第16話 菖蒲
たん、と、襖が開け放たれた。
「……美事である」
祢禰は盃を置き、心からと見える感嘆の息を漏らした。
瑞香は振り向き、漬物を取り落とした。汁物を手にしていなかったのは幸いであった。
「ほう」
遊楽は手酌で盃を重ねている。膝下に徳利が並んでいる。廊下のほうを見て片眉を上げ、彼も息を吐いた。
「素晴らしい。佳いものを観た。心が動いた」
「……すわって、よいでしょうか」
柳太郎は俯きながら小さな声を出した。
頭に載せた河童の皿に豪奢な簪が三本、刺してある。祢禰のものであろう艶やかな打掛の内には小袖ではなく、河童の腹の薄甲羅が覗いている。
だれも返事を寄越さぬので、河童の花魁として新たな生を請けた柳太郎は、しずしずとみずからの席に戻って腰を下ろした。
「そこでもう一度、尋ねよう。儂の年齢は」
「十五」
「ふむ」
「十四でいらっしゃいます」
「という訳じゃ、瑞香。千を差し引いても、ほんらいは遊楽より年上だ、儂が見た目を自由に操れるなどという、先ほどの柳太郎の世迷言を信じてはなるまいぞ」
「……は、はい……」
牡丹は憐憫の情を催したと見え、自分の鶏の煮物を柳太郎のほうへ移し替えてやっている。柳太郎は、こくりと頭を下げた。簪が揺れる。
遊楽は、初夏に脱皮をしくじって苦労している蝉の幼虫をみるような目線をしばらく柳太郎に送っていたが、やがて盃を置き、祢禰に向き直った。
「……さて、おやかたさま」
「祢禰じゃ」
「……祢禰、さま。そろそろご用件を伺いましょう。瑞香くんの顔をみるためだけに招ばれたわけではございますまい」
「む。云えば帰ってしまうだろう、そなたら」
「帰ります」
「では明日の夜、伝えよう」
「なれば出直してまいります」
膝を立てかけた遊楽に、祢禰は手を振った。
「にゃははは。戯れよ。じゃが、今宵は泊まってゆけ。風邪をひく」
「……検討しましょう」
「つれないのう。久方ぶりの逢瀬ではないか。儂もひとばん、主人を忘れるゆえの、遊楽も瑞香のことを放念して、とっぷりと」
「馳走になりました」
「まて、まて。戯れじゃと云うておる。にゃはは。瑞香も儂をそんな目でみるでない。堅物どもめ」
「ご用件を」
本当に立ち上がりかけている遊楽に、祢禰は再度、手をひらひらを振ってみせた。とんと座り、艶やかな脇息にもたれかかる。半月に撓めていた大きな目を伏せて、ふうと息を送った。
「……菖蒲よ」
「えっ」
反応したのは、牡丹だった。
「菖蒲……三代前に、姿を消した、花神巫……ですよね」
「見つかったのよ。というより、みずから報せてきおった」
「おやか……祢禰さまに、でございますか」
「や。お上……政府、じゃな」
「え、なぜ、お上に」
祢禰は大仰に腕組みをし、眉を逆立ててみせた。
「七日ののち、帝都の某所で、さる会談が持たれる。この邦と、欧州のとある大国が、内密で話し合うそうじゃ。儂もくわしゅうは知らぬが、なにやら、大きな駆け引きになるそうじゃの」
「……それが、花神巫に、なんの関わりが」
「来るのじゃと。菖蒲はの、忍んでくる外国の大臣の、近習、護衛じゃそうな」
「……え」
「そのことを花神巫に伝えよと、態々《わざわざ》、云うてきたらしい」
「菖蒲は、外国へ逃げていた、ということですか」
遊楽が口を挟むと、祢禰はこくんと首を傾けてみせた。
「そういうことになるの。遊楽、そなたの先祖に討たれた菖蒲の花神巫は、大陸へ渡って生き延びておった。そうして此度、その子孫が、父祖の地を踏むわけじゃ。どう思う」
「……正規の手順を踏んだ、正闘と伝え聞いておりますが」
「まあ、違いないがの。相手の存念は、どうかのう」
「もしや、ここしばらくの、怪異どもの跋扈のことも」
「かも、知れぬ。菖蒲の本質は、いのちあろうがなかろうが、他者の心を操ることじゃからの。彼奴の力がどれだけか分からぬが、あるいは、異国より我が地の怪異を操った……ということも、無くはないかもの」
「では、その会談とやらで、報復に及ぶと。この邦か、あるいは花神巫に」
「んにゃ、そこまでは思わぬ。そうであれば忍んでやってくれば好いし、態々、菖蒲の子孫ここにあり、などと吹聴する必要もなかろ。じゃが、考えがわからぬゆえ、なお気味は悪いわい。そこでだ、遊楽」
「……止めろ、と」
遊楽はそこで、わずかに瑞香のほうに振り向いた。瑞香は会話の詳細は掴みかねている。が、遊楽がなすべきことは、すなわち自分に課せられることなのだと理解していた。不安げに眉根を寄せ、遊楽を見ている。
祢禰もその表情を見ている。目線が合い、瑞香は目を逸らした。
「ま、なにもないかも知れぬがの。念の為じゃ。菖蒲に対抗できるのは沈丁花くらいじゃからの」
「……どうせ断ることなどできぬのでしょう。伺います。が、瑞香くんは伴いませんよ」
「ほ」
祢禰は遊楽の言葉に、なにやら愉快そうに口を窄めてみせた。
「沈丁花が、あやかしを護る、か」
「先ほどもご覧になったでしょう。俺もまだ、瑞香くんを完全には把握できていない。そこらの下司の怪異を相手にするのとはわけがちがうのです。奪われでもしたら」
「なに、奪われる? そなたが、沈丁花が? 血の、契りを……」
そう云い、探るような上目で、じとりと遊楽を見遣る。
遊楽はその視線を避けた。
「……や。もしや、もしや……そうか。なんと、のう。くふ、ふ」
祢禰は乗り出していた身を後ろに倒し、背の朱の梁に寄りかかった。
「なればの。不安にもなろう。にゃはは。うむ、好い。どのような手段でもかまわぬ。沈丁花の力は識っておる。任せよう」
遊楽は黙って頭を下げた。
膳の向こうでは、牡丹と柳太郎が顔を見合わせ、首を傾けている。
その二人に祢禰は、声を向けた。
「牡丹。そなたは遊楽と共にゆけ。柳太郎は瑞香のそばに。相手は沈丁花に存念をもつものじゃ。なにがあるかわからぬゆえな」
両手の先を端正にあわせ、低頭する牡丹の横で、柳太郎は固まっていた。が、自分を見遣って不安げに頭をさげた瑞香に、へへ、と、なんとか微笑みのようなものを返すことに成功した。
宴はその後もしばらく続いた。難しいはなしはそれ以上はなく、あとは柳太郎の四度にわたる衣替えと、祢禰の長唄、酒の廻った牡丹が祢禰と瑞香に対して当世の流行り化粧について講釈を垂れることで、時間が進んだ。
遊楽は、ずっと、壁に背をもたれかけて、何かを考えている。
瑞香はその横顔に時折り視線をむけ、そのたびに視線を返されたから、つど、悪事が露見したかのように狼狽えた。
深更。
祢禰は脇息に頭を置いて眠ってしまった。
慣れたものか、何人かの下女が入ってくる。膳を下げ、布団を敷き、祢禰を移動させ、上掛けを載せてやる。そうしていると、祢禰はまったく、十三ころの娘としか云いようがなかった。
お部屋へ、と促され、他のものも立ち上がった。遊楽も流石に足下が怪しい。もはや帰宅する気はなさそうだった。柳太郎は泥酔した牡丹を肩に支えながら、案内のままに去っていった。同室なのだろう。
同室は、だが、遊楽と瑞香も同じことであった。
祢禰の部屋よりひとつ階をあがらされ、奥には部屋がふたつあったのだが、そのひとつに、ふたりともが通された。
寝巻きも、布団も、並んでいる。
瑞香は閉められた襖の内側で硬直していた。
遊楽は布団に歩み寄り、どすりと腰を下ろした。
なんの動きもない時間が百をかぞえるほど経過し、遊楽が、ん、と、布団を示した。
「座ればいい」
逡巡したが、断る理由がない。
溶岩の上をあるくような歩調で、瑞香は、ふたつの布団が成した長方形のうち、遊楽から最遠の地点に辿り着いた。音もなく、膝をおる。
またしばらくの時間が経過して、口を開いたのはまったくの同時だった。
「あの」
「君の」
「……申し訳ございません」
「いや、む。うん」
「……ありがとう、ございます」
「何がだ」
「その、お仕事に。わたしを伴わぬと仰ったのは、この身をご心配、いただいたことと……」
「……君にはまだ、荷が重いと思った。それだけのことだ」
鼻の頭を掻く遊楽に、瑞香は久しぶりに、ふと笑うことができた。
「……さきほど、君の、と仰いました。なんでございましょう」
「……ああ。君の、作品。まだ感想を伝えていなかったろう」
「あ、はい……」
「佳く出来ていた。君のような年頃の女性が書いたと思われなかった。笑むでもなく、泣くでもなく、只々《ただただ》、とろりと溶けた命の向こうを伺いに行っていた。心の先端が、まるく柔らかく、削られる想いだった。知らず、君の身のうちで、君の声に目を瞑る気持ちになっていた。だから……」
云いながら、瑞香が頬を染め、唇を噛んで俯いているのが、ちいさな行燈の光でも見てとれた。遊楽は口を噤み、しばらく置いて、また言葉を継いだ。
「……次の秋には、載せる。俺の小説誌に。だから、それまで息災でいてもらわれねばならぬ。修整すべき箇所もおおい。理解ったかね」
遊楽はそれだけ言いおき、立ち上がった。どすどすと、覚束ぬ足を出す。
「俺は牡丹たちの部屋で寝る。ゆっくりするといい」
「あ、あの」
云わねばならない何かを忘れているように思い、瑞香は振り返りながら声をかけた。その声に遊楽も顔を向け、その拍子に足をもつれさせ、倒れた。
倒れたのは、瑞香の上。




