第26話 花泥棒の恋慕
言葉の終わりまで、遊楽は待たなかった。
奔っていない。床を蹴ってもいない。が、その身体は瞬時にしてイーリスの目前にあった。遅れてきた風が女の薄い金の髪を揺らす。
微笑んで、イーリスは正面から遊楽の目を受け止めている。
「あら、怒った。瑞香さんの名前を出すと怒る。覚えました」
返さず、遊楽は右手を振り上げている。指先の紙片が燃焼するように発光し、一筋の光となった。光は実体化し、輝く刃となって遊楽の右手に収まっている。
ふっという気合いとともに振り下ろされたそれは、だが、溶岩のようにどす黒い光を放つ腕によって止められた。イーリスと遊楽の間に割り込んだ轟天丸は、受け止めた腕はそのままで、巨大な右の拳を遊楽の脇あたりに放った。
遊楽は背に拳を流すように躱し、回転して刃を横に薙いだ。轟天丸もイーリスも飛び退る。
「ふふ。ゴウテンマル、傷つけてはならぬのではなかったのですか」
「……引き剥がす、と云ったな」
剣を構成する光が徐々に薄くなり、消えた。右手を懐に差し込みながら、遊楽は冷たい視線をイーリスに向けた。
「ならばこれは、正闘か」
「いいえ。わたしは花神巫としてあの悪鬼に勝つことはできない。それくらいは理解っております」
「では、如何する」
「……さて」
イーリスが腕を軽く振ってみせた。轟天丸の左右の腕がその胸の前で組み合わされ、ばんと前に突き出される。空気の槍が無数に生成され、そのすべてが遊楽の心臓を目指した。遊楽は懐でわずかに指先を動かす。ぎん、と、胸のすぐ前に光る壁が生成された。槍は壁に突き当たり、消失した。
「まずは瑞香さんをあなたから引き離さねばと考えておりました。あなたは自らの血を与えることで、悪鬼を強く縛りながら目覚めさせることができます。だから、邪魔をさせないためにね。ところが、奇縁。あなた自身が瑞香さんを伴うことを断った。これも、この邦の云い方では、宿命となるのでしょうね」
轟天丸が奔る。膝を曲げ、屈んだ遊楽の頭上に拳を振り上げる。遊楽は光の壁を右の二本の指で支え、なにかを呟いた。収斂しながら回転した光は円錐のような先端を生じ、爆発的な速度で正面の轟天丸へ射出された。
上半身を弾き飛ばされ、仰け反ったが、轟天丸は右の爪を今度は掬い上げるように突き出した。ぎりぎりで新たな壁を生成することに成功した遊楽は、それでも轟天丸の腕力の前に吹き飛ばされ、堂内の反対側の壁に激突した。
「……次に、新たな憑り代を用意すること。我々の術でも、なにもない空間にあの悪鬼を引きずりだすことはかなり難しい。だから、いったん憑り代の肉体に移すのです。それが、あの牡丹……ピオンの花神巫の役目です。もっとも本人には、自由に使えるあやかしとして与えると、方便を云ってありますけれども」
ごふっ、と、血の混じった唾を遊楽は吐き出し、立ち上がって、懐から数枚の紙片を抜き出した。床を軋ませながら走り寄る轟天丸。遊楽は両手の指先に紙片を挟み、交差させ、なにか呟きながら撒いた。紙片はすぐに消失し、代わりに周囲の空間が歪んだ。遊楽に到達する直前、彼は手のひらを下にし、押し下げた。
轟音とともに、凝集されて氷塊のような質量を獲得した膨大な空間領域が、その光の鬼を圧壊せしめた。
「あら。ゴウテンマル、負けちゃいましたね。案外、使役えない」
「……力づくで、引き出す心算か」
ゆらりと立ち上がった遊楽は、脇腹を抑えながら苦しげな声を出した。肋骨に異常を生じているようだった。
「りるるを、瑞香君、から。どんな術をつかう気かは識らん。だが……それが何を意味するのか、君らは真実に、わかっているか」
轟天丸は光を失って小さな球体に戻りつつある。その様子を眺めてから遊楽に視線を移して、イーリスは愉快そうに肩を揺らしてみせた。
「わかっていますとも。神の光のもとに悪鬼を引き摺り出し、ひと息に打ち滅ぼす。それが我々に与えられた力です」
「……りるるを造った術師も、君らのような自信過剰の、愚か者だったのだろうな」
「……は」
「世が滅ぶぞ。瑞香君は……りるるを宿した女は、その身そのままで、封印だ。古代の花神巫が身をもって成した封印を受け継ぎ、護ってきた。花神巫の家に生まれたのなら識っているだろう」
「……ええ、聴いてますよ。うんざりするくらい」
イーリスは不機嫌そうに鼻の根に皺を作ってみせた。
「だから、云っているではありませんか。この邦には足りないものがあると。黴臭い因習に縋って、色褪せた古代の呪いを恐れて。新しい力を受け入れることを恐れている。だから我々が来たのです。旧い空気を、澱んだ考えを討ち払ってあげると云っているのです」
「……俺も物書きだが、余計な世話、という他に言葉が見つからん。運試しは自分の国の悪魔を相手にやって呉れ」
そう云い、遊楽はふらりと足を出した。戸口を目指している。
「何処にゆくのです」
「……茶、馳走になった。美味かったよ」
把手に手をかけ、引こうとする。
その背に、高く跳んだイーリスの手刀が降る。すいと右に逸れ、振り上げた肘を相手の腕に打ち下ろす。イーリスは逆らわずに衝撃を逃し、腕を引いた慣性を左の脚に載せて打ち出した。遊楽も膝をあげて阻止する。が、先ほどしたたかに打ちつけた脇の激痛が反応を遅らせた。
まともに打撃を受けた遊楽は仰け反り、呻いた。が、即座に屈み、足払いを送る。イーリスは跳んで逃れると同時に上半身を捻り、水平の蹴りを遊楽の顔面に叩きつけた。腕を組んで耐えた遊楽は、それでも弾き飛ばされ、転がった。
その上に、イーリスが組み付く。
遊楽の肩口を肘で押さえ、首に上腕を置いて、動きを封じる。
互いに荒い息を感じるほどの距離となる。
「……遊楽」
潤んでいる。瞳は、目の前の男を欲して湿度を増した。
「……わたしのところに、来なさい。時代は変わる。一緒に世界を獲りましょう。あなたとわたしが組めば、指導者すら超えられる。沈丁花に足りないものは、わたしが埋めてあげる」
イーリスが送り出す言葉には、匂いと色が載っている。匂いは、菖蒲。そうして色は、黒く輝く粒子となって、宙に紋様を描く。
「瑞香さんに向けている視線の、意味。わたしは識っている。ずっと、ずうっと、あなたを見ていたから。この作戦は、わたしが策定た。あなたのために。あなたを、我が国に……わたしの下に、召ぶために。あの悪鬼から、くだらない呪いから、引き剥がしてやるために。あんな女を、見ないで済むように」
縛られたように横たわり、目を見開いていた遊楽は、だが、酸素が脳に行き渡った機会に動いた。押さえられていた脛を捩り、自由にして、膝を蹴り上げた。イーリスはなおもそれを抑えたが、反対の膝が彼女の脇腹に刺さった。
はね除け、跳ぶ。顔を歪めたイーリスが、燃える青の瞳を向ける。があっ、と、獣のような声をあげ、イーリスは手のひらを正面に突き出した。圧搾された空気が遊楽を捉える。岩で腹を殴られたように、遊楽は背を丸め、息を吐いた。
それでも、逃れた。戸口と逆、堂内の奥へ向かう。
その背に、複数の矢が飛んだ。
「……ぐ、あ」
振り向きざまに、遊楽は縫い付けられた。
跳んだ姿のまま、左右におおきく両手を開いたまま。
堂内の、最奥部。祭壇の上。
あたかもそのうえにかかる巨大な飾り硝子の、救世主の肖像のように。
「……大佐」
左右の扉が開いている。
複数の、イーリスと同じ格好、紺の儀式外衣の男たちが、何らかの手印を組みながら堂内に踏み入ってきた。
いずれの指先も薄く発光している。
「様子を伺っておりましたが、劣勢と判断しました」
「……そう、見えたか」
イーリスは腹を押さえながら、悔しげな表情を浮かべて立ち上がった。左右に寄る男たち。うち、上官と見える男が耳打ちした。
「ですが、重畳です。丁度いま、牡丹の花神巫が、標的の憑依体と接触しました」
「……そうか」
動きを止め、確認するかのように宙に視線を巡らせる。やがて納得したように、イーリスは下を向き、ふうと息を吐いた。
「理想的とは言い難いが、ま、贅澤を云っておられぬな」
「|すべての準備が整いました《エータブライラウダーチナ》。ご判断を」
しばらく黙し、イーリスは美しい宗教彫刻となった遊楽に振り向いた。わずかに揺らいだ瞳に、彼女自身も気づいていない。
ふいと目を逸らす。金の髪が覆った額から、表情が読み取れない。
「……作戦、花泥棒。現時刻を以って開始する」




