キスをしないと出られない部屋に閉じ込められた私と純情騎士様のその後について
目が覚めたら、見知らぬ場所にいた。
それも、床に寝ていた。
シンプルな寝台とサイドテーブル。その上に水差しとコップ。
それしかない部屋だった。
「まさか、攫われたりしてないよね。一応子爵家だけど、誘拐されるような家じゃないと思うんだけど」
私、クラリス・ラブレーはラブレー子爵家の娘だ。特別貧しいと言うほどでもないが、決して裕福とは言えない家だ。
この王都で貴族令嬢を攫うなら、もっと高位貴族か目立つ美人を狙うだろう。
もうすぐ二十歳になるのにまだ婚約者がいないのは、目立たない茶色い色の髪と瞳、そして妙に現実的な性格のせいだと思っている。母と妹が夢見がちな性格をしていることもあり、気付けば妙にしっかり者に育ってしまった。
家族仲は良く、聖騎士をしている兄からは過保護なほどに可愛がられているが、こればかりは性分だろう。
「服は夜着のまま……ということは、私が記憶喪失になっているというわけでも──……って」
きょろきょろと室内を見渡して、目立つ扉の上に掲げられた看板に目が止まる。
「『キスをしないと出られない部屋(口限定)』って。こ、これ、精霊のいたずら!?」
思わず困惑の声を上げて、天を仰いだ。
この国は、精霊の力を借りて繁栄している。精霊との相性が良いものは魔法が使えたり、癒やしの力を持っていたりするのだ。そういう人達は聖騎士や聖女として重用されている。
だから、『精霊のいたずら』と呼ばれる非科学的な現象も、話には聞いたことがあった。まさか自分の身に降りかかるとは、これっぽっちも思ってはいなかったが。
「それなら、相手がどこかにいるはずでしょ」
しかし周囲を見渡しても、私以外に動いている人物なんていない。確認していないのは、寝台くらいだ。というよりも、なんとなく怖くて確認できずにいた。
既婚者だったり、生理的に無理な相手だったらどうしよう。
それでも相手を確認しなければ始まらない。
私は物音を立てないように近付いた。
そして、寝台をひょいと覗いて──今度こそ目を見開いて固まった。
「──……シリル・ヴァイカート様?」
そこで安らかな寝顔を晒していたのは、貴族令嬢達に大人気の高嶺の花、聖騎士シリル・ヴァイカートだったのだ。
艶やかな銀髪は私の髪よりもさらさらで、無防備な顔でさえも美しく整っている。いつもかけている眼鏡は眠っているためか外しているが、目を開くと、空のように綺麗な群青の瞳がそこにあることは皆が知っていることだ。
ヴァイカート公爵家の次男で、本人は親が持つ多くの爵位の中から子爵を選んで名乗っている。しかしその功績と精霊との相性の良さからくる能力の高さから、近いうちに伯爵になり、ゆくゆくは侯爵くらいまでは出世するだろうと言われている。
これで性格が悪ければまだ良かったのだが、超が付くほどの善人なのだ。
つまり、容姿端麗かつ将来有望、性格にも問題がない、あまりに全てが揃いすぎている男性だ。
兄の同僚ということ以外に接点は無いが、密かに憧れていた人物だ。
「え、私……シリル様とキスするの? 口と口で?」
咄嗟に自分の口を両手で隠してしまったのは、あの薄く綺麗な唇に自分のそれが触れる妄想をしてしまったからだ。
顔は赤いし、心臓の音も煩い。
確かに私は、既婚者も、生理的に無理な相手も嫌だった。だからといって、ここまで極上の男性を連れてきてほしいとも思っていなかったのに。
こんなことが知られたら、貴族令嬢達から疎まれ苛められるに違いない。令息達からシリル様と関係を持ったと誤解されてしまえば、より縁談が遠ざかってしまうだろう。
その場にへたり込んでしばらく動けずにいた私は、規則的な寝息の音に助けられ、少しずつ正気を取り戻してきた。
「つまり……シリル様にも気付かれずに、さっさと扉を開けてしまえばいいのよ」
キスをすれば扉は開く。これが『精霊のいたずら』ならば、扉を出ればそれぞれが元いた場所に戻るはずだ。
憧れていたからといって、どうこうなりたいなんて思ってもいなかった。遠くから見るくらいで充分だ。
「起きる前に済ませた方が都合が良いわ」
雑念を払ってしまえば、することは決まっている。
さっさとキスして、シリル様が起きる前に帰ってしまおう。熟睡しているみたいだし、一瞬ならばきっと目覚めることもないだろう。
これは事故だ。初めてのキスだが、こんなもの数に入れることもない。
私は思いきって、寝台によじ登った。
ぎいと鳴った音にどきりとする。
それでもどうにかすぐ側までにじり寄り、綺麗な顔の両脇に手をつく。
これで、あとは腕を曲げて唇を合わせるだけだ。
息を潜めて、間違えないように。
「──……ん?」
睫毛の震えが、私に作戦の失敗を教える。
あと少しというところで、至近距離にいたシリル様の綺麗な目と目が合った。
「ひ、ひぇ……」
私は慌てて距離を取ろうとした。
しかしシリル様は私の右腕を左手で掴んで、くるりと身体の上下を入れ替える。寝台の上、真上から見下ろされるかたちで逞しい腕の中に閉じ込められた私は、意識を繋ぎ止めるだけで精一杯だった。
とにかく近い。
「何者だ」
シリル様の自由な右腕が枕元に伸びる。
その動きがあまりに迷いなく行われていて、私は目が離せない。そこにはきっと短剣が忍ばせてあるのだろう。
しかしシリル様の右手はそこにある筈のものを握ることはなく、何もない空間を掠めただけだった。そして剣を遠ざけられていたと誤解したのか、代わりに右手で私の左手首を掴んだ。
両手首を寝台に縫い付けられ、全く抵抗できない。
「私に何をしようとしていた? ここは何処だ」
「あ、あの」
「抵抗しようなどと考えても無駄だ。君に勝ち目は無い」
「ひぇっ」
どうして私は、よく分からない場所で、妙に顔が良い(顔以外も極上の)憧れの聖騎士に、寝台に押し倒されているのだろう。
整った顔で厳しい目つきをされると怖い。普通の人のそれよりも余計に怖い。本職の騎士というのは目だけで人を殺せるのではないか。
夜会で遠くから見たときには優しげに微笑んでいて、人当たり良く穏やかな人だと思っていた。兄に会いに行った聖騎士団の訓練場では真面目に訓練に取り組む姿が印象的だった。優しい人だと思っていたが、気のせいだったのかもしれない。
「黙っているつもりか? ……剣など無くとも、拷問程度容易いが」
待て待て待て。
もしかして私、犯罪者か他国の諜報員だとでも思われてない!?
「ま、待って。違うんです」
「何が違う」
「そ、それは──」
言えない。
貴方にキスしようとしていましたなんて、それだけで充分痴女だ。
私は言葉にできない分まで伝われと強い思いを込めて、首を動かした。
「あれ、あれです。これきっと、精霊のいたずらなんです〜!!」
ようやく説明することができた私は、それだけで全身の力が抜けてしまった。こんな事態が降りかかってくるなんて、全く想定していない。
私の視線を追った先にある看板を見たシリル様は、そこにある文字を読んで事態を把握した瞬間、もう一度、今度はこれまで以上に至近距離で私の顔を確認して、真っ赤な顔で飛び退って寝台から落ちていった。
そしてそれからどれだけの時間が経ったのか。
私は今、あまりに美しく整った謝罪の礼を見せつけられている。
「──勘違いをしてすまなかった」
もう何度目になるかも分からない謝罪を聞いて、私はまた同じ言葉を繰り返す。
「頭を上げてください。黙ってしようとした私も悪いのですから」
「だが……」
「あーもう! このままじゃ何も進みません! さっさと戻らないと、シリル様だって困るんじゃないですか!?」
私はついに声を荒げた。
いつまでも進まない話に焦れたのもあるが、何より時間が経って朝になって、行方不明扱いをされたときが恐ろしかった。
家族には愛されている。だからこそ、何か異変があれば騒ぎになってしまうだろう。
明日は王宮の夜会がある。両親と妹と共に出席する予定なのだ。
「……これが精霊のいたずらならば、外の時間は進んでいないから大丈夫だ。安心して良い」
「そうですか。それなら安心……じゃなくて! それが本当でも、いいかげん謝るのは止めてください」
「君がそう言うなら」
「ありがとうございます」
ようやく姿勢を戻したシリル様に、私はほっと胸をなで下ろした。正直、夜着で寝台に腰掛けている私の前で頭を垂れる騎士という図は心臓に悪い。
しかもシリル様も夜着。胸元が緩く開いていて、逞しい胸板が見えるのだ。
どうしようもなく目の毒だ。
私は水差しの水を二つのグラスに注いで、一つをシリル様に手渡した。まず喉を潤して、仕切り直したい。
勢い良く水を飲んだシリル様は、グラスをサイドテーブルに戻して、私から少し距離を取って寝台に腰を下ろした。
それから今更と思いつつも互いに自己紹介をすることになった。
「私はシリル・ヴァイカート。ヴァイカート公爵家の次男だ。聖騎士をしている。ここではシリルと呼んでくれ。──この事態は、私が引き起こしてしまったものだろう。巻き込んですまない」
自己紹介の最後の言葉に、私は首を傾げた。
「シリル様が引き起こしたとは、どういうことですか?」
「精霊は相性が良い者に力を与える。同時に、その者の意思に反して『いたずら』をすることも多い。君は聖女ではないから、これは私のせいだ」
明快な答えに、私は納得する。
シリル様が精霊と相性の良い聖騎士だからこそ、『精霊のいたずら』が起こった。だから一般人である私は巻き込まれた側ということだろう。
私は寝台のシーツを引っ張って夜着をできるだけ隠して、精一杯の礼をした。
「……改めまして、私はクラリス・ラブレーと申します。ラブレー子爵家の長女です。どうぞ、ここではクラリスとお呼びください」
シリル様が目を細めて頷いた。
「ああ、知っている。それではクラリス嬢。ここから出るためには、そ、その──」
もごもごと口籠もってしまったシリル様の代わりに、私は口を開く。こうしている時間も勿体ない。
「口付けが必要だと書かれていますが、これは実行しなければどうにもならないのでしょうか」
「そ……そうだ。基本的に、精霊は指示を無視することを許さない」
「それでは、さっさとしてしまいましょうか」
キスして開くなら、さっさとしてしまいたい。
シリル様とキスというのは何か悪いことをしているような気分にはなるが、相手は令嬢達に大人気の騎士だ。私のことなんて、次の日には忘れてくれるに違いない。
しかし私の予想に反して、シリル様はまた顔を赤くして目を見開いた。
「は!? ク、クラリス嬢は口付けなど些細なことだと言うのか!」
「そんなこと言ってませんよ!? 私だって初めてなんですから!」
真面目な貴族令嬢を舐めないでほしい。今日まで浮いた話も経験も一切無いまま育ったのだ。これぞ、純粋培養の貴族令嬢というようなものである。
「す……すまなかった。だが、それなら簡単に異性に唇を許すのは──」
まだ言い訳を続けるシリル様に、私は首を振って身を乗り出した。
「だって、そうしないと出られないじゃないですか! ──……あ、気に病まないでください。これは事故です。ただ接触するだけですから。気にしたら負けです」
こんな強制的にさせられるキス、回数に入れるのも馬鹿馬鹿しい。
シリル様にはさっさと記憶の彼方にやってしまってほしい。私だって、未遂とはいえシリル様の上に乗って襲おうとしていたことは忘れてしまいたい。
シリル様が眉間を軽く揉んで、そこに無い眼鏡を上げる仕草をする。
「いや。……ならばなおのこと、責任は取らせてほしい」
その真面目な声音に、私は両手を振って否定した、
「ちょ、ちょっと。結構ですよ! 外でここのこと話したら駄目ですからね? 私、お嫁に行けなくなっちゃいます!」
いくら『精霊のいたずら』とはいえ、こんなこと一生隠し続けておきたい。
こんなことでもなければ、地味な子爵令嬢である私とシリル様が知り合う事なんてない。うっかり夜会で挨拶でもしたら、次の瞬間には私は一躍時の人になってしまう。
シリル様はまっすぐに私の目を見つめた。
「……クラリス嬢には、婚約者もいなかったな?」
「だから何で知って……いないですけど」
まさか精霊がそんなことまで教えてくれるのだろうか。精霊の専門家は聖騎士と聖女だと思って、その辺りについてはあまり勉強してこなかった。
こんなことになるならば、もっとちゃんと勉強しておけば良かった。まさかこんなことが起こるなど、想像できる筈もないのだが。
「それなら問題ない。大丈夫だ」
「そんな真っ赤な顔して、何言ってるんですか!?」
さらりと言ったシリル様の顔は、相変わらず真っ赤だ。
どんな手入れをしているのかと問いただしたくなるほどに綺麗な肌は、シリル様の動揺を如実に私に見せつけてくる。
シリル様はすうっと視線を逸らして、何も無い床を見た。
「……私も女性とこういうことをするのは初めてだ」
その衝撃の告白に、私は思わず身を乗り出した。
「えっ、その顔で!?」
これだけの美貌でかつ聖騎士などという人気職に就いていれば、私など想像もできないほど経験豊富なのだと思っていた。
「顔は関係ないだろう」
「関係あります! えー、そうなんだ……実はモテなかったりしました?」
「誘いは多い方だとは思うが、責任を取れない相手にそういうことをしてはいけない」
美しい顔を持つ人間は、心まで美しいのだろうか。
聖騎士だから、騎士道精神なのかもしれない。正直兄を見ていると騎士道精神なんて人それぞれだと思うが、シリル様は真面目そうだ。
「うっわ純情!? 嘘……初めてが私でごめんなさい」
「問題ない」
短く言ったシリル様が私の両肩に手を置いて、僅かに引き寄せる。
こうなってしまえば、照れ隠しにたくさん話していた私も、それ以上言葉を続けることなどできなかった。
美しい顔が近付いて、胸が高鳴ってしまう。
二人きりの部屋で、寝台に座っている。それだけでも限界なのに、キスまでするなんて信じられない。
ぎりぎりまで目を開けたままでいた私は、シリル様の長い睫毛の数を数えかけ、これではいけないと目を閉じた。
自分の唇とは違う温度の柔らかなものが触れる。
初めてのキスは、本で読んだような甘さも酸っぱさも無かった。ただ、胸の奥に正体不明の重石が増えた気がした。
がちゃりと、大きな音がする。
私はすぐにシリル様の胸に両手を突っ張って、距離を取った。
「ひ、開きました」
慌てて俯いて、きっと赤くなっている顔を隠す。
シリル様も同じ顔をしているのかに興味はあったが、顔を上げる勇気は無かった。
「そうだな。それで、クラリス嬢。私は──」
それ以上シリル様の言葉を聞いていられなくて、私は立ち上がり頭を下げる。
「本当にお騒がせいたしました! 本当に、大丈夫ですのでお気になさらず!」
素足のまま床を駆け抜け、扉の前でまた深く礼をする。
「それでは!!!」
思い切って扉を開けて真っ白な空間に飛び込むと、そこは見慣れた自室に繋がっていた。おそらくシリル様も自室に帰ることができるだろう。
ふらふらと寝台に歩み寄った私は、ぽすんと身体を投げ出して倒れ込む。
全て夢だったことにして忘れてしまおう。
布団を引き寄せて目を閉じるが、高鳴る鼓動は収まってくれない。
私はこうして、眠れぬ夜を過ごしたのだった。
◇ ◇ ◇
クラリス嬢がいなくなった部屋で、私は深く溜息を吐いた。
力を抜いて倒れ込むと、嫌に質の良い寝台が身体を受け止めてくれた。右手で、そっと自分の唇に触れる。
乙女のような行動だと思うが、許してほしい。
「お前達……いくらなんでもこれは力業が過ぎるだろう」
私は、クラリス嬢と入れ替わりに現れた小さな光達に話しかけた。
精霊の見え方、言葉の聞こえ方は人それぞれだ。私には見た目はよく見えず、声はしっかりと聞こえる。中には小さな人間のような姿を明瞭に見ることができる者もいるらしい。
看板の文字は精霊の力で書かれていたから読めたが、そうでなければ読むこともできなかっただろう。
小さな光──精霊達は、私を責めるようにぶんぶんと周囲を飛び回る。
『シリルがいけないんだぜ』
『そうよ。いつまでも見てるだけだから、力を貸してあげたのよ。私達に感謝するべきだわ』
私はクラリス嬢を知っていた。
いや、クラリス嬢こそが私の初恋だった。
聖騎士団で同期の男が、クラリス嬢の兄なのだ。兄が忘れた弁当を持ってきたクラリス嬢は、周囲の聖騎士達には見向きもせずに笑顔で兄を労っていた。
聖騎士団に出入りする令嬢は、用事があって来ても訓練や職務中の聖騎士に見蕩れたり、話しかけてきたりすることがほとんどだ。しかしそのときのクラリス嬢は、まっすぐ兄だけを見て、弁当を渡して挨拶を済ませると、手を振ってまっすぐに帰っていった。
その姿を見て、野に咲く蒲公英のようにぱっと心が晴れるような笑顔が自分に向けられたらと、愚かしくも考えてしまったのは仕方が無いことだろう。まして当時の私は、言い寄ってくる女性達のあしらい方も分からず、その存在自体に辟易していたのだから。
紹介してほしいと言ったら、絶対に嫌だと言われた。
令嬢達に苛められると言われれば、話しかけることもできない。好きな人が傷付けられる姿など、見たくない。
だから、それからずっと、姿を見るだけで満足していたというのに。
まさか『精霊のいたずら』で閉じ込められて、キスをすることになるなど思わなかった。
「でも、もっとやりようが──」
『まだ言ってんのかよ。求婚の手紙も読んでもらえなかったのに良く言うよな』
「煩い」
それはあの兄が邪魔をしてきたからで、私だけのせいではない。
きちんと口説くならば文句は言えないと思ってのことだったのだが、クラリス嬢本人に伝わらなかったのだから、意味はない。
『まあまあ、二人とも。……シリルも、キスまでしたんだから直接求婚するに決まってるわ』
「……今後は、眼鏡も一緒に飛ばしてくれ」
もう限界だった。
私は、クラリス嬢を手に入れる。
あの柔らかくて私よりも少しだけ冷たい唇をもう一度味わうためならば、どんな手段も使おう。
直接言葉を交わして、触れてしまったならば、我慢などできる筈がない。
願わくば、照れた表情も見たかった。
今回ばかりは『精霊のいたずら』にも感謝するべきかもしれない。
ようやく全ての覚悟を決めることができたのだから。
◇ ◇ ◇
寝不足でできた隈を化粧で隠してもらった私は、用意されたドレスを見て後悔した。
柔らかな水色のドレスには、胸元に群青色のガラス細工の薔薇の花の飾りがついている。シリル様に憧れていた昨日までの私は、こっそり瞳の色に近いものを選んでいたのだ。
今はこの飾りを見るだけで、昨夜を思い出して胸が痛い。
それでも今更別のドレスにするわけにもいかない。
どうにか支度を終えて両親と妹と共に馬車に乗り込んだ私は、夜会開始の少し前に王宮に辿り着いた。
今日の夜会は王都にいる貴族のほとんどが参加する大規模なものだ。だから、シリル様もきっとここにいるだろう。この飾りを見て、何か思われたらどうしよう。
でも、話しかけないようにとは確かに言った。
大丈夫だとは思うが、逃げるように帰ってきてしまったから、怒っていたらどうしよう。
「お姉様、どうかしたの?」
「あら本当。クラリス、貴女昨日もあまり眠れてなかったんでしょう?」
妹と母が顔色が悪い私を心配して声を掛けてくる。
私は無理矢理気持ちを切り替えて笑顔を作った。
心配させたいわけではない。寝不足ではあるが、体調が悪いのではないのだ。
「なんでもないの。ちょっと緊張しちゃっただけ」
「そう? なにあったら言いなさいね」
「そうだぞ、クラリス」
「はい。お母様、お父様」
私が姿勢を正したところで、大広間の扉が開かれた。
まばゆいほどのシャンデリアの明かりが、会場をまるで昼間のような明るさで満たしている。
しばらくして配られた乾杯のグラスを皆が掲げれば、夜会開始の合図だ。
「──私達はあちらで話してくるから」
「あっ、私もお友達を見つけたわ」
両親と妹がそれぞれに目的地を見つける。私は手を振って皆を見送った。
私の友人も、きっとそろそろ集まっている頃だろう。皆のところへ合流して、誘われたらダンスでも踊ることにしよう。
私はすっかり普段通りに気持ちを持ち直し、一歩を踏み出した。
その進路が、突然綺麗な白に遮られる。
金の飾りが華やかなこれは聖騎士の盛装だ。
嫌な予感がした私は、おそるおそる顔を上げた。
「──クラリス嬢、こんばんは」
「ひぇ……」
そこにいたのは昨夜ぶりのシリル様だった。
夜着も色っぽかったが、こうして騎士服姿を見ると余計に眩しい。兄が着ているのを見たことは何度もあるが、シリル様のために作られたのではないかというほど似合っている。
しかし目が怖い。
綺麗な群青は憧れていたものに違いないのに、眼鏡越しにこうして見下ろされるとどうしようもなく怖い。
しかも夜会が始まって早々に私に話しかけにやってきたシリル様は目立っていて、私まで見られている。こんな注目を浴びたくなかったから、あの場だけのことにしたかったのに。
遠くの方で、今日の警備を担当していたらしい兄が険しい顔をしているのを見つけて、余計に背筋が冷えた。
私はシリル様の視線の圧力に耐えられず、夜会に相応しい淑女の礼をした。
「こんばんは、シリル様」
それから、あえて周囲にも聞こえるように大きな声で話し始めた。
「兄でしたら、今日はお仕事ですわ。おそらくあちらに──……ああ、いました。何かご用があるようでしたら、直接お話しくださいませ」
こう言えば、聖騎士である兄に用があると周囲は思ってくれるだろう。シリル様と私の繋がりもそれが理由だと思ってくれるに違いない。
どうかシリル様も、私の意を汲んで離れてくれたら良いのに。
「いや。今日用事があるのは君だよ、クラリス嬢」
しかしシリル様は私の思惑などお見通しだというように、より大きな声を出した。低くて甘い声はよく響いて耳に心地良いが、今はそんなことを言っている場合ではない。
「そんな筈がございませ──」
「クラリス嬢」
シリル様が私の言葉を切って、私の右手を取った。
腰を落として片膝をついたそれは、騎士の礼だ。夜会でダンスに誘うときのものではない。仕えるものに敬意を示すときのものでもない。
「ひ、ひぇ」
怯えるような声が出た私を窘めるように手のひらに落とされた口付けには──確かに、懇願の意味が込められている。
「ずっと貴女が好きだった。どうか私の求婚を受けてくれ」
「う、嘘です。シリル様は、責に──」
「違う。それよりも前からずっと見ていた。あの兄に邪魔されて、手紙も届かなかったが」
シリル様がちらりと視線を向けたのは、私の兄が立っている方向だ。
「そんなの、信じられるわけありません」
「でも本当だ。昨夜のあれは、精霊が私の背中を押すためにしたことだ」
それでは、私とシリル様があの部屋に閉じ込められたのは、シリル様が私を好きだったからで。
つまりシリル様は、私のことが好きだったから、あんなに顔を赤くしていて。
「そんなことがあるのですか!?」
「ある」
閉じ込められて顔を真っ赤にして、キス一つで取り乱す純情な騎士だと思ったが、どうやらそのうちのいくつかは私の勘違いだったらしい。
混乱が混乱を呼んで頭の中が真っ白だ。
人生でこんなに注目されたことなんてない。
もしかしたらシリル様は目立って求婚することで、私から断れなくしているのかもしれない。だとしたら、とんだ策士だ。
「それで、クラリス嬢。返事を貰いたい……とはいっても、この状況では酷だろうから。──とりあえず一曲、踊ってくれないか」
ようやく姿勢を戻したシリル様は、今度は軽く腰を折って、改めて私に手を差し出してきた。
しばらくその手を見つめていたが、やはり逃げられる気がしなくて、私はその手に自分の手を重ねる。
「──……はい」
導かれるままに会場の中心でダンスをしている人達の輪に混じって、身体を揺らした。くるりと回って引き寄せられる度、昨夜見てしまった胸板が思い出されて頬が染まる。
「その反応、勝機はあると思って良いのか」
「う……」
「偶然かもしれないが、そのドレス……私のためのようだな」
シリル様が微笑んで、私の腰を軽く引く。緊張してもつれてしまいそうになった足を誤魔化すように軽く抱き上げられ、小さな失敗は華やかなダンスに変わった。
「急かしてごめん。でも、これでもう君の兄には邪魔させない」
「またそんなことを」
「見た方が早いか。ほら」
シリル様の視線を追っ見ると、兄は威嚇するような表情でこちらを見ていた。そんな顔を見ると、シリル様が邪魔をされていたというのも本当かもしれないと思わされる。
「兄は……過保護ですから」
思わず苦笑すると、シリル様はふわりと柔らかく微笑んだ。
その頬が染まっているのは、恋心故だろうか。
今は私も赤い顔をしているに違いないから、シリル様のことは言えない。
「これからは遠慮しないから、覚悟していて」
「は、はい……?」
曖昧に返事をした私の元に、ヴァイカート公爵家からの正式な縁談の書状が届いたのは二日後のこと。
両親は驚いていたが、妹は素敵だと言って目をきらきらさせていた。
更にその翌日からはプレゼント攻撃が始まった。添えられていた手紙には、愛の言葉が綴られていて。
私が折れて縁談と交際を受けるまでにかかった期間は、たったの二週間だった。
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先日完結した「伯爵令嬢ミシェルの結婚事情〜貧乏神令嬢は3度目の買い取り先で幸福な恋を知る〜」もあわせてどうぞよろしくお願いいたします!