第13話 大事にして
「……俺はここで果てる。いのちは、失せる」
薄く開いていた遊楽の瞼が、下ろされた。
「……うせ、る」
瑞香は顔を伏せながら、囁くような声で応える。
「だが、君は何時でも感じるはずだ。俺を。その胸の内に。二人で刻んだ想い出を、核に。俺は、君の一部となるのだから」
「……なるのだから」
「指が伸ばされる。彼を膝に抱く女の頬を、伝う。涙を拭うように伝いながら、やがて温度が失われてゆく。すり、と、最後に彼女の首筋を擦過して、右手は落ちた。もう動かない。それを大事に持ち上げ、膝に置き直して、女は、濡れた目を空へ向ける。身体を離れた魂を目で追うように。それでも口元は微笑して……」
「ちょ、ちょっと、待ってください」
瑞香は書付を忙しく繰りながら小さな悲鳴をあげた。
「追いつけません、もうちょっと、ゆっくりで……」
「ぬ、これよりか。随分ゆっくりの心算なのだが」
「先生いっつも、地の文になると早口」
牡丹が卓の横を通過しながら尖った声を出した。盆にいくつかの食器を載せている。奥の席の客から引き上げてきたものだ。
混み合う店内をくるくると動きながら、ときおり遊楽と瑞香の席のところを巡って様子を窺ってゆく。気になるのだろう。
カフェ、鬼灯亭は、今日は昼前から客入りが良い。
ほぼ満席だから、その一角を朝からずっと遊楽が占拠しているのは不都合ではあるのだが、店としては何時ものことと気にしていないらしい。気が向くと、遊楽は執筆作業をその席で行うのだと、牡丹は説明した。
そして朝から、瑞香は遊楽を手伝わされている。口述を書き留めろと云うのだ。店が暇のときは牡丹が手伝うこともあるらしい。遊楽いわくは、文筆修行の一環とのことだった。
瑞香がここにやってきた日から、今日で三日目。
あの夜、店を訪れた少年とともに遊楽を迎えに出たと瑞香は覚えているが、気がつけば、ここの二階に寝かせられていた。
かけられていた布団をはぐって起き出したところ、廊下で牡丹に出会した。どうしたことか牡丹は頬を染め、目を逸らしながら、遊楽は戻っているという。瑞香は安堵し、そういえば、と、少年のことを口に出した。
牡丹は、ああ、と嘆息まじりに、すぐ横の部屋を示した。柳太郎ならそこで寝てる、熱が出たみたいで、遊楽先生が寝かせておけって。外にほっぽりだせばいいのに、と、牡丹は渋面をつくってみせた。
瑞香には経緯がまったく呑み込めなかったが、部屋のなかの様子を窺うと、うんうん唸りながら眠っているのはたしかにあの少年だった。
降りてゆくと、階下の店には遊楽がいた。瑞香を見つけて、濃い琥珀の液体が満たされた透明な器を持ち上げ、乾杯、と云って微笑ってみせた。
その強い酒のつまみは、あんぱんだった。
その夜はそのまま、みな休むこととなった。遊楽は二階の手前の部屋だった。柳太郎もそこに寝かせられている。次が牡丹、そして元の書庫である、瑞香の部屋。
考えてみれば男所帯である。無要鎮な話だが、瑞香には不思議となんの不安も起こらない。牡丹の格好のためか、あるいは自分が、やはり遊楽の所有に堕ちているためか、と、瑞香はぼっと考えながら、挨拶をして扉を閉めた。
翌朝、瑞香は早くから目が覚めた。身支度をし、同じく起き出した牡丹に案内されてひととおりの設備を見てまわる。二階には洗面はあるが台所がなく、店の厨房でまかなうのだと説明された。昨夜には店にいたはずの、店主というひとを瑞香は探したが、見えない。訊くと、夜の酒の営業になってから来るとのことだった。
朝食は、牡丹が用意した。瑞香も手伝おうとしたが、いいのいいの、座ってて、と、押し出された。
降りてきた遊楽も含め、三人でひとつの卓につく。洋食だった。パンと、卵を焼いたもの。瑞香はパンに馴染みがない。バターナイフを手にとって戸惑っていると、牡丹が手本を見せてくれた。ひとくち頬張り、その香気に瑞香は思わず涙ぐんだ。
牡丹はそれを、嬉しそうに眺めている。
遊楽はそうした様子をまったく気にすることもなく、勝手に自分の分を喰い、終わると珈琲を飲みながら、脚を組んで考えごとをはじめていた。
その席で、遊楽は、ちかぢか出掛ける、瑞香も同行することになる、と告げた。
瑞香には頷くことしかできない。断る理由はなく、また、断ることができないと理解している。
いつですか、と問うと、遊楽は顎を二階に向けて見せた。あれ次第だな、という。
朝食が済んでから、牡丹が粥を用意した。二階で寝ている柳太郎のためだ。瑞香は、あの夜になにがあったのかを訊きたかったから、自分が膳を持っていくと申し出た。牡丹は、そう、お願いします、でも……と云い、なにやら含み笑いをした。
二階にあがり、柳太郎が寝かされている部屋の扉をあける。顔を出すと、すでに目覚めて半身を起こしていた少年は、飛び退って逃れた。部屋の隅で、震えている。
瑞香は後ろを振り返り、首を傾げた。
柳太郎の熱は下がらず、結局、昨日はいちにち、瑞香が看病をすることとなった。看病はされるものだと理解していた瑞香にとって、それは新鮮な体験だった。額の汗を拭うたびに身をすくめ、怯えた目をする柳太郎を、きっと病で伏せた経験がないのだろうなあと、微笑ましい気持ちで眺めていた。
今朝。
熱がようやく下がったらしく、柳太郎は瑞香たちより早く起き、店にちょこんと座っていた。遊楽が起きてくると、隅の席に移動した。なんだ、こっちに来いと遊楽は呼んだが、ぷいと横を向いている。
焼き魚の朝食を与えられ、わさわさと掻き込むと、彼は、じゃあ待ってますから、先に行ってますね、とだけ云って、出て行った。
瑞香はその背を見送り、遊楽に振り返った。出掛けると云うのはいまの、待ってますの件なのかと訊きたかったのだが、遊楽は懐手でとんとんと二階にあがり、なにやら資料を持ってきて、どっかりとまた、座ってしまった。
急がんで好い、それよりなにやら構想が降ってきた、君、頼むと云って、瑞香をちょいちょいと呼ぶ。
座ると、書付と上等のペンを渡し、そのまま腕組みして、目を瞑った。
そうして、いま。
もう昼時も終わりという時分に至り、ようやく遊楽の物語は大団円を迎えようとしている。
病を超えて、人並みを取り戻した瑞香の体力は、だが、もうすぐ尽きる。
「……そ、そろそろ、休憩に……」
瑞香が二の腕を撫でながらそう云うと、遊楽は首を傾げてみせた。
「俺はまだ大丈夫だ」
「いいから休憩なんです」
通りがかった牡丹が遊楽の背に立ち、どよりと低い声を出した。
「いや、いい。いま調子が出てきた処だ」
「先生のこと心配してるんじゃないんですって」
牡丹は遊楽と瑞香のとなりに、ずどんと腰を下ろした。卓に肘をつく。遊楽を睨む。
「瑞香さんはお弟子さんじゃないんですから。気を遣ってあげてください」
「……弟子、ではないが、雑誌に寄稿したのだ。弟子のようなも」
「いいえ違いますぜんぜん違います。いいですか、瑞香さんは巻き込まれたようなものです。いろいろと。確かに生命、先生が助けたのかもだけど、あんな……目に遭って、おとといだって。可哀想です」
「……わかってる」
「わかってないです」
牡丹はどうしたことか、どこか苛立たしげに、つぶやくように声を出した。
「……知らないうちに、誰かの所有にされて。知らない場所で暮らすことを強いられて。瑞香さん、きっと、傷ついてる」
「……あ、いえ、わたしは……」
云いながら、瑞香は牡丹の耳に血が滲んだあとがあることに気がついた。手を伸ばし、触れる。牡丹は電流に打たれたように、びくりと身体を震わせ、引いた。
遊楽と瑞香が、目を見合わせる。
「……大事にしてあげてください」
そう云い、牡丹はとんと席を立って、厨房のほうへ早足で立ち去った。




