第29話 あなたと
「……せん、せ、い……」
瑞香が小さく声を出す。
鬼の面影が消えている。
白の世界で、鬼と瑞香は分離し、存在を隔てている。
ともに立ち上がれずにいる瑞香と牡丹に、遊楽は柔らかい視線を落とした。
哀しげな瞳。
その哀しさに苛立ったように、牡丹は声をあげようとし、喉の痛みにごふっと咽って、肩を大きく上下させた。
「……瑞香さんを、頼むって……意味、取れません。いつも先生、おっしゃって、ますよね。言葉は、相手を、伝える者の顔を思い浮かべて、紡げ、って……」
再び咳き込み、声を詰まらせた。いちど止まっていた涙がまた頬を伝っている。呼吸の苦しさによるものではない。
「理解りません、伝わりません、わたしも、瑞香さんも、そんな言葉、要らない、要りません」
「牡丹」
遊楽はふっと、こぶしを口に当てて息を漏らした。笑ったのだろう。
「君は、佳い花神巫になる……ああ、それと、預かっていた原稿な。好く書けていた。俺の卓机に手紙がある。紹介文だ。いつもの仲間に持っていって呉れ。掲載るはずだ」
と、中空に浮く鬼が唸り声をあげて身悶えしたから、遊楽はちらとそちらを見て、左の手のひらを翳した。白い背景のなかから蒼い光がいく筋か指し、実体化して、さらに強く鬼を縛る。
そうしてゆっくり振り返り、今度は瑞香に顔を向けた。
「瑞香君。済まなかったな」
「……え……」
瑞香は、なかば魂が抜けたような表情で横座りをしている。遊楽の顔を振り仰いだ。子供のようなあどけない目に、遊楽はわずかに躊躇い、それから穏やかに声を出した。
「怖い目にいろいろと、あわせて仕舞った」
「……」
「君のことはずっと、見ていた。子供の頃からな。病に伏せていることも識っていた。それに……時折りは、店にも行った。肩掛けをして店番をする君の様子も、見たことがあるのだ」
「……」
「細くて、白くて。こんな子が、と、思った。間違っていると感じた。が、沈丁花の秘傳は君を指し示していた。そうして、あの日……」
遊楽は鬼の方を見て、再び瑞香に振り向く。
「賭けだった。卦を読んで駆けつけたときには、もう君の生命はなかば消えていた。だから、君の中の鬼を引き出した。生命力だけを利用して、あとは俺が力づくで抑え込めば好いと思ったのだ。だが、君は、予想を超えた」
「……こえ、た」
瑞香が応えるように細く声を出したから、遊楽は微笑んだ。
「ああ。君は……りるるは、美しかった。決して外道などではない。鬼でもない。君が描いた世界、君が造った、あたらしい君の姿。俺は、奇跡を見ていると思った」
「……わたしが、つくった……あたらしい……わたし」
「そうだ。君が、君自身が、だ。鬼でもない、呪いでもない、新しいりるるを、新しい君を、君は描いた」
そこで、遊楽は目を下に落とし、小さく首を振った。
「……が、残念ながら、及ばなかった」
「……」
「菖蒲が、あの国が蘇らせてしまった。本来の鬼を。俺が呼び、君が造った力が、あるいは鬼を拉ぐかとも思ったが……結局は、及ばなかった。すべては俺の力不足だ。済まない」
と、遊楽がふいに背をのけ反らせた。目に苦痛が浮かぶ。わずかに肩を震わせる。
「……だから、責任を果たす。そういうことだ」
「……つとめ」
「鬼は、俺が連れてゆく。そういう術を使った。俺の身体はいま、遠い場所にある。その心臓が停止するときに、術が完成する」
「……」
「鬼と共に、冥獄に堕ちる。ちと長い旅になるが、已むを得ん」
「……駄目」
瑞香の瞳にゆっくりと光が戻る。焦点が適合う。ふるっと顔を振り、改めて遊楽を見上げる。
「駄目」
はっきりと声を出した瑞香に、遊楽はふたたび微笑んで見せた。
「……君の呪いは、俺が引き受ける」
「駄目」
「なに、鬼が居なくなっても、生命力は残る。君はもう、伏せることはないだろう。父御のもとに戻って静かに暮らせ」
「先生」
「救うためとは云え、鬼に……あやかしの姿などにして仕舞って、悪かったな。忘れて呉れ。もう、そんな目に遭うことはない」
と、遊楽の目がまた大きく開かれた。苦しげに幾度か息を吐く。落ち着かせ、鬼のほうに振り返ってから、薄く透けた手のひらを見る。瑞香と牡丹に順に目を落とし、頷いて見せた。
「刻が来たようだ」
遊楽の足元。白い地に、黒い染みが浮かんだ。
その染みから、炎。炎の色が、昏く、黒い。
ゆらりと上がった炎は、すぐに遊楽の腰から下を覆った。
同時に、鬼の束縛が薄くなる。戒めから解き放たれ、鬼はずんと、地に降りた。低い唸り声をあげ、身を起こす。遊楽に向き直る。遊楽も、鬼に向かった。
その頸に、鬼の腕が伸びる。
遊楽は抵抗しない。
「先生っ」
牡丹が跳んだ。
が、弾き飛ばされる。
遊楽と鬼の周囲の見えない壁が、牡丹を拒んだ。
喉を掴まれ、遊楽は顔を上に上げている。
苦しげに眉を歪めているが、その目を牡丹に向け、いちど瞼を閉じて見せた。意図は牡丹にも容易に理解できたが、受け入れない。何度も跳ぶ。手刀で打ち、回転して蹴りを放ち、肩で当たる。が、這入れない。
「先生、先生」
泣き、喚きながら壁を撃ち続ける牡丹の前で、遊楽の身体が、足元の昏い炎のなかにゆっくりと沈みはじめた。
同時に、鬼の口が遊楽の喉に近づく。
牙が当たる。
遊楽は目を閉じ、小さく微笑んだように見えた。
と。
ずず、ん。
巨大な岩どうしを叩きつけるような、重く鈍い音。
その音は、衝撃で転倒した牡丹のすぐ横で生じていた。
「う、あ、あ」
瑞香は声をあげながら、もう一度こぶしを振りかぶった。
叫びながら、叩きつける。
腕を振り抜く速度に空間が悲鳴を上げる。
圧搾された空気が腕と壁との間で破裂し、轟音を生じる。
衝撃が牡丹の足元を揺らした。
「……瑞香、さん……」
牡丹が見上げた瑞香の瞳は、縦に裂けている。
だが、蒼い。澄みとおった、静かな蒼。
先ほどまでの鬼の赫ではない。
湛えた蒼が、わずかな光輝を帯びながら、眉に、髪に、広がってゆく。
「……莫迦っ」
再び、轟音。
瑞香は眉を逆立て、叫びながら、打ち続ける。
「誰が、そんなこと、云いましたか……誰が、あやかしにされて、苦しんでいるって、云いましたか」
鬼の動きも停まっている。
その腕に掴まれたまま、遊楽は薄目を開け、瑞香の姿を見ている。
「誰が、わたしの呪い、引き受けて呉れって、わたしの前から、居なくなってって、そんなこと、云いましたか」
瑞香の目から、溜めていた涙が落ちた。
涙すらも蒼を湛えている。
長く黒い髪がふわりと、持ち上がる。
その先端から、ゆっくりと蒼に染まってゆく。
「わたしは、楽しかった、ほんの短い間だったけど、先生に、牡丹さんに、柳太郎さんにおやかたさまに、みんなに、会えて、過ごせて」
振る拳の速度が増している。
拳で打ち、即座に膝を出し、回転して踵を叩きつける。
そうした打撃は、やがて牡丹の目で追うことができなくなった。
「わたしは、嬉しかった、先生に、教えてもらえて……わたしが、わたしの世界を、選んで善い、造って善いって、云ってもらえて」
風圧が生じて、牡丹は瞬時、目を逸らした。
戻した目の前で、瑞香の体躯が変化している。
身長も、各部の寸法も、異なっている。
「生きて善い、進んで善いって……父に、誰かに、与えられた生命じゃなくて、自分で選んだ生命のなかで、自分で選んだ、選び取った、喜びと、苦しみのなかで」
着物の裾が割れ、ふわと、長い尾が躍り出た。
その尾を逆立てて、瑞香は叫んだ。
「わたしは、選んだ! この身体を、この呪いを、あなたを、あなたと生きることを、わたしが、自分で、自分のためにっ!」
長い爪を、がん、と突き立て、引きちぎるように引き、牙を立てる。
ぎいいと歪んだ音が響き、次の瞬間、なにかが破裂し、消失した。
鬼が遊楽の頸を放し、瑞香に向き直った。赫く燃える腕を振り上げ、打ち下ろす。が、瑞香は避けない。
ずん、と、地が揺れた。
軽くあげた指先が鬼の腕を支えている。
目元に紅を置いた切れ長の目を伏せ、瑞香はふうと息を吐いた。
沈丁花。
凄まじいほどの香りが、白い異空間の全域を瞬時に埋めた。
「……わたしの男に、手ぇ、出さないでもらえる……?」
鬼は、脚をわずかに退いた。
顔を上げた瑞香の瞳。
その蒼い炎に、怯えたためである。




