見合わせた。
やがて、瑞香が手を止める。
下を向いている。
肩が震える。牡丹が横に立ち、顔を覗き込む。
頬を伝う涙が手元の書籍に落ちないように、瑞香は袖を上げ、ぐいと拭った。
「……ありがとう、ございます」
瑞香は振り返り、遊楽に頭を深く下げた。
そのまま、泣いている。
牡丹がその背に手をあて、摩る。
「……う……」
遊楽は困惑していた。
たしかに自分が片付けると約束をした。そして午前中、執筆に飽きれば裏から抜け出て散歩をし、戻れば土産のあんぱんを頬張ってそのまま昼寝を決め込んだ。そして折角だから、本人にも手伝わせて片付けようと考えた。
が、そのことがそれほど瑞香を傷つけるとは想像していなかったのである。
しかし、顔を上げた瑞香は、笑っていた。
頬を濡らして、くしゃりと顔を歪めて、それでも、笑った。
「ありがとうございます……わたしが寂しい思いをしないように、大事なご本のあるお部屋をあてがって下すったのですね。ほんとに、ほんとに、大好きな本ばっかり。それに、家で……実家で、貸本屋をしていたものですから、たくさんの本に、囲まれていれば、わたしは……だいじょ、ぶ」
そこで膝を曲げ、しゃがみ込んでしまった。袖に顔を隠す。
牡丹もその横に膝をたて、背を叩く。遊楽の方を見上げ、ん、と顎を瑞香のほうへ振った。
遊楽は目で、分かっていると応え、ごほんと咳払いをした。
「……ああ。ん、そうだ。いや、只な、ちと、酷く散らかっているものだから、それを片付けるのを君の初仕事にしようと……」
遊楽は、牡丹の、そうではないだろうという視線を感じて口を噤んだ。が、瑞香はその言葉に顔をあげ、大きく笑った。
「はい、喜んで。ありがとうございます。本の整理は大好きです。素敵なお仕事。がんばり、ます」
立ち上がり、もう一度顔を拭って身なりを正し、ふかぶかと頭を下げた。
「……改めまして。琴丹 瑞香、と、申します。この度は、ご高名な先生に、わたしと父の、命を救っていただき、このようなご縁までいただいて、ほんとうに……本当に、ありがとうございます」
瑞香がそういうと、遊楽は息を吐き、表情を引き締めて見せた。
瑞香は、側で心配そうな表情を浮かべている牡丹をちらと見てから言葉を続けた。
「もう、戻れぬことは判っております。家にも、元の暮らしにも……わたしは、飼われあやかし。ひとを外れた、外道となったと、父に聴かされました。それがわたしを生かすために必要なことだったと。先生にお縋りしなければ、生きてはゆけぬのだと」
あやかし、という言葉に牡丹がぴくりと動いた。が、酷く驚いたという様子もない。瑞香は構わず続けた。
「……ですから、覚悟は定まっております。どうか、如何様にも。もとより無かった生命です。ただ……ただ、生命あるうちは、ときおり父に、手紙を出しても、よいでしょうか……」
再び下を向いてしまった瑞香に、遊楽はかける言葉を探すように横を向き、乱れた頭をぼりぼりと掻いた。
「……君の言葉の幾分かは、正解だ。が、誤解も含んでいる」
そう云い、腰を屈めた。手元の本を何冊かまとめて持ち上げ、横に置く。別の本を持ち上げる。どうやら今更ながらの整理を始めたらしい。
「……俺の側にいなければならないのは、事実だ。三日以上離れれば、君は生命を落とす。そういう術を用いた」
「……は、い」
「だが、いつでも帰ればいい。ずっとここにいる必要はない。ただ、頻繁に通うのも面倒だろうし、俺もそう君のところに何度もゆけない。だから来てもらった。それだけのことだ」
「……え」
「それと、もっとも大きな誤解がひとつ。君は……」
遊楽は持ち上げた本の上の埃をふうと吹き払ってから、どうしたことか、横の壁のほうを向きながら声を出した。
「……あの時、君は、美しかった。決して外道などではない」