2.掠れた道
主人公:魅力的な運命は僕には訪れなかった。それは逆説的に運命とは悲劇であり喜劇であるということだ。運命が悲劇だった僕は今生への執着がなく、美しいといえるかもしれない。
しかしひとたび周りを見渡せば這いつくばって生きている人たちがいる。頭が空っぽな奴らは生への執着に感動を覚え醜い人間味に感化される。
僕がこのまま人として生き、人として去るためにそんなことに執着する必要本当にあるのだろうか。
もし僕がこの先、長い永い道を踏み外してしまったとき、僕は人なのだろうか。この世に人としていられるのだろうか。
⋯⋯それに僕の心には何が詰まっているのか知れるのだろうか。
ナレーション:生きながらにして死んでいる、そんな言葉がある。そして人は「死にながらにして生きている」という死生観を論じたり、「生きることは死ぬこと」などの哲学を展開したりする。
主人公:僕が生きているのはなんでかといえば、それは夢があるからである。しかし皮肉なことに夢を持った時には夢を叶えることが不可能だと、すでに気付いてしまっていた。命ある限り人に尽くす。そんな善人もいたがそれらは夢でしかなかったのだ。悩むことは愚かなことだ。喜ぶことは哀しみを思い知ることだ。慈愛の精神は傷つけることだ。恨むことは生きることだ。
ナレーション:喜びや悲しみ、慈愛や恨み。そういう感情を持つものは総じて終わりに進む。
生きる先には何かがあるが、それは運命に縛られる。人の形に縛られる。社会の枠にはめられる。そして腐り落ちるまで繋がれる。そういった何かが生きる先には待ち構えている。
おそらくそれは耐えられる人にとってはなんていうことはない物であるが、耐えられないものにとっては辛く苦しい物だろう。しかしそれは生きているといえるのかもしれない。
もしくはそこには虚無だけがあるのかもしれないが、もしそうならば生きるとは何かを考えこまないといけないんだから生きていけるだろう。
主人公:もし僕がそういった喜びや悲しみ、慈愛や恨みなどの感情のままに生きていれば僕の周りには今よりもうるさい奴らがいてくれたのかもしれない。ぼくは後悔しているんだ。もしあの毎日を壊してやろうとか、俺は神の使徒だ!とか馬鹿みたいな勘違いをしていたならきっと時間の流れはもっと優しくて、こんなにも寂しいものじゃなかったのかもしれない。たとえ寂しくても夢じゃない、希望があったのではないだろうか。
そう思わずにはいられない。
ナレーション:いつの時代も、人は何かを為すことを夢見ながら、そこには向かわずに結局朽ちてゆく。
何かを為したものも更なる高みを目指し、結局朽ちる。
しょうもない名言を思いついては垂れ流し、いつかひっそりと朽ちてゆく。
主人公:僕はそれがどうしようもなく恐ろしい。
生きている証を残した。そうしたら誰かに知って貰えるんじゃないかっ、て残した言葉だけど妄想を垂れ流したような言葉は虚空へ消える。
生きていく力を与えたくて語ったはずの言葉は誰をも助けずに消えていく。
僕にはそれが、僕の矮小さを見せつけられるようで恐ろしい。
途方もない数の意思の中で僕の意思がどれだけ薄弱なのか、それを知れたらたぶんもっと強くなれる。
でも見つけられないのは僕がそれを考えようとしないから。
僕にとって生は目的を見つける上では短すぎる。逆に生きない理由を見つけるのには簡単すぎた。
ナレーション:楽しかったころ、それは子供だったときか、それか大人になってからか。新しいことを経験したくて走り回った。
走り回って見つけたそれが汚くても、空っぽでも見つけたこと、それこそが嬉しかった。
抑えようのない満足感を誰かに伝えたくて手を洗う代わりに親に話した。
今日はザリガニを釣ったとか 図書館にお気に入りの小説がおかれた
とか、そんな何気ないことだけどどうしようもなく楽しくて、笑顔が零れ落ちそうだった。
私:泣いて笑って喜んで、怒って当たって悲しんだ。そんな時が今じゃ懐かしい。
懐かしいと思うのもおこがましい。これから先起こりえない、待ちえない奇跡的な運命が前までは確かに存在していたことを知り咽ぶが、誰も奇跡は起こせない。運命の行く先を知ることができるならどこまでも追いかけていく。もしそれが端のない奇跡であっても。