第18話 声
「煩い」
遊楽は俥の右端で頬杖をつき、流れてゆく繁華街の風景をただ静かに眺めていたのだから、わずかに口の中で云うだけだった牡丹のその小さな呟きも拾うことができたのだ。
「どうした」
「あ、う、ごめんなさい。へへ、独り言」
早朝とは云えないが、充分に夜明けの湿度を残した大気のなか、俥は帝都の中心部を目指して南西に走っている。
祢禰が暮らす遊郭は街の北東、明治維新から二十年以上を経た現今にあってもいまだ葦の残る河岸を背にした場所にある。早春の涼やかな空気が車夫の意気に適ったのだろうか、俥の道行きは捗っていた。一時間も走らぬうちに、御城、当世のことばでいえば皇居となろうか、ともかく鬱蒼の森を望む場所まで至ったのである。
「厠か」
遊楽がなおも云うので、牡丹はふんと唇を曲げてみせた。
「だいじょぶです、子供じゃないんですから」
「遠慮せずに云え。このあたりならどの飯屋でも借りられる」
「……子供じゃ、ないんですってば」
気遣わしげな遊楽の視線を打ち落とすように、牡丹は右手を振った。
数泊、互いに頬杖で左右を眺めていたが、牡丹がその姿勢のまま、今度は呟きではない声を出した。
「……昨日、瑞香さん。先生のご指示もないのに、変化てましたね」
遊楽は、姿勢を変えない。なんの表情も浮かべずに路傍の風景を眺めている。
「そう、だな」
「そういうものなんですか」
「……おやかたさま、祢禰さまの荊薔薇に反応したんだろう。本能だ。あやかしは、獣と同じだ。自分より勁いものに触れれば本性がでる。喰われる前に喰おうとしたのだろう」
「先生の制止も、聞きませんでしたね。沈丁花のあやかしって、そんなものなんですか」
妙に突きかかるような牡丹の云いぶりに、遊楽は顔を左に振り向けた。
「なにが云いたい」
「……いえ。お気に触ったのならごめんなさい。ただ……」
「なんだ」
「先生。瑞香さん……りるる、さん。大事に、してあげてください」
牡丹の目線は、流れてゆく景色にある。動かない。遊楽の方を、見ようとしない。
遊楽は言葉を返さず、ただしばらく牡丹の横顔をみてから、また路傍に視線を移した。
流れる風景を見ながら、牡丹は、聴いていた。
『……ようやくお返事、いただけましたね』
軋むような、掠れた声。
音は高い。女の声か。
数日前から聞こえてきていたその声は、耳障りの好い音階で、牡丹の鼓膜に言葉を置いてゆく。
『あまりに返答がないので、もしやあなたは花神巫ではないのかと、疑っておりました』
牡丹は、喉の奥で、声とならないような声を出す。今度は遊楽に届かない。
「……どこから見てる。なんのつもり」
『あはは。見てはいますが、あなたの眼を通してです。あなたが見ているものしか見ていません。不都合であれば、眼を閉じていてください』
「出てって。わたしの頭から」
『さて、それはあなたのご返答次第』
「巫山戯ないで。どこの怪異風情か知らないけど。揶揄う相手を間違えてる」
『いいえ、あなたこそがふたつ、間違えています。ひとつ。わたしは、あやかしではない。ふたつ、あなたは牡丹の花神巫、牡丹さんに間違いない……ああ、ご本名の方がよろしいですか、桔梗坂 丹三郎さん。ふふ』
だん、と、牡丹が俥の手すりを叩いたから、遊楽は思わず腰を浮かせた。
「なんだ、どうした」
遊楽の顔に牡丹は手をひらひら振り、笑ってみせた。
笑っているあいだにも声が途切れない。
『ああ、先生、遊楽。相変わらず、美しい。ひさしぶりに視界に収めていただいた。佳いものを見ました。今日はやや、無精髭が濃いようですね』
「……怪異の上に、変態。救えないね」
「怪異ではないと申しました……いや、本当はもう、お判明りなのでしょう」
「知らない」
『ふふ。ま、好いでしょう。それで、お返事のほどは、如何に』
「……」
『黙っていては判りません。嫌なら嫌と。他にも手はありますのでね……ただ、勿体ないと判断しますよ。あなたのためにも』
「……快く云うね」
『両者、相勝ち。最上の戦略です。わたしたちにとっても、あなたにとっても損のないおはなし。乗られぬ理由が判りません』
「……負け犬」
牡丹の喉の言葉に、相手は、しばし沈黙した。
あとの言葉は、ざわりとした棘を帯びている。
『あはは。負け犬。沈丁花から逃げた祖父に伝えておきましょう。が、あいにく。わたし自身は、敗けたことはありません。どのような勝負においてもね。我が国でも、あなたの邦でも』
「……あなたも花神巫なら。正々堂々、姿あらわして正闘で奪えばいいじゃない。牡丹だろうが、沈丁花だろうが」
『あいにく牡丹の力には、興味はありません』
「……」
『ふふ、失敬。沈丁花とご自分を、同列に据えていることが可笑しくて』
「……顔を見せなさい」
『お望みなら、すぐにでも。さ、どうしますか。これは、親切です。あなた抜きでも話は、進みますから』
「……」
しばらく応答しなかった牡丹に、声は、数日前からなんども繰り返した台詞を改めて示してきた。
『あなたは、沈丁花を欲している。沈丁花を、あやかしを、恋うている。その絶対の力を、完全の生命を、己がものにしたいと。夜も、朝も、いまも。沈丁花……りるる、と、云いましたか。惚れ抜いている』
「……違う」
『これはわたしの台詞ではありません。あなたの独白、心の裡を拾い上げたのみです。まったく、美しいですからね、りるるさんは……。さて、ふふ。どうされたいですか。あなたのその、女物の上等の着物、取り払われたいのですか。あの、古代の怪異の、長い爪で。胸を掻かれたいのですか。口を、吸われたいのですか。でもね、昨夜は……』
牡丹の瞳が薄く、ぼうと光ったことを、どういう方法によるのか、会話の相手は察したようだった。
『おお、怖。ふふ。でも、そう、それで好い。望みなさい。花を。力を』
「……」
『あなたに、差し上げましょう。沈丁花』
「……」
『あなたは、たぶん、勘違いをなさっている。裏切れと云っているのではないのです。むしろ、逆。あなたが、救うのです。二人を。遊楽先生と、りるる……瑞香お嬢さんを』
「……瑞香さんに手を出したら、許さない」
『出しませんよ。それは、あなたの仕事ですからね』
牡丹は膝掛けを取り上げ、畳んだ。遊楽に振り向く。
「ごめんなさい、やっぱり、停めてください」
「ほら、みろ。我慢するもんじゃない」
「えへへ。ちょっと、待っててくださいね」
遊楽は車夫に声をかけ、俥を道端に寄せさせた。丁度、目の前に大店の日用品店がある。
牡丹は俥を降り、たたっとそちらへ走った。いちど脚を止め、遊楽を振り返る。ん、という表情で見返す遊楽。牡丹はなにも云わない。店の戸口をくぐる。
くぐった店内は、もう、此岸ではない。
牡丹は知識と、感覚によりそのことを理解している。
「……時間の流れは」
「外と一緒ですよ。長くかかりそうなら、停めますけれど」
店内は、設えも、棚も商品も、現存している。色も形も備えている。だのに、すべてが霞んでいて、揺らいでいた。陰鬱に沈んでいる。
ざらりとした粒子のような黒い霧が、牡丹を包んでいる。
両手を頭に廻して髪留めを外し、草履をすっと横に寄せながら、牡丹は上目に店の奥を睨んだ。
「一瞬で決める」
「あら、たのしみ。実際に見てみたかったんです、轟天丸」
店の横、一段ふかい闇のなかから、浮いてきた。
浮いてきた影は、金色の髪。金であるのに、昏い。光を持っていない。
伏せていた眼をくっとあげて、金髪の女は、愉快そうな声を出した。
「……こうしてみると、可愛い。あなたのことも、欲しくなった」




