第24話 偉大な計画
教会の堂内は、いま、此岸であって、此岸でない。
情景が陰に沈んでいる。調度も設備も変わらないが、存在が揺らぎ、透けている。天井から降る光すら、歪められ、虚偽に堕とされている。
いまだ椅子に座ったままの遊楽だが、それでも平衡感覚を失いかけている。腹の底から不快なものが喉元に上がってくる。
空気が粘性と色を持ち、遊楽とイーリスを包んでいる。イーリスはその感触を楽しむかのように手のひらをゆらりと踊らせてみせた。
轟天丸が、跳躍んだ。
鬼、と表現するのが相応しい形態となった轟天丸は、だが、遊楽が識るような澄んだ光輝を放っていない。鈍く、撓んだ、消え掛かった熾火を連想させるような赫を纏って、神獣は遊楽の頭上にある。
轟天丸は右足を切先とした巨大な矢となり、遊楽に迫り、貫いた。
ずずん、と鈍い音。
が、遊楽の姿はない。
轟天丸の脚が長椅子を貫いている。破壊したものではない。陽炎を突き通すように、椅子も床も、轟天丸の脚の周囲で不確かに揺れている。
「……なにやら俺を救けると聴いたように覚えたが、勘違いか」
イーリスの背後。
腕を組み、小さな紙片を指先に弄んで、遊楽は嘆息した。
「それから、な。轟天丸は大事にしておけ。傷でもつけて返してみろ。牡丹の奴、どれだけ怒るか判らんぞ」
「問題ありません。返す予定も、心算もないのですから」
イーリスは振り返らず、傍に置いた器と皿とをふたたび手に取り、残った茶をくいと飲み干した。
「本当はもう少し先……例の会合の折に、と考えていたのです。でも折角、わざわざのお越しをいただいたのですから。それになにより、状況が理想的です。驚くほどに、ね。ただ……」
こめかみに手を当て、なにかを探るように目を細める。
「……うん、もう少し、かかりそうですね」
「……なにがだ」
「準備ですよ。ちょっと手の込んだ支度が必要なのです。舞台の用意が整うまで、もう少しだけお待ちください。それまでわたしが、お接待をして差し上げますから」
柔らかく微笑んだ口元から息を吐きながら、イーリスはふっと指を動かす。轟天丸は即座に反応し、わずかに屈んだのちに床を蹴った。イーリスをかすめて背後の遊楽に殺到する。振りかざした右手の爪が、遊楽の腹を貫く。
が、遊楽はわずかに身を逸らし、轟天丸の腕を傍に送っている。十分に引き寄せ、両の手で腕を挟む。膝を撓め、たんと跳ぶ。飛びながら身体を捻り、掴んだままの轟天丸の腕に載って、その首筋に紙片を押し当てた。
爆音。周囲の空気を瞬時に焼き切った炎の塊は、生じた衝撃波により、轟天丸の上半身を床に叩きつけた。
ふわりと着地した遊楽は、羽織ったままの二枚外套の乱れを直しながら、顔を顰めた。
「……今のは、君がやったことにしておいてくれよ。俺が叱られる」
「あはは。たしかに、承りました。ああ、だけど……あなたは、勁い。靭く、美しい。身震いするくらい。ますます欲しくなった」
イーリスは、ようやく立ち上がった。無造作に遊楽のほうへ歩いてくる。遊楽もそれを不快ともせず、相手の薄く燃える青い瞳をまっすぐ見返している。
「あいにく、俺の身柄は売り切れだ。在庫もない」
「では、奪いましょう。わたしの所有物になりなさい」
「くだらぬ」
「ガスパジェ、瑞香さんを迎えに行った時、たしか……君は、俺の所有物となった、とか仰っていましたね」
「……覗きが趣味とは、品の無いことだな」
イーリスは声をたてて笑った。
「それが、菖蒲の本質ですから。相手の心に這入る。相手の五感を使役う。語り、働きかけ、操って、我が目的を達する。ずいぶん長いこと、工夫したんですよ。我が国にありながら、こちらの国の亡者……怪異を、動かさねばならなかったので」
不快そうに眉根を寄せて、遊楽はふんと鼻を鳴らした。
「病人をあやかしに変じて救う、などと怪異どもに云わせていたのは、君らか。俺の……沈丁花の真似ごとまでさせて」
「はい、勿論」
「なんのために」
「悪鬼の種……瑞香さんを、見つけるために。そういう女児が生まれたのは判明っていたのです。星読み、でね。そして、その女は生まれつき身体が弱いことも。悪鬼の呪いです。だから、餌をたくさん撒いておきました。案の定でしたよ。ついでに花神巫たち、特にあなたが反応してくれれば、このあとの仕事がやりやすいと思っていたけれど。まさかあなた自身が現れるとは」
「瑞香君を……りるるを見つけて、如何する心算だった」
その言葉に、イーリスはしばし言葉を呑み、心底から意外そうに息を吐いて見せた。
「……やはり、この国には足りないものが多すぎるようです。ここまでされておきながら、我らの目的すら、掴んでいないとは」
「御託は不要い」
「そうですね。まあ、大掃除、というところでしょうか」
「……掃除だと」
イーリスは天井を見上げ、薄く昏く歪んだ陽光を集めようとするように両手を掲げて見せた。陶然という表情。謳うような声を出した。
「……近い将来。わたしの国が、この邦を獲る。戦争が起きます。まずは大陸を南進、そうして半島を経て、この土地に至ります。勝負にならない。兵力、装備、なにもかも。美しいこの島は、わたしたちの新しい領土となる」
遊楽はなにも返さない。凝っと、イーリスの横顔に視線を置いている。
「凍らない港。早い、春。桜。梅。たおやかな山々。ああ。どんなに憧れたことか……ですが、不要なものがある。古い、呪い。穢らわしいものです。我らの新しい、希望の島にあってはならない存在です」
「……」
「わたしたちは、新式の学問に基づいた力を重んじています。呪術もそうです。我が呪術大隊は、制御された神の力に基づいて、理に従って、世を平らかならしめます。そこに呪いなど、千年も昔の由来など、あってはならない。排除しなければならない。制御できない可能性があるものは、誤りです。間違いです。許されない。存在してはならない」
「……」
「だから、我々が従える。呪いの枠から引き剥がして、我々の霊的支配下にある依代に憑かせて、管理する。我が国の戦力として、活用する。仮に問題があれば、ただちに滅する。それだけです。本来のすがたから離れた悪鬼など、神の光を宿した我が部隊の前に敵ではありません。まあ、万が一手間取ったとしても、あの牡丹の花神巫ごと、存在を消却すれば好いだけ……あ、それと」
イーリスは手のひらを口に当て、ふふと息を漏らした。
「この邦の旧い術師たちは殲滅の予定です。でも、生き残った花神巫だけは、我が国の新たな戦力、呪術士官としてお迎えします。佐官での待遇をご用意しているのですよ。なんて喜ばしいことでしょう。棒給も、わたしに近い額になるかもしれませんね。ただ、あの……あなた、遊楽先生だけは、ふふ、ふふ」
青の瞳がぼうと、光を強くした。その目を向けて、イーリスはひとを外れた笑みを浮かべて見せた。照れたような表情を含んでいる。もしこの場に傍観者がいたとすれば、その情景の異常性に怖気をたてたことだろう。
「あの、あなたは、わたしが、飼います。上官にも、指導者さまにもご許可をいただいています。あなたは、あやかしにする。わたしの、飼われあやかしに。りるるを引き剥がしてから、最強の花神巫、この邦でもっとも勁い術師を、美しい術師を、わたしの、この手で、ああ……ああ」
「……ひとつ、聴かせてほしい」
引き付けを起こしたように背を震わせるイーリスに、遊楽は温度のない視線を投げつけた。
首をこきりと右に倒し、左に倒す。詰まらなそうな表情はそのままで、とんとんと、つま先で床を叩きはじめた。
「……瑞香君を見つけるために、怪異を差し向けたと云ったな。そのとき、瑞香君が喰われていたら、如何していた」
「あら」
イーリスは胸を抑え、ほうと息を吐き、大きな目をゆるりと撓めて見せた。
「そんなこと、どうでもよろしいじゃありませんか。偉大な計画と、わたしたちの新しい暮らしの前には」




