愉快でならない
まったく愉快でならない。
「今まで、お世話になりました」
男はそう言って、看守長と最後の挨拶を交わした。
今後は建前上、保護観察官がついて回るが彼にとっては些細なことだった。善人のフリなら得意だと彼は自覚していた。そうやって今まで模範囚として過ごしてきた。
最高裁の判決は無期懲役。世間の誰もが死刑だと確信していた。しかし弁護士は持ち回りの機転と幅広い人脈で男の精神鑑定を覆し、責任能力に問題ありとして検察と裁判官を屈服させた。
弁護士は、男の精神状態も考慮して、他の受刑者から隔離された環境を要求し、男は何の不都合もなく無事に仮釈放を迎えることができた。
(大丈夫。君は神経衰弱状態だったんだ。こんな世の中だから仕方がないよ)
男はまったくその通りだと思った。
周囲の人間が不当に彼をぞんざいに扱ったからだ。当時の彼は仕事場でも優秀な人材だった。派遣ではあったが、直近の上司は彼を高く評価していた。
しかし、タイミング悪く、業績の悪化や製造原価の高騰で会社のトップは一方的にリストラを通告してきた。要するにクビの宣告だった。
その時から、既に男の頭はおかしくなっていたのかもしれない。
気がつけば、血まみれのナイフを手に警官に取り押さえられていたのだった。
死者は7人と聞かされた。
あれから十余年の歳月が過ぎた。
「やあ。久しぶり。元気してたかな」
男は驚いた。仮出所の今日、あの弁護士がわざわざ自分を出迎えに来てくれていたのだ。
「あ…先生、来てらっしゃったのですか」
日本では無期懲役と言っても模範囚として評価されれば十数年ほどで仮釈放される場合がほとんどだ。貴重な時間を失ってはしまったが、死ぬよりはマシだった。
「どうだい。娑婆の空気は。またこれで君は普通の生活に戻れる」
弁護士はことある事に男に面会していた。出所する際、今後の生活に不安があることを気にしていた男に対して、弁護士は元受刑者としては破格の待遇を準備していた。
(その事なんだが、君にうってつけの仕事がある。今新進の自動車部品メーカーなんだが、君が昔通っていた専門学校と同じ経営一族でね。人事は過去の君の勤務態度を評価していたよ。君はちゃんと罪を償ったし、今では逆に刑務所帰りの方が会社に残りやすいんだ。雇用機会均等法という味方がいるからね。真面目に働いていれば今後の生活は約束される。…どうだい?)
「先生の恩は一生忘れませんよ」
男は、感謝の意を表した。
「とんでもない。自分は、ただ日本に、死刑制度があることが許せないだけです。自分なりの抵抗ですよ。あなたのように、周りの環境が原因で罪を犯した人が、簡単に死刑になってしまう。ややもすれば人権というものがまだ蔑ろにされがちのこの日本に、自分の力がどこまで及ぶか試してみたかったんです」
この先生様も相当の甘ちゃんだ、と男は心であざ笑った。とってつけたような人権を振りかざして、自分の成果に自己陶酔。尤も、そのおかげで自分は娑婆に出られたのだから、少しは感謝しているフリはしておかないとな、そう考えていた。
「何から何まで世話をしていただいて」
「いえいえ。あ、これからどうです。出所祝いに食事でも行きませんか?」
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男が連れてこられたのは最近テレビでも話題になっているというフレンチだった。
「このいい感じに煮詰まったトリュフがまた格別なんですよ」
「…おいしいですね」
男は素直に感動した。逮捕された当初、まさか生きているうちにこんなご馳走にありつけるなど思ってもみなかった。男は自分でも、らしくない、と思い返すような感想を述べた。
「生きているって、すばらしいですね。とてもいおいしい」
「そうでしょうね。まあ、誰かのせいで、もう食べられなくなった人もいるんですけどね」
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弁護士は男のために自分が保証人になったアパートも借りていた。食事から帰ってきた男は綺麗に掃除された玄関先に一枚の絵が掛けられている事に気がついた。
「一体…」
その絵には、裁判で何度も繰り返し聞かされた、美大生の名前が記載されていた。
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会社の面接は形式的なものだった。すべて知っている、そんな顔の面接官は簡単な質問の後、最後にこう付け加えた。
「当社はどんな人間でも均等に機会を与えます。今はまだ仮採用ですが、成績によっては本採用も検討します。今後ともよろしくお願いいたしますね」
面接官はにっこりと微笑んでいた。
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何人かの新入社員とともに、男は新たに配属された部署で新任の挨拶をした。
「これからこの部署に配属になりました。今後ともよろしくお願いいたします」
(ああ、アレか例の殺人鬼…)
(怖いよ)
(よく表に出てこれたわね)
(こんなのと一緒に仕事するのかよ…またキレて刺されたらたまらないな…)
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「あ、製造部の人ですよね。この製造工程変更リスト、管理課長に届けてもらえます?」
相手は設計部一の華だった。彼女を気にかけていた男は、少し舞い上がっていた。
「あ…」
目が合った瞬間、彼女の表情が凍り付いた。
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「係長の息子さんって調理師学校行くんだって」
「調理師か…奴に殺されないだろうな」
「おいおい、洒落になってねえよ」
「冗談だって」
笑い声が響いた。
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今日、男のロッカーには猫の死骸が放り込まれていた。
犯人は、結局分からずじまいだった。
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今日も誰もいないアパートに帰る。
絵はとっくに男が破り捨てた。
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今日は男の誕生日。
テレビ欄に「あの人は今」
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道行く人が、皆自分を避けてるように思えた。
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街はクリスマスムードに包まれていた。
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子供を挟んで仲良く歩く幸せそうな家族連れが目の前を通り過ぎた。
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慰安旅行の出欠調査には不参加に丸をつけた
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弁護士は、あれから姿を見せない。
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目の前で人身事故が起こった。
人間がサンドバッグのように宙を舞う。
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たしか、死ぬよりマシだったはず。
男は、再び宙を舞う影を嘲笑った。
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面会室で、男はガラス越しに、久しぶりの顔と対面した。
弁護士は笑いながら、守衛に聞こえないよう男に話しかけた。
「さすがに、仮釈放中にアレはまずいですよ。ここまでバカだったなんて、ひひ、自殺するかどうするか仲間内で掛けてたんですけどね、まったく予想通りの行動をとってくれました。ふふ。腹がよじれる」
まったく愉快でならない。