第3話 選択
利蔵の思考は、止まっている。
投げかけられた言葉が降りてゆかない。
瑞香は腕の中で、苦しそうに胸を上下させている。
その息が徐々に細くなっていることが利蔵にも感じ取れた。
なかば本能的に部屋の左右に目を走らせる。
と、その心底を見透かしたように遊楽は言葉を続けた。
「逃げても構いませんよ。瑞香さんを連れて。あの怪異からも、俺からもね。が、結果は変わらない。瑞香さんの息が止まるのがこの部屋のなかか、あるいは路上か。その違いでしかない」
口調は変わらず軽妙だったが、告げる内容は酷薄なものだった。
「それともうひとつ。奴さんが死ねば、瑞香さんも死ぬ」
「……え」
利蔵の目に色が戻る。腰を浮かして振り返り、遊楽を見上げる。
「なぜ……です」
「瑞香さんの魂がもう、あれに紐づけられてるからですよ。まあ、契約とでも云いましょうか。弱いあやかしが魂を喰うにはね、まず相手を騙して自分に喰われることを承諾させないとならない。あなた、あれに、娘を頼むと云いませんでしたか」
「……あ」
「云ったでしょう。親子の縁にあるものがあやかしに頼むと告げれば、もう、いけない。瑞香さんは半分、彼岸に堕ちてるんですよ」
利蔵はふたたび瑞香に目を落とし、沈黙した。
「だから、俺にはあれを殺すことができない。あなたたちを連れて逃げることもできない。さっき云った選択肢はね、そのまま真実なんです」
「……」
「ぜんぶ諦めるか、契約を結んだあなた自身があれを屈服させて契約を放棄させるか、あるいは……」
飼われあやかし。
「……だめ、だ」
瑞香を抱く利蔵の腕が、小刻みに震えている。
傾けた首の角度が深くなる。額に血管が浮いてくる。小さく呟いている。
「だめだ……わたしが、間違ってた、ぜんぶ、わたしの責任だ……もう、だめだ、あやかしなんぞ、絶対に……瑞香をそんな目に、二度と……」
遊楽が何か言葉をかけようとした、その時。
蹲っていた獣がやにわに身を起こした。
立ち上がる。がふ、という音とともに息を吐く。
瞳が昏い赫に燃えている。両腕を上げる。その先端の爪が変化していた。硬質な、鉄のような色を帯びている。長さも倍ほどになっている。
背を丸める。畳を蹴り、遊楽に向けて突進した。すぐに光の壁に衝突する。が、今度は倒れない。
爪をたて、壁を突き破ろうとしている。圧力は、遊楽を押した。
ち、と舌打ちをして、遊楽は左の腕を懐に入れ、別の紙片を取り出した。口で食い破り、いくつかの破片として、畳の床に撒いた。
破片は畳に接触すると同時に強く発光し、きん、という鋭い衝撃音を生じた。刃のような形状となった光は、破片の数だけ、獣の腹をめがけて飛んだ。
獣はぐうと苦悶の声を漏らし、手を緩めて退がる。
が、次撃は即座に繰り出された。
獣は同じ軌跡で走り、同じように壁に衝突すると見えた。しかし、構えた遊楽の目前で瞬時屈んで横に蹴った。
利蔵と瑞香の背に襲いかかる。
爪が届く瞬間に、遊楽が獣の腕を蹴り上げた。弾かれ、仰け反った獣は、上がった腕をそのまま振り下ろした。遊楽も腕を交差し、防ぐ。が、衝撃を消しきれない。側頭部を打たれ、遊楽は瞬時、意識を遠くした。
その隙に、獣は瑞香を攫った。
利蔵が覆い被さったが、その腹に爪を立てて弾き飛ばした。
もがく瑞香の頬を打ち、抱えて獣は天井に跳んだ。さかしまに張り付く。その両腕の間から、瑞香は目を薄く閉じ、だらんと首を垂らしていた。
「……仕挫った」
遊楽は頭部を押さえながら、しかし迅速にいくつかの紙片を取り出し、撒いた。部屋の四隅がびんと震え、光輝を帯びた。
遁走封じを行ってから、遊楽は、足元で腹を抑える利蔵のそばに膝を立てた。後頭部を掴み、ぐいと顔に近づける。
「猶予がない。云え。俺に任せると。娘を、瑞香を、俺に委ねると」
「……だ、めだ」
利蔵の腹から紅黒い血が流れている。手を当て、苦悶に顔を歪めながら、利蔵はわずかに首を振った。
「瑞香、は、もう……わた、さない」
「ならば元からそうすればよかったのだ! もう遅い、どのみち助からぬ、ならば俺に賭けろ、賭けると云え」
「……」
利蔵は何も云わず、横を向いた。
遊楽は大声を上げるべく息を吸ったが、止めた。ふうと吐く。
立ち上がる。
口中で小さく何かを呟く。
すると、光の壁が失せた。部屋全体を満たしていた蒼の燐光もかき消える。
「……お二人の彼岸の旅、善いものとなるよう祈ります。迷うて出てこられぬように」
すいと背を向け、縁側に足をかける。
と。
「……たい……」
小さな声。
天井の、獣の腕の間で、瑞香が声を出していた。
利蔵はふり仰いだ。手を伸ばす。震える指を、娘に向ける。
「あ……」
「……おと……さん……き、たい……いきたい……」
「……」
「しにた、く、ない……」
瑞香に意識があるのかは判断が難しい。
いまは瞼も閉じているからだ。
が、そこから落ちた涙が、瑞香の命運を塗り替えた。
利蔵は、だんと膝を立て、畳に手をついた。
遊楽の背に向けて頭を下げる。
「どうか、願います、娘を、瑞香を、救ってください……」
遊楽は、黙っている。
利蔵は言葉を続けた。
「……委ねます。あなたに、娘を、任せます、だから、だから」
遊楽は、ふうと息を吐き、振り返った。
懐から新たな紙片を取り出す。
右の小指をかざし、その先端の皮膚を噛み切った。
鮮血が手首を伝う。
その血で、紙片に大きく、みづか、と書き付けた。
「これで二重契約となる。あとは、獲り合いです。瑞香さんのね」
と、瑞香のうめき声。
獣が、彼女の肩に牙を立てていた。
「ああ……瑞香」
悲鳴をあげる利蔵の背越しに、遊楽は先ほどの紙片をかざした。薄い蒼に発光する。同時に、瑞香の身体も同じ色の燐光に包まれた。
獣はいちど彼女の肩から口を離した。が、さらに強く齧り付く。
苦悶の声をあげる瑞香に、遊楽は声をかけた。
「瑞香さん……瑞香くん。聞こえているね」
返答はない。が、遊楽は構わず続けた。
「君は物書きだ。作家だ。世界を創ることができる。どんな世界が欲しい。どんな世界で、生きたい。そこで君は、どんな姿をしている」
やはり、返答はない。その間にも獣の牙が刺さった箇所から鮮血が迸り、床にぱたたと落ちる。
利蔵は遊楽の顔を見上げ、わなないた。
遊楽の声が、いちだん、強くなる。
「考えろ。想像しろ。君の身体を。勁い君を。造るんだ。自分を。世界を。君が自由に奔り、跳び、笑っている世界を」
「……た、し」
瑞香が、かすかに声を出した。
「わ……た、し……の、せかい……」
「そうだ。君の世界だ。屹度、その世界で、君は美しいのだ」
「……うつく、し、い」
ぼう、と、瑞香を包む光がわずかに強くなった。
「どんな姿だ。何をしている。云え」
「……おおきなみみ……ひかる、め……ながい、おが、ふわりと、おどって……」
「そうか。ならば、手足も勁いのだろうな」
「……どこにでも、ゆける、つよいあし……つめ、も、きばも、するどく……そのうで、は、どんなてきをも、うちやぶ、って……」
単語ひとつが口から流れるたびに、光輝が増してゆく。
遊楽はその言葉を己の血により流れるように紙片に記した。
文字は、その置かれるそばから、光となった。
「続けろ」
「……まえに、すすむ……じゆうに、ほんぽうに、かのじょの、みちは、かのじょの、いのちは、ずっとずっと、みらいに、ながいじかんに、つながっ……て……」
が、そこで瑞香の言葉が止まった。
光は収束する。薄れ、静寂に戻ってゆく。
遊楽は、叫んだ。
「問おう。名は」
瑞香の表情は、動かない。
生命の火が残っているかは、読み取れない。
「美しい君を、勁い君を、俺は、なんと呼べば善い」
反応がない。
遊楽は、だが、信じて待った。
報われたのは、十を数えた頃だった。
瑞香の唇が小さく動いた。
「……り、る、る……」
刹那。
部屋のすべてが、直視することの能わぬ光で埋められた。
同時に、匂い。
咽せ返るような沈丁花の芳香。