第23話 生まれてよかった
「ただいま……」
瑞香たちは、昼すぎには鬼灯亭に戻った。
唯一の店員、牡丹がいないので、店はとうぜん閉まっている。
瑞香は預かっていた鍵で戸口を開け、柳太郎を招き入れた。恐るおそる戸口をくぐり、できるだけ自分から距離をとろうとする柳太郎を、瑞香は適当な席につかせて、茶を淹れることとした。
牡丹からは店内の設備の説明を受けている。この家の炊事は店の厨房で賄うこととなっているためだった。滞在数日、火元に立つ機会がなかったから、薄暗い厨房でマッチを擦り、新式の瓦斯台に火をいれる行為は、瑞香のこころを高揚させた。
茶が入って、柳太郎と同じ卓につく。もじもじとする柳太郎になにか話題を提供しようと考えを巡らせるが、浮かばない。あまり、仕事、花神巫のことを訊くのも悪いのだろうかと気を遣ったのである。
そうして小一時間もずずと茶を啜っていると、なにやら瑞香も落ち着かなくなってきた。なんだかんだと、ここにいる間は遊楽なり牡丹にものを言いつけられてこなしていたのである。柳太郎については客のあつかいはしなくてよいだろうと、瑞香は立ち上がって、掃除をはじめた。
柳太郎はしばらく、さらに居心地の悪そうな顔をしていたが、やがて瑞香の真似をしてそのあたりを片付けはじめた。そうすると瑞香も頼みやすく、ではすみません、あれも、それも、と、いつの間にか掃除の手は二階にまで及んだのである。
そうしているうちに、柳太郎が笑顔をみせるようになったことに瑞香は気がついた。それがまた嬉しくて、いろいろのことを頼む。店内も二階もあらかた片付く頃には、互いに冗談を云えるほどには打ち解けていた。
「あれ、いつの間にかこんな時間ですね」
柳太郎が壁時計を見上げて声をあげた。
「あ、ほんとう。もう二時間も」
瑞香はたすきに掛けていた腰紐を解きながら、ふふと笑った。
「柳太郎さん、手伝ってくださって助かりました」
「いえ……掃除、好き、です、から」
「あら。将来の奥さま、しあわせもの」
急速に頬を桃に染める柳太郎を、瑞香は穏やかな笑みを浮かべて見つめた。そうして、膝の前で手を揃えて、頭をさげる。
「……ありがとう、ございます」
「あ、ですから、掃除は」
「いえ、そうではなくて……仲良くして、いただいて」
「え」
「……わたし、病弱で。小さい頃からずうっと、寝てたんです」
「……」
「外で遊ぶことも、できなくて。お出かけもほとんど、したことがありません。だから、友だちなんて……本のなかで、おはなしのなかで、頭のなかで。いろんなひとを作って、友だちになって、おしゃべりして」
下を向いて静かに話す瑞香の横顔を、柳太郎はちらと見て、恥じたように下を向き、それでも目をあげて、凝っと、みつめた。
「……いのち、無くなるって、思って。そのときに遊楽先生に、救けていただいて。暮らしが、ぜんぜん変わって。ふふ、わたしね、ひとりで出かけることだって、生まれて初めてだったんですよ」
「……」
「父に、おまえは、ひとならざる者になった、覚悟せねばならぬと、強く云われました。尤もだと、思いました。落ちるいのち、拾っていただいたのですから。どんなことをされても、どんな目に遭っても、好い。そう、思いました」
「……そんな、ことは……」
「でも」
瑞香がふいに、強く言葉をだしたから、柳太郎はぴくと動いた。
「でも、遊楽先生も、牡丹さんも、そうして、柳太郎さんも、祢禰さまも。みんな、みんな。お優しくて。とても、とても、楽しくて……あの」
「……はい」
「わたし、生きるって。どんなことか、判明らなかったんです」
「……」
「ごはん、食べて。眠って、朝を迎えて。そうして、眠る。それが、生きるっていうことだと、ずっと、思っていました。でも……違った。違ったんです」
「……」
「笑って、泣いて、慌てて、驚いて。傍にいてくださるひとたちの、表情を見て。みんなの表情が動くのを見て、わたしも、笑って。明日はどんなことがあるのかなって、楽しみに、眠る。朝が来て、おはようって、云いあって。掃除する。お店を手伝う。書き付け、頑張る。先生に文句を云われながら。牡丹さんにお化粧、お着付け、習って……ねえ、柳太郎さん」
「……」
「ありがとう、ございます。わたし、生まれてきて、善かった」
俯いた瑞香の顔から、ぽとりと、いくつかの雫が落ちるのを目撃したから、柳太郎は驚愕の表情をつくり、左右を見回し、指を揉んで、それでも、おずおずと懐の手巾を差し出した。
「……ずっと、ずっと。いのち、いつ壊れたっていいって、思ってた。でも……いまは、違います。死にたくない。わたしのいのち、最後まで、使いたい。みんなと一緒に、わたしの、ために」
柳太郎は、返すことばをいくつも浮かべながら、云えなかった。云えないが、それでも、瑞香に歩み寄った。いちど手を出し、引き込め、また出して、瑞香の背にゆっくりと置いた。
「……みんな、瑞香さん、好きだと、思います。あの……僕、も……」
濡れた頬のまま、瑞香は柳太郎に振り返り、驚いたような表情を浮かべて、それでも微笑んだ。
その笑顔に、柳太郎もおなじ温度の表情を返した。
その、とき。
瑞香が目を見開いた。
胸を押さえる。
膝を折り、しゃがみ込み、床に手をつき、口を大きく開く。酸素を求めて、喘ぐ。手を喉にあてる。
「瑞香さん……大丈夫ですか。瑞香さん」
瑞香は顔をあげ、柳太郎に向けた。涙を浮かべたまま眉を歪め、首を振る。振った意図が判明らず、柳太郎は瑞香の横に膝をついた。
「……だ、め……に、げ……て」
「え、なに、どうしたんですか」
「……くる、から」
「なにが、ですか」
と、ずん、という重い音。続けて二度、そして三度目。
店の扉が乱暴にばんと開かれるのと、瑞香たちの横の窓が破砕するのは、ほとんど同時だった。
いずれからも複数の黒い影。店内に転がるように入る小さなもの、あるいは、床を踏む重い音を響かせて歩み寄る、天井いっぱいまでの高さの。数は、十五ほどもあろうか。
昏い霧のように思えたその影は、光を受けずに、徐々に形状を獲得していった。壊れた窓から見える屋外に、光がない。陽光がない。夜のように、あるいは地下のように、風景が虚構の沼に沈んだかのように、重い白と黒に反転していた。
影は、牙を、爪を持っていた。
悪意もまた、同様である。
「なんだ……こいつら」
膝を曲げて苦しむ瑞香を背に隠し、柳太郎は、それでも即座に反応をみせた。体術に優れるのは花神巫の全員が有する特徴だが、柳太郎はそのうちの特筆である。両の腕をいくどか交差させ、足を開き、獣の顎のような形に手のひらを構えた。
「瑞香さん、動けますか、厨房へ」
云いながら柳太郎はわずかに振り向き、硬直した。瑞香の瞳が、蒼く光っていたからである。黒い髪がわずかに燐光を帯びている。が、荒い息を吐きながら、瑞香は細く声をだした。
「……わたしを、狙って、ます」
「はやく、厨房へ、僕が護りますから」
「……りゅうたろう、さん……わたし、を、つかえ、ますか……」
「えっ」
「……わたし、も、あやかし……闘え、る、はず。おねがい、使役って」
柳太郎は、動けない。目の前のあやかしに動じなかった脚が、わずかに震えた。
と、犬ほどの黒い怪異が二人に飛びかかった。柳太郎はとっさに瑞香に覆い被さり、それでも右手を床について、左の脚を後ろへ大きく振り上げた。その踵が怪異の顎と思しき箇所に命中し、怪異は、天井へ叩きつけられた。
小さな怪異が左右から二人に迫った。柳太郎は手のひらをぱんと合わせ、くっと引き離し、左右に突き出した。光輝を帯びた右の掌底が怪異の中心を喰い、その体躯を四散させる。
が、左を仕挫った。牙が柳太郎の左腕を斬る。肩に食い込む。ぐっと唸り、柳太郎は腕を振った。怪異が退ると同時に血潮が飛ぶ。
肩を抑え、それでも瑞香の前に立つ。
その背で瑞香は、声を絞り出した。
「……柳太郎さん……おね、がい」
「駄目です。いけません」
「……まもり、たい」
「……」
「役に、たちたい……わたし、は、そのために、生まれ変わった……柳太郎さんの、先生の、みんなの……それが、わたしの、命の、意味……」
触手のような腕を蠢かしつつ、影が、ずるりと二人に迫った。幹ほどもある腕を持ち上げる。と、瑞香が力尽きたかのように、がくりと地に両手を置いた。その背に振りかざされる腕。
柳太郎は、ぐっと唇を噛んだ。瞬時、目を瞑る。
見開き、瑞香の首に腕を当て、短く叫んだ。
「……椿が命ずる、勝て、生きろ!」




