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第14話 荊薔薇


 昼食後の喫茶の客が捌けたあと、店を閉めることになった。

 瑞香みづかが筆記した原稿をしばらく眺めていた遊楽ゆうらが、満足したのか、では出掛けるか、と、唐突に宣言したためだ。


 「え、いまから、ですか……?」


 不思議そうな表情の瑞香みづかに、牡丹ぼたんはくるくると前掛けを畳みながら苦笑いを浮かべてみせた。


 「訪ねる先がね、夜しか開いてないの」

 「それにあの方は、ふだん夕方まで寝ておられる。以前、昼にお訪ねして酷くお叱りを頂戴した」


 遊楽も立ち上がりながら解説を加える。


 「え、お叱り……先生が、ですか」

 「ああ。怖いぞ、あの方は」


 遊楽はちらと振り向き、にやりと笑いを浮かべて、二階へとんとんと上がって行った。瑞香はその背を追いながら、出会ってからはじめて遊楽の敬語を聴いたなと、妙な感慨を持った。


 外出の支度をする。とはいえ、瑞香はとくだん持参する荷物もなければ直すような化粧もしていないのだから、さっと髪を整えて肩掛けを羽織り、手巾をたもとに置いたくらいのことである。

 牡丹は、華やかであった。鮮烈な牡丹色の友禅縮緬ゆうぜんちりめん。白い花弁が大胆に配置された大柄の袖に、濃紺の袴をあわせている。

 瑞香にとっては、袴を身につける女性を実際に見るのははじめての経験だった。

 もっとも、いまだ未体験と表現うこともできる。

 ともあれ手を口にあてて感嘆の息を漏らした。


 「……素敵」


 牡丹は得意げに袖をつかんで、くるりと廻ってみせる。


 「へへ。いいでしょ。女学校の友だちが多いからね、一緒に揃えちゃった」

 「動きやすそう」

 「椅子に座っても乱れないしね。こんど、お店、教えるね」

 「あ、行ってみたい……お金、あんまりないけど……」

 「うんうん、冷やかすのも楽しいよ。ついでにお化粧品も揃えちゃおう。近くにね、白粉下おしろいした小紅こべにを置く店があってね。そこで……」


 と、遊楽が降りてきた。銀灰色ぎんかいしょく大島紬おおしまつむぎ。黒の二枚外套インバネスコートを羽織っている。皮長靴ブーツの踵がごつんごつんと重い音をたてている。

 遊楽は、牡丹の格好なりをみて眉を顰めた。


 「物見遊山ではないぞ」

 「いいんですう。綺麗にしていればあのひと、褒めてくださるもん」

 「あ……わたしも、ちゃんとしていったほうが、良いのでしょうか……」


 瑞香が不安そうに胸に手をあてて訊くと、遊楽はちらと彼女の方を見て、ふんと鼻を鳴らした。何も云わずに戸口に向かったが、把手に手をかけて、聴き取らせたくないというような小声を出す。


 「君はそのままで充分だ」


 ばたんと扉を開け、外に出た。

 室内では瑞香が硬直している。

 牡丹は、遊楽の真似をしたのか、ふんと鼻を鳴らしてみせた。べっと舌を出し、変人め、と、小さく呟いた。


 いつの間に手配したものか、車夫しゃふの引くくるまが二台、用意されていた。店の前に横付けされている。

 遊楽は先導に行先を伝え、駄賃を手渡して、前の俥に乗った。牡丹と瑞香は後ろに乗り込む。ほいよっ、と車夫の威勢の良い掛け声とともに、風景が流れ始めた。


 空気が冷たい。が、凛とはった大気を切ってゆく道行きは、瑞香には心地よかった。見たことのない店、高い建物、人混み、早くも綻びかけている街路樹の梅を、瑞香は飽きずに目で追った。

 厚い膝掛けを瑞香と共有しながら、牡丹は、その横顔をじっと見つめている。


 長い時間はしったようにも思えたが、日没より前に目的地に到着した。前の俥が停まり、瑞香たちが乗る俥も続いた。

 到着のしばらく前から、街の風景が変化していることに瑞香は気づいていた。ひと通りが少ない。歩いているのは、男は懐に余裕のありそうなものが多く、女は、なにか着崩したような姿が目立つ。まだ陽があるというのに店先には行燈あんどんがかかり、そしてどの店も、ひっそりとしずまっている。


 いま俥がとまった場所も、そうした建物のひとつだった。

 二階建ての入母屋造いりもやづくり。落ち着いた小豆色の壁に、二階には、格子の窓と欄干が据えられている。その格子の向こうから、なにやら女たちがこちらを覗いていた。くちぐちに小さな声で、何かを云っている。

 なんて云っているのだろう、と、瑞香は意識を集中した。

 ひゅん、という風切り音。

 痛っ、と、瑞香は耳を抑えた。ゆっくりとその手を離すと、音が流れ込んできた。


 「あっ、牡丹ちゃん、きたよ」 

 「やあ、今日も綺麗だねえ」

 「わっちは今日は牡丹ちゃんの横につこう。あんたら、遠慮しなよ」

 「うるせえよう。ときに、遊楽先生は今日はお泊まりかねえ」

 「どうせねえさんの処だろう。ああ、たまにはわっちらの部屋にも上がらないもんかねぇ」

 「あの娘っこは誰だい」

 「さあて、はじめて見るねえ」

 「沁みったれだが綺麗なつらだよ。先生の、れこ、じゃねえのかい」

 「あんな、ほそっこい牛蒡ごぼう。れこの訳がえ」

 「ぎゃははは、あんたの洗濯板と良い勝負だよう」


 耳元で囁かれるように、声が鼓膜を突く。

 つい顔を顰めて、瑞香は窓のほうを見上げた。


 「あ、睨まれた」

 「聴こえてんのかねえ」

 「神憑かみつ文士ぶんしさまの連れだからねえ。もしかしたら、怪異ばけものかも知れないよお」

 「あやかしかい。ああ、怖や怖や」


 女たちの首が引っ込んだ。

 音も消える。

 ふうと息を吐くと、隣で牡丹が気遣わしげにこちらを見ていることに気がついた。


 「どうしたの。気分、悪いの」

 「あ、ううん。大丈夫。ごめんなさい」

 「揺られて、疲れたでしょ。少し休ませてって、先生に云おうか」

 「ん、ほんとに……あの、ここが、その、偉い方のおられる処?」

 

 遊楽が案内に導かれて建物の戸口を潜ったので、後に続きながら、瑞香は牡丹の背に問いかけた。


 「うん、そう。でも流石さすがに瑞香さん、はじめてでしょ。遊郭」

 「え」


 瑞香は思わず、足を止めてしまった。

 もちろん、来たことはない。言葉としてはっている。なにをする場所かということも、かすかに、うっすらと、おぼろげには解っている。が、冊子の上で見ただけのことである。挿絵はあったが、具体的なそれこれについて、もちろん図示しているはずもない。


 それがいま、この建物のなかに。

 瑞香はふいに恐ろしくなり、後ずさった。 

 牡丹が振り向き、寄ってきて、笑いながら手を引いた。


 「あはは、大丈夫だよ、ごはん食べるだけだから……たぶん」


 瑞香はわななきながら、引っ張られて歩いた。

 

 「あ、きた」


 朱色の梁が張られた廊下をしばらく進むと、角から出てきた柳太郎りゅうたろう出会でくわした。金と銀の派手派手しい装飾がなされた前掛けと、白い狩衣かりぎぬ。瑞香は、地元の神社の祭礼で見たお稚児ちごさんを連想した。頭にちいさな冠のようなものも載せられている。


 「なんだ、その格好なりは」


 遊楽が渋面をつくると、柳太郎は頬を赤くして横を向いた。


 「放っといてよ」

 「罰か。あの方の。俺たちにちょっかいを出したことへの」

 「違う。進んで着てる。選べって云われて、ちゃんと選んだ」

 「他の選択肢は」

 「……花魁と、河童かっぱ


 瑞香にはなんのことか判らないが、牡丹はくっくっと背を揺らしている。遊楽はふむと頷いた。


 「ならば、賢い選択だ。少なくとも似合ってはいる」

 「……こっち。先刻から、ずっとお待ちだよ」


 柳太郎が踵を返して歩き出した。みな、追う。

 複雑な廊下をなんども折れ、階段を上がり、また折れて、格子襖の前に立った。襖は、素材も装飾も上質であることが、そうした心得の皆無である瑞香にもすぐに見てとれた。左右に若い下女が控えている。

 柳太郎は、襖の前に膝をついた。


 「見えられました」

 「……いよ。お這入はいり」


 柳太郎のことばに応えが返る。と、瑞香の嗅覚は、部屋の向こうの香気を捉えた。ことばとともに、匂いが揺れた。女の声だった。

 遊楽が膝をつく。手をつき、額を床にあてる。牡丹も後ろに倣う。瑞香も躊躇いながら、後方で同じ姿勢をとった。

 襖がすぅと、わずかに開き、それから大きく開けられた。


 ぶわり、と、空間が真紅の花弁で埋められた。

 凶暴とも表現える香りにより、瑞香は瞬時にして、意識を飛ばされた。


 荊薔薇いばら

 その危険な名も、香りも、瑞香がはじめて接するものだった。

 


 





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