[1] あの方とは遊びだから、と苦しそうにその令嬢は言った (婚約者のいる王太子と駆け落ちした令嬢の話)
1.
久々の休暇だ。その日は一日青空が続くだろうと思い、気持ちの良い空気の中、緑色の山々を眺めようと人里離れた山岳地帯の方まで散歩に出てきてみた。
少々馬を走らせたが、人家を離れてやや遠くまで来たかいがあった。青い空、白い雲、緑色の山波。全てが美しくて、心が洗われる思いがした。
そう、王宮の醜い貴族同士の対立のようなものを、全てを忘れさせてくれる。貴族同士の対立に「国王の懸念の意」が表明されて、事態の回収に奔走させられているのだ。
アラン・クローブスは、馬に水を飲ませようと、丘のヘリを流れる小川に立ち寄った。水も綺麗だ。
アランは愛馬が水を飲む様をゆったりとした心持ちで眺めていた。ぱちゃぱちゃと音がして川面に波紋が広がっていく。
しかしその波紋がぽつりぽつりと乱れた。
「雨か?」
アランは慌てて空を見上げた。いつのまにか真っ黒な雲が空を覆い、ぽつりぽつりと雨が降り出していた。
これはいけない、こんな分厚い雲ではすぐにでも本降りになるだろう、びしょ濡れになるのは御免だ。
アランは急いで馬にまたがり、雨宿りできそうな場所を探した。しかしここは人里離れた場所だ。早々に雨宿りできる場所なんて見つかるはずがない。
アランは少しでも人が通ったことのありそうな道を探して、馬を走らせた。雨宿りできる場所なんて見つかる……はずがなかった、のだが。
開けたところからは見えないような樹々の深い場所に、その邸はあった。
小さく一見簡素に見えるが、造りはしっかりとしており、何より、ところかしこに贅を凝らしてある美しい建物だった。どこかの貴族が、別邸として立てたものだろうと思われた。
貴族の邸であるならば、維持するための管理人が置かれているはずだ。
アランは、人目に隠れるように立つその邸に、雨宿りを頼むことにした。
呼び鈴を鳴らすと、管理人と思わしき男が、何事かと走り出てきた。確かにこんな田舎では、人の訪問など滅多にないのだろうから、驚くのも当たり前かも知れない。
アランは丁寧にお辞儀をした。
「私はアラン・グローブスと申します。急な雨に降られましたので、こちらで雨宿りさせてはいただけないでしょうか」
男は、アランの訛りで、アランが貴族だということが分かったようだった。
「これはこれは。大変でしたでしょう。どうぞ中の方へ入ってください」
と、丁寧にアランを招き入れた。
幸い、その人はとても心持ちの良い人で、結局びしょ濡れになっていたアランをエントランスに通し、自分は厩へ馬を引き、丁寧に拭いてやってくれた。
しかし、そこでアランは、自分が間違っていたことに気づいた。自分が管理人だと思っていた者は使用人だった。エントランスで出迎えてくれたのは、若いのに身なりも態度も洗練された、一目で執事と思われる男だったからだ。
「アラン・クローブス様、どうも失礼いたしました。ここからは私がご案内いたします」
執事は恭しく礼をすると、アランを立派な客間へと通してくれた。
アランは目を見張った。これまた小さくはあるが、趣味の良い、美しい客間だった。こんな山間部に、これほどまでの邸があるとは。こんな邸が、人目に隠れるようにして立てられているのが不思議でならない。
しかし、執事は、アランを客間へ通すと、すぐに中庭の見える窓のカーテンを閉めた。
アランは違和感を感じた。外は大雨とは言え、カーテンを閉め切るほど風も強くないし、暗くも無い。
「なぜカーテンをお閉めになったのですか?」
アランは率直に聞いた。
執事は一瞬顔を強張らせたが、涼しい顔をして、
「主が中庭でプライベートの時間を過ごされていますので」
と答えた。
「この大雨の中?」
アランは聞いた。
「ええ」
執事はまた決まり悪そうな顔をしたが、それ以上は何も言わずに、温かいお茶の準備を始めた。
「あの失礼ですが、ご主人様にご挨拶をしたいのですけど。ご挨拶もなしでは、雨宿りとはいえ、客としてはとても不安です」
執事はアランの言葉に一瞬びくっとなった。
「ご挨拶は必要ないかと存じます、クローブス様。このような状況は、私に一任されておりますから」
と執事は言った。
そんなことあるだろうか? アランは首を傾げた。
「それは、困ります。ではせめて、ご主人はどちら様であられますか?」
この邸の主人が誰か分からないと、もてなし一つも安心できない。貴族だろうから、名前さえわかれば、後々社交の場ででも、礼を言わせてもらえるかもしれない。
しかし、
「私からは申し上げられません」
と執事は申し訳なさそうに答えた。
「こちらはモリー・ハイマー侯爵の領地ですね。そちらの縁者の方ですか?」
とアランは なおも食い下がった。
「それは違います。もちろんこの邸は、ハイマー侯爵家のものでございますが。少し事情がございまして」
「はあ……?」
「はい。ただ、クローブス様のご不安もよくわかります。後ほど、主にはきちんとお伝えいたします」
と執事は、アランの心配を理解して、約束した。
アランは腑に落ちない顔のまま、主人不在の客間で、暖かいお茶をもらった。
2.
その頃。執事が先程カーテンを閉めた先にある、中庭の東屋。
雨風は強くなり、東屋の中には雨が降り込んでいた。
しかし、そんな吹きさらしの中、二人の男女がいちゃついていた。カウチに寝転ぶ男の上に、女が寝そべって、心地良さそうに男の少し長めの前髪を弄んでいた。少なくとも女の方は、この雨風に動じる様子はなかった。
「髪切ったら別れるからね、リチャード」
とレネーは言った。
「髪の毛で?」
リチャードは笑った。
「私は、あなたの見た目が好きで付き合ってるんだもの」
「え、中身じゃないわけ?」
リチャードが心外、といった顔をする。
す
「中身なんて言い出したら、私みたいな女と付き合う男は、中身なし」
「レネー、自分で言う?」
「でも思ってるでしょ?」
「思ってるわけないだろ。それより、レネー。もう嵐だよ、部屋に戻ろう」
リチャードはレネーの肩をさすった。
「あら、私、雨、大好き」
「もうこんなに冷たくなってるじゃないか。風邪ひくから」
「あなたが暖めてくれるんでしょう。少し寒いくらいの方が、人肌を感じさせてくれていい」
「人肌欲しいの? かわいいヤツ……」
リチャードはレネーの髪を取りキスをした。
「この邸で私を慰めてくれるのは、あなただけね」
レネーはリチャードの袖口をつかんで引き寄せた。
「光栄だよ。あなたを慰められて」
リチャードは、丁寧に深くくちづけた。レネーはそっと舌を絡める。リチャードの身体がかっと熱くなった。
「あー、もう。俺ももう少し冷静なはずだったんだけどな。君と出会ったらおしまいだ」
リチャードはレネーの腰に手を回してきつく抱きしめた。
「あなたの目、最高だわ」
レネーは美しく笑った。リチャードの少し長めの前髪から覗く、鋭い切れ長の瞳。初めて会った時から、もの欲しそうにレネーを見ていた瞳。
「もっと、もっと、きつく抱きしめて。私が欲しいんではないの?」
「欲しい」
リチャードは、レネーの顔を両手で挟み、顔を近づけた。
もう一度唇が触れようという時、レネーは
「じゃあ、脱がせる?」
と甘く囁いた。
リチャードはふっと笑った。
「それは絶対ダメ」
「あら、意外……」
「意外なもんか。あの執事が見てないわけないし。レネーに風邪をひかすわけにはいかないし。続きは部屋で」
レネーはリチャードの言葉に笑った。
「自制心? 紳士ぶってるのね」
「ばか。でも、そんな言い方されると、ちょっと、俺も我慢ならない」
リチャードは、一旦レネーの顔から手を離し、自分の上着をレネーの肩にかけた。
それからリチャードは雨の中、貪るようにレネーの唇にキスをした。
3.
嵐は止む気配を見せなかったので、結局執事はアランに客室を用意した。
「簡単な部屋で申し訳ありませんが」
と執事は丁寧にアランに謝った。
「いえ、とんでもないです。泊めていただけるなんて」
とアランは申し訳なさそうにお礼を言った。
「でも、ご主人様にはお伝えしていただけましたか?」
とアランは確認した。
「はい。きちんとクローブス様のことはお伝えしてあります。嵐が止まぬようであればお泊めするように、とおっしゃったのも、主でございます」
と執事はにっこりした。
「あの、やはりご主人様にご挨拶をしたいのですが。ここまで親切にしていただいて」
とアランは頼んだ。
「で、ございましょうね。私からも、もう一度主のほうに声をかけてみます。気が向かれましたら、来られるでしょう。まぁ、気まぐれな方です。本当に、本当に、お気になさらず。一晩の雨を凌がれたら、早々にお発ちになってもよろしいかと思います」
と執事は言った。
アランは、はっきりしない答えに、困惑した。
しかし、出された夕食は素晴らしかった。何種類もオードブルが出され、スープも珍しい野菜をベースに使ってあった。メイン料理も手の込んだ工夫がしてあり、このような料理はなかなかの邸でないと振る舞われる事はないと思われた。
そして、食事中はずっと執事がアランの話し相手になってくれていた。
この土地の風習や特産品、勝景地、それからこの地方の人の人柄まで、いろいろなことを気さくに話してくれた。おかげでたいへん楽しい食事になった。
「失礼ですが」
アランはカトラリーをテーブルに置き、じっと執事の顔を見ながら尋ねた。
「あなたほどの方を執事として雇えるようなご主人様と言うのは、よほどな身分の方であられましょう。部屋のしつらえも食事のテーブルの隅々に至るまで、何もかもが行き届いている」
「そういっていただけると恐縮でございます。でも私など大した人間ではございませんよ」
とまだ若い執事は照れて下を向いた。
「とんでもない。私の家は貧乏伯爵家ですから、余計に分かりますよ。あなたのご主人様は……」
とアランが言いかけたとき、執事は何かに気付き、はっと顔を上げた。
「ご主人様がいらっしゃいました」
執事は小さな声でアランに言うと、すぐさま席を立ち、部屋の入り口へ駆け寄ると、優雅な物腰で扉を開けた。
足音したか? とアランは呆気にとられた。と同時に、執事の開けた扉の向こうに立っていた人物に、目を奪われた。
それは、若く美しい、堂々たる令嬢だった。
アランは、なるほど、と思った。これほどの執事を置けるのも納得だ。アランもすぐさま立ち上がり、令嬢の方へ寄った。
令嬢はアランに微笑みかけた。
「あなたなの、客人と言うのは。こんなところまで来て嵐に見舞われるなんて、お気の毒ね」
「私はアラン・クローブスと申します。一夜の雨宿りに、こちらのほうに立ち寄らせていただきました。感謝申し上げます」
アランはとりあえず、邸の主人に挨拶できたことでほっとした。
令嬢は少し考えてから、
「クローブス伯爵家の三男坊様?」
と訊いた。
「あ、はい。私のことを知っているのですか?」
アランは少しギクリとした。自分のことを知っているなど、何者……?
「へえ……」
令嬢は、急に興味を持った瞳でアランを見つめた。
「私はレネー・エリンソンよ」
アランははっとした。
その名前は知っている。社交界で、だいぶ噂になった名前だ。レネー・エリンソン元伯爵令嬢。
「あなたの、その顔。私の噂はよく知ってるって顔だわ。そうよ、私は行方不明になっているはずだものね」
レネーは微笑んだ。
「あ、いえ、そんな悪い噂は……」
アランはかぶりを振った。
「しどろもどろにならなくて結構よ。別に私は何も気にしてないし。私はしばらくこの邸に滞在しているの」
レネーは薄く笑った。
「そうでしたか。私は噂しか知りませんので。では、こちらにレイモンド王太子殿下もいらっしゃるんですか」
アランはまっすぐな瞳でレネーに訊いた。
「あなたって直球ね」
レネーは、ふーっと息を吐いた。
「でも、残念だけど、レイモンド殿下は、こちらにはいらっしゃらないわ」
「それは私の聞いていた噂とは違いますね。私の聞いた噂では、あなた様はレイモンド殿下と、駆け落ちなさったと言う話でしたので」
と、アランは疑惑の視線をレネーに向けた。
「ふふ。私はレイモンド殿下に振られたのよ。殿下の女ったらしはご存知でしょ? 殿下は出ていかれたわ」
レネーは美しく微笑んだ。
「そうでしたか。でも……」
「何?」
「なんとお声掛けしたらいいかわかりませんね。あなたは振られたと言うのにちっとも悲しそうではないし」
「もう十分悲しんだの」
「そうなんですか? あなたは美しいまま、少しも窶れてはいないし、むしろ余裕さえ感じられる」
「あなた、すっごいこと言うわね。美しいと言われたら嫌な気はしないけれども」
レネーはクスクスと笑った。
「にしても、あなたの駆け落ち後の情報なんて、特大スクープですね。もちろん誰にも言いませんけど」
とアランは笑顔で言った。
レネーは少し不思議そうな顔をした。
「ねえ。あなた、クローブス伯爵家の三男坊なんだから、よーく分かってるんではないの?」
「何のことですか?」
とアランは聞いた。
「だって、とっくに話はついてるじゃないですか。クローブス伯爵様も、この邸をあてがって下さったハイマー侯爵様も、それからクシュナー伯爵様もでしたよね? 皆様、レイモンド殿下を廃嫡しようとしていた。だから、駆け落ちして差し上げたんじゃないですか」
レネーは鋭い目付きでアランに言った。
「は? 何ですか、それ」
アランは、ぽかんとした。
「レイモンド殿下を廃嫡? あなた方が勝手に駆け落ちしたんでしょう?」
アランは真っ直ぐな瞳でレネーを見返した。
「あら、その顔。え、本当に知らないの? クローブス家の者なのに?」
レネーは一瞬たじろいだ。
アランは頭がぐるぐるした。
アランが知っているのは、レイモンド元王太子が、婚約者を捨てて、不義の恋人と駆け落ちし、行方をくらましたということだ。だから父や懇意にしているハイマー侯爵やクシュナー伯爵たちで、レイモンド殿下の弟君のブラッドリー殿下を次の王太子に推挙した。
原因と結果は逆だったのか? 父やハイマー侯爵、クシュナー伯爵の方が、原因だったのか?
確かにレイモンド殿下の陣営には名門貴族が脇を固めており、貧乏伯爵家の父や、ハイマー侯爵、クシュナー伯爵が入り込む余地はなく、確かに父にとっては、今の方が都合が良さそうだ。
「えっと。お分かりになった?」
とレネーはアランの額に滲んだ汗を見て、少し気遣うように聞いた。
「知らなかったのね。申し訳なかったわ」
「いや、しかし……。父たちの陰謀? 本当ですか?」
アランはまだ混乱した頭で訊いた。
「駆け落ちした私が、ブラッドリー殿下の陣営、ハイマー侯爵の領地内にいることが、何よりの証拠じゃありませんか」
レネーは、なんだかアランの様子が面白くなって、ふっと笑った。
「いや、レネー様、笑い事ではないでしょう。あなた、王太子と駆け落ちなさったんですよ。どれだけの罪だと思っていらっしゃるんです? エリンソン家は爵位も領地も失って、散り散りと聞きます。 父の陰謀だったとして、あなたが父に加担する理由は何だったんです?」
アランは語気を強めてレネーに言った。
が、言ってしまってから、まずいことを言ったのかもしれないと思った。レネーから一瞬強い憎悪ようなものを感じたからだ。
しかし、レネーはすぐに平静な顔を装い、
「まぁいいわ。あなたがクローブス家の方なら、ハイマー侯爵も問題視なされないはずだものね。雨宿りをして、さっさとお帰りになるといいわ。では失礼します」
と話を切り上げて、部屋を出て行ってしまった。
アランは気まずさを感じながらも、レネーについて考えずにはいられなかった。
実家を犠牲にしてまで、レイモンド殿下をたぶらかし、父やハイマー侯爵、クシュナー伯爵の企みに加担したこの女は、男に振られてこの邸で一人、一体何を考えているのだろうか。
4.
あの日、レイモンドは少し落ち着きのない様子だった。
レイモンドは、レネーを別邸に呼び付けておきながら、出迎えもしなかった。レネーがレイモンドの部屋に通されるとすぐに、レイモンドは使用人たちを人払いをした。
どうしたんだろう、いつもより少しピリピリしているなとレネーが思っていると、レイモンドはレネーの腕を引っ掴んで、ベッドに促した。
今日は少し強引ね、とレネーが思っていたら、レイモンドは膝枕をねだった。レネーは少しホッとして、膝を貸してやった。
レイモンドは、レネーの膝の上に仰向けになると、目を閉じた。レイモンドの整った顔が少し緩んだ。レネーはレイモンドの頭を撫でてやる。
それから、レイモンドはもぞもぞと横を向くと、レネーの腰に腕を回し、レネーにぎゅっと抱きついて顔を埋めた。
レネーは今度は、レイモンドの肩を撫でてやった。
「レネー、キスして」
レイモンドが今度はキスをせがんだ。
「こんな姿勢じゃ無理よ」
「じゃあ降りる」
レイモンドはレネーの膝から離れると、レネーの横で大の字になった。
「さあ、ほら。レネー、キスして。早く」
「仕方ないわね」
レネーはレイモンドの上にかがみ込んで、そっと口付けた。
「レネー、もっと」
レイモンドは両手を伸ばしてレネーの顔を挟むと、ぐっと引き寄せた。
「やだ、ちょっと……」
「レネー。俺にまたがって、してよ」
レイモンドが駄々っ子のように言う。
「レイモンド……今日は……」
「愛してる、おまえだけ! 頼むから」
レイモンドの言葉にレネーは少し困った顔をしたが、レネーには断れなかった。
そう、この顔。レネーが大好きなもの。ばかみたいだけど、仮にも貴族の娘が、立場を忘れて全てを捧げてしまったもの。この人が好きで、こうしてずるずるきてしまった。決して、レイモンドには言わないけれど。
「仕方ないわね」
レネーは自分の顔をゆっくりとレイモンドの顔に近づけると、ふっと笑って、今度は深く口付けた。
事が済むと、レイモンドは汗ばんだ体をレネーから離し、ころんと転がってそっぽを向いた。レネーは何やら違和感を感じた。
「どーしたの、レイモンド、急に」
レネーの言葉にレイモンドはそっぽを向いたまま、途方に暮れたようなため息をついた。
「ねえ、どうしたの、レイモンド」
レネーはもう一度聞いた。
レイモンドはもぞもぞしていたが、ようやくレネーの方を振り返ると、小さな声で言った。
「……レネー、俺、殺されそうなんだ」
レネーは、ああ、と思った。
「知ってる」
「え、知ってんの!?」
レイモンドがぎょっとした顔をした。
「うん。あんたの周り、取っ替え引っ替え、変なやつ嗅ぎ回ってる。どーせ、弟さん一派でしょ?」
「え、誰だよ、弟一派って」
「ハイマー侯爵とか、クローブス伯爵、クシュナー伯爵とか?」
「ええー。むっちゃ詳しいじゃん。知ってたんなら、もっと早く教えろよ〜」
「なんで教えなきゃいけないのよ、私、関係ないじゃん」
「関係あるだろ、恋人だろ!」
レネーは、レイモンドの言葉に胸が締め付けられる思いがした。恋人。レイモンドは、そう言ってくれている。
レイモンドの気持ちは知ってる。自分の気持ちも分かってる。でも、だめだ。婚前交渉はさほど珍しくもないが、侯爵令嬢と婚約している王太子様なんて、相手が悪すぎるから。お互い本気になってはいけない。
「え、やだ。そんな風に思ってたの? 遊びじゃない、やめてよね〜。あんた婚約者いるじゃん。王太子サマ」
レネーの言葉に、レイモンドは泣きそうな顔をした。
「婚約者とか本妻なんて、飾りじゃん! 政略結婚が多いんだから、多少の自由恋愛は目ぇつぶってもらえるだろ! 俺が本当好きなのはレネーだけだし!」
「うわ、最低、レイモンド。婚約者のサマンサ様かわいそすぎ」
レネーは敢えて、レイモンドをなじるような言い方をした。
「おいっ! 俺とこんなことしといて、サマンサ可哀想とか、お前がゆーな!」
レイモンドはレネーに言い返した。
レネーは困った顔で笑った。
「あはは、だねー。でも、恋人は勘弁かな〜。なんで殺されそうな人を恋人にしなきゃいけないのよ。私までとばっちりで殺されたら嫌じゃん」
「なんてこと言うんだよ! お前は味方だと思ってたのに!」
「味方? やめてよね。めんどくさいし、権力闘争とか」
言いながらレネーは、苦しい気持ちでいっぱいになった。ずっとこうやって、適当に逃げるようなことを言っている。レイモンドと会うことをやめないくせに。
そうと気づかず、レイモンドは本気で傷ついた顔をした。
「じゃぁ、お前は俺が殺されてもいいわけ? こないだだってさあ、俺いきなり背後から襲われてさあ……」
レイモンドの話を聞いて、レネーはまずいと思った。連中はそんなに露骨に事をなす気でいたなんて。
しかし、レネーはわざと鼻で笑ったふりをした。
「死んだら弔ってあげる。昔愛した男でしたって」
「昔? 昔にすんの? 俺のこと?」
「うん。だって、知ってるし。あんたが私以外の女にも誰彼構わず声かけてる事とか、プレゼント送っている事とか、手握っている事とか、キスしてることとか、女部屋に連れ込んでることとか」
レイモンドは、目を見開いて、げっ、といった顔をした。
「レネー、それは……」
「何か言い訳ある?」
「いや……」
「バレてないと思ってた?」
レネーは心とは裏腹に、薄く笑って見せた。
「誰のせいだと思ってるんだよ」
「誰のせいなのよ?」
「おまえのせいに決まってるだろ、レネー」
レイモンドは苦しそうにレネーに言い返した。
知ってる、とレネーは心の中で思った。私がわざとつっけんどんな態度をとっているから、レイモンドは満たされないものを 他の女で埋めようとしていたのだろう。浅はかだけど。
レネーとしても、自分との仲をカモフラージュするためにも、レイモンドにたくさん女がいたほうがやりやすかった。だから放っておいたところもある。
しかし、それも含めて、レイモンドはレネーと出会ってしまってから、いろいろなことが疎かになり、どんどん評判を落としている。サマンサの実家のローレンツ家も何事かと思い始めているようだ。
「お、女のことは置いといて、話戻すけどさぁ、俺を王様にしたくなくてもさあ、別に俺のこと殺さなくてもいいと思うんだよね」
「それはそうだね」
「ねー、何とかならないかなぁ。王様になりたいと思わないけど、殺されるのは嫌だなぁ」
「そうは言ってもねぇ。サマンサの実家のローレンツ家は、あんた王様にする気満々だしね。まあ、だから、ローレンツ家が守ってくれるんじゃないの?」
とレネーは素っ気なく言った。
「俺が命狙われてるって、誰も気づいてないんだよ」
「ああ、そうだねー」
そう言いながら、レネーは確かにしくじったと思った。
執務に身の入らないレイモンドは貴族たちからの信頼も薄れ込みで、執務上での付き合いになりかかっていた。
権力争いがあることもわかっていたはずなのに、それを制すには信頼できる臣下が必要だということもわかっていたのに、ついつい自分を優先させて、レイモンドが孤立しそうになっていることに、目をつぶってきてしまった。
ブラッドリーの一派が、レイモンドを殺そうとしているとまでは、想像しなかったし。
レネーは、どうしたものかと思いめぐらせながら、とりあえずレイモンドには
「私じゃなくて、ローレンツ家はじめ、あなたの側近たる人たちに相談しなよ」
と言った。
「でも、ローレンツ家を頼ったら、もう俺がおまえに会うことなんかできないよ?」
「そりゃそうでしょ。でも死にたくないなら仕方ないんじゃ?」
「レネー、俺はやだよ。おまえと離れるのだけは嫌だよ」
「ばか。そんなこと言ってる場合?」
レネーはピシャリと言った。
「元気出してよ、レイモンド。何とか……、なるかやってみるから」
それでレネーは、レイモンドとはきっぱり別れて、ローレンツ家に相談に行こうと思っていたのだ。
レネーはローレンツ侯爵に約束を取り付けた。
そうしたら、誰かレネーの様子を窺っていた者がいたに違いない。レネーはローレンツ侯爵の邸の前で、ハイマー侯爵とクローブス伯爵に、誘拐されてしまったのだった。
レイモンドの状況をローレンツ家に知らせることができなかっただけではない。ハイマー侯爵は、レネーを人質に、レイモンドによからぬ交渉をしようとしていた。
レネーには、自分が人質である以上、レイモンドがハイマー公爵の提案をはねつけるとは、残念ながら思えなかった。
自分がレイモンドの傍にいなければ、最悪の事態も予想できた。
それでレネーは、自分がハイマー侯爵と交渉することにした。
「レイモンドと駆け落ちする」と。
自分でもくだらない提案だったと思う。
でもあの状況で、自分の身一つでレイモンドを守らなければならないという時に思いついたのは、情けなくも、たったのこれだけだった。
5.
リチャード・ハイマーは、レネーの邸から帰ろうとしてぎょっとした。客間に灯りがついていたからだ。
「誰か来ているのか?」
リチャードは、見送りに出ていたレネーの執事に訊いた。
そもそも愛しのレネーが見送りに出てきていない。何か変だ。
「アラン・クローブス様が雨宿りにいらしてます」
と執事は何事もなさそうな様子で淡々と答えた。
「アラン・クローブスだと? なぜクローブス家の子息が?」
「いえ、深い理由はなさそうです。実際何も知らないご様子でしたし」
「何も知らない?」
リチャードは絶句した。
「レネー様の顔もご存じありませんでしたよ」
「クローブス家の者なのに知らないって、そんなことあるか?」
「私も驚きました」
執事は率直に答えた。
「そうか。しかし、どうせレネーは親父たちのことを話したんだろ?」
「はい」
「何も話さなくてよいのに。なぜ、あいつは、わざわざ……」
「そうですね。私も同感です」
執事はため息混じりに答えた。
「それで、クローブス家の子息は、どんな反応を?」
「それは心配なさらなくても大丈夫だと存じます。アラン様はクローブス伯爵家の者ですし。それに、万が一アラン様が何か不穏な動きをするようであれば、クローブス伯爵が止めるでしょう」
「そうだな、そうでないと困る」
と、リチャードは険しい顔をして言った。
執事は頷いた。それから執事は、リチャードの顔を見て、丁寧に進言した。
「それに、レネー様のことは、リチャード様がお守りすればよろしいんじゃないですか?」
「どういうことだ?」
「レネー様との関係を まだお父様のハイマー侯爵にお話しになられてないのでしょう?」
執事の言葉に、リチャードは顔を真っ赤にして、声を荒らげた。
「話せるか! 王太子と不義の恋仲になって駆け落ちした女だぞ!」
そのとき、リチャードの、背後から
「あら……」
と声がした。
「あ……レネー……!」
リチャードの顔色が変わった。
「ごめんなさい、リチャード。いけない場に出てきてしまった」
レネーは屈託なく笑った。
「聞こえたか? いや……違うんだ! あれは父上にとっては、という意味で……。俺はそんなこと思ってない」
とリチャードはレネーに縋り付くように跪いた。
「いいのよ、別に。間違ってないし」
レネーは、本当に何も気にしていないような笑顔で答える。
「レネー! 誤解だ! すまない。今すぐにでもあなたとの結婚を父上に話す! もともと、あなたを手に入れるためなら、何だってする覚悟だ」
リチャードはレネーの手を取り、許しを乞うようにキスをした。
「そう……ありがと。でも、無理しなくても、私はあなたの遊び相手で結構よ。お父上にも言わなくていいと思うわ。反対なさるだけだし。私はふしだらな女ですもの。立場は十分わきまえてるわ」
とレネーは微笑んだ。
「やめてくれ、レネー。あなたは遊び相手じゃない! 私の恋人だ」
「恋人だなんて、公言してはいけないわ。リチャード、あなたはハイマー侯爵家の大事な長男ですもの。然るべき令嬢とご結婚なさることを望まれてるでしょ」
とレネーは冷静に嗜めた。
リチャードは真面目な顔で、真っ直ぐにレネーを見つめた。それから、はっきりと言った。
「あなた以外の人を妻にするなんて考えられない」
「リチャード、しっかりなさい。みっともないこと言わないで。私は十分慰めてもらったわ」
レネーは少し困った顔でリチャードを叱った。
リチャードは苦しそうにレネーを見た。
「それは……身体だけの関係だと言うのか? 恋人だとも言わずに?」
「恋人なんて言っちゃダメでしょ、ばか。人生に傷がつくわよ。もう、さっさと帰んなさい」
レネーはリチャードを軽く睨んで、くるりと踵を返した。
「レネー!」
リチャードはレネーの背に必死に呼びかけたが、レネーは振り返らなかった。
レネーの背を追いかけようとして執事に止められたリチャードは、そのまま馬車に押し込まれてしまった。
「まいったな……」
馬車の中でリチャードは頭を抱えた。
初めは、レネーのことは遊びのつもりだった。
一年前、ハイマー侯爵とグローブス伯爵は、レイモンド殿下についてローレンツ侯爵に話をしようとしたレネーを 誘拐した。
そのまま、レイモンドへの脅しに使えると、ほくそ笑んでいたところ、それに気づいたレネーは、父と何か交渉したようだった。
どんな内容だったのか、今なら分かるが、とにかく話がついたと、ハイマー侯爵は領内の邸をレネーとレイモンド殿下にあてがった。
それでリチャードは、ちょっと、婚約者のいる王太子をたぶらかした女がどんなものか、見に行っただけなのだ。
だが、その駆け落ち女は、部屋を訪れれば真剣な表情で堅苦しい手紙を書き、客間ではメソメソしている王太子を叱り飛ばし、邸の外では鋭い目つきのどこぞの高官たちと密談をしていた。
なんか思ってたようなエロい女じゃないのかなーと思っていたら、邸から王太子が消えた。
「あれ、レイモンド殿下は?」
と聞いたリチャードに、
「私、振られちゃった」
とレネーは明るく笑って言った。
レネーとの関係が始まったのは、そこからだった。はっきり言って、レネーはエロかった。
でも最初はお茶だけだった。レネーは手を握らせるどころか、全てのエスコートを断り、男の自分と必ず一定の距離をとった。やっとのことで郊外に連れ出す口実をつけて二人で出かけて、その時にはもう、リチャードはレネーに本気だった。
リチャードはその日、やっとレネーの手と髪に触れた。その感触が忘れられなくて、その晩、リチャードは寝付けなかった。
「まずいな……」
レネーの手と髪を触れた手を見つめて、自分の唇に当てる。
「こんなはずじゃなかったのに……気色わる……」
そして、ずるずるとレネーにはまっていった。会わないと苦しい。会うと触れたくなる。
やっとレネーの邸の中庭の東屋で、レネーの唇にキスできた時、リチャードはすごくほっとした自分に気づいた。やっとレネーが自分のものになるという前向きな希望……。
レネーが王太子の不義の恋人で、駆け落ちしてきた女だったことなど、もうリチャードにはどうでもよかった。
しかし、レネーがリチャードを受け入れ、レネーと身体を重ねた後、とてつもない満足と同時に、恐ろしい不安がリチャードを襲った。
未来のことだった。
父、モリー・ハイマー侯爵は、レネーと自分との結婚を許すだろうか……。父は、自分とレネーの関係を知ったら、別れさせるだろうか。もうリチャードには、レネーなしの人生は考えられなくなっていた。
それなのに、レネーのさっきの態度だ。俺に違う女と結婚しろと言う。
そもそも父に許可が出たとして、レネーは俺と一緒になる気はないのだろうか? ハイマー侯爵領から出ることを許されていないレネーだ、無理にでも囲ってしまえば俺のものになるだろうか。
自信がないよ、俺は。
わかるよ、レイモンド。お前も自信がなかったんだろ。あんたはレネーにぞっこんだった。レネーに出会う前のあんたは、もっと王太子として威厳があった。堂々としていた。でもレネーと出会って、あんたはダメになった。
あんたは、レネーと一緒にいたいから執務がおろそかになり、それでもレネーに尻を叩かれて執務に出た。レネーに「あれ、よかったよ」と言われれば有頂天になり、「馬鹿な決断したもんね」と言われれば心底落ち込む。そのうちレネーの批評が怖くて、あんたは自分で決断できなくなった。それでうちの父もクローブス伯爵も思ったんだ。今のあんたなら廃嫡できる、と。そして弟のブラッドリー殿下を祭り上げた。
俺も一緒か?
頭では分かっている。弟君のブラッドリー殿下がやがて国王となるとき、傍に控えるのは自分なのだ。汚点があってはならない。
レネーはブラッドリー殿下の兄の不義の恋人。王太子をたぶらかし、駆け落ちした張本人。爵位剥奪された家の令嬢。そんな女を妻にするなど、世間は認めない。
やはり、言えない、父には。レネーとの関係など。将来を考えれば、正気とは思えない。
それでも、俺はレネーと一緒になりたい。世間には認められないなら、レネーを一生隠してでも、俺のものにしたい。誰にも知られずに、こっそりと、俺だけのレネーにする。逃げることも、死ぬことも許さない。俺はレネーを一生愛する。
きっと、全てを手に入れるには、そうするしか、ない。
6.
翌朝は驚くほど晴れた。
空が白み、陽の光ががうっすらと世界を包み始めた頃、レネーは起き出した。
メイドは慌てて飛び起きて、レネーに朝食用の服を着せようとした。しかしレネーは遠乗り用の外出着を持って来させた。
レネーが着替えると、執事が飛んできた。
「レネー様、どちらへ行かれるんですか?」
「いつものところへ」
とレネーは答えた。
執事は小さく頷いた。
「お供はお連れになりますか?」
「いらないわ。朝食までには必ず戻る」
「かしこまりました」
執事は厩までついていき、馬番を叩き起こすと馬の準備をさせた。そして執事は、馬にまたがって遠乗りに出かけるレネーを見送った。
昨日アラン・クローブス様と話されて、レイモンド殿下のことを思い出したのでしょうね、と執事は思った。
レイモンド殿下のことを思っていそうな日は、レネー様の出かける場所はだいたい予想がつきますー。
レネーは馬を駆けた。白かった空は少しずつ青くなっていく。細い山道をずっと行き、峠に差し掛かると、レネーは馬を止めた。ハイマー侯爵の領地の南端。
レネーは、モリー・ハイマー侯爵と約束をしていた。ハイマー侯爵領から出ないこと。
峠から向こうは、なだらかな丘陵地帯で、緑の絨毯が続いていた。
「レイモンド」
レネーは呟いた。
「レイモンド!」
レネーは届かない声で呼んだ。
元気でやってる? あなたを逃して正解だった。あいつらは腐ってる。あいつらは約束を守らない。逃げてなきゃ、あなたは今頃、殺されてたよ。
今はどんな女を腕の中に抱いてるの。あなたは見境がなかったから、どんな女でもよかったものね。
出会わなければよかったかな。私があなたの人生を狂わせたね。
愛していたよ、レイモンド。あなたの腕の中にいると、心が溶けていくのを感じた。ドロドロだった。底なし沼だ。
バカな私。
好きなものほど、大切に守らなければならないのに。
レネーは、ここにはいない男を想って、泣いた。
そのとき、
「ここから先には行かないんですか?」
と不意に後ろから声がして、レネーは心臓が飛び出るかと思った。
「だれっ」
ぱっと振り返ると、そこにはアランが馬を連れて立っていた。
「アラン様?」
「寝付きが悪くて早く目が覚めたら、窓から馬を駆けるあなたを見かけたんで、こっそり追いかけてきてみました」
とアランは微笑んだ。
レネーは顔を顰めた。
「変態」
「あなたが言いますか?」
アランは笑顔を崩さずに返した。
「……」
レイモンドを思い出して、すっかり調子を狂わせていたレネーは、何の返答もできなかった。
そのとき、アランはレネーの目に浮かぶ涙に気づいた。
「あ……なんか、すみません。えっと、ここから先へは行かないんですか?」
「行けないのよ」
レネーは苦しそうにふいっと顔を背けた。
「なぜ?」
「ハイマー侯爵領から出ない約束なの」
「なぜ?」
「私が王宮に戻って、ハイマー侯爵や、あなたの父上の邪魔をするといけないからよ」
レネーは美しく微笑んだ。
アランは言葉を失った。
「……あなた、籠の鳥だったんですか」
「そう」
アランは、全てを察した。
アランはごくりと息を呑んだ。昨夜、寝付けずに、新しく知った事実についてどうしようかと考えていた。
「レネー様、昨日の話の続きをしていいですか?」
「ええ、どうぞ」
レネーは話題が変わってほっとした。
アランは
「私は、レイモンド殿下の元婚約者のご実家、ローレンツ侯爵家のことをうまく纏めるよう、父に指示されているんです」
と言った。
「あら、大変なお仕事ね。ブラッドリー殿下を担ごうとするなら、レイモンド派筆頭のローレンツ侯爵が黙っていないものね」
ローレンツ侯爵が、娘のサマンサが王太子妃になったときに得られたはずの権力を、簡単に諦めるとは思えない。
「そうです。ローレンツ侯爵は、父たちと対立してるんですよ」
対立ムードは王宮中に広がり、そしてやがて、国王の耳に入ることとなり、国王が懸念の意を表明した。
クローブス伯爵やハイマー侯爵、クシュナー伯爵は慌てた。国王が懸念の意を表明したという事は、そろそろ国王が動き出すと言うことである。
彼らにとっては、今、国王に出てきてもらうのは望ましくなかった。自分たちに都合よく収めるはずのところが、ひっくり返される恐れもあるためだ。国王が動く前にローレンツ侯爵家と話をまとめなければならない。
「簡単なのはローレンツ侯爵家の令嬢とブラッドリー殿下を婚約させることなんですけどね」
とアランは言った。
「そうね」
レネーは頷いた。
「でも、ブラッドリー殿下はクシュナー伯爵の令嬢と婚約している。クシュナー伯爵がこの案に賛成するはずはないでしょう?」
アランはため息をついて言った。
「そうね」
レネーはまた相槌を打った。
「それで僕は、どうしようかと思ってるんです」
アランはにっこり笑った。
「え、それ、私に相談するの?」
レネーが呆れた声を出した。
すると、アランはニヤリと笑った。
「違いますよ。提案です。あなたは色々反省されてるんでしょう?」
「は?」
「全部なかったことにすればいいじゃないですか。レイモンド殿下が王宮に戻ればいいんです」
と、アランは、笑顔を崩さずに言った。
レネーはぎょっとした。
「ちょっと、それって、あなたのお父上を裏切ることになるんではないの……」
「そうですかね」
「そうよ。だからだめ」
レネーは首を横に振った。
「私は父を裏切ってもいいですよ」
「だめです」
「それは、私を心配して言ってくれてるんですか?」
「そういうわけじゃないけど……」
レネーは言葉を濁した。
レネーは呆気にとられていたが、ふっと笑った。
「でもダメよ。レイモンド殿下は、命を狙われてたの。戻っても殺されるだけだわ。わりかし、あなたのお父上やハイマー侯爵は、手段を選ばないの」
「へえ?」
アランは興味深そうにした。
レネーは、わざと軽い口調で言った。
「何度かレイモンド殿下と一緒に、クローブス伯爵家の夜会にも行ったけど、ほんと冷たい態度でねえ」
「そりゃ、王太子の不義の恋人を歓迎するほど、うちの実家は下品じゃないんで」
アランも調子を合わせる。
「言うわねえ。そうそう。歓迎なんてものじゃないのよ。馬車に細工はしてあるし、食事になんか薬は盛られるし、ブランケット借りたら痺れるし、あんまり生きた心地がしなかったわ」
「それは、大変でしたね」
「挙句、私、誘拐までされて。私の命が大事なら言うこと聞けってレイモンド殿下に」
「え……? は? あなた、誘拐、だったんですか?」
「そうなの。なかなか恐いでしょ。だから、戻ってもあんまり良いこと無いのよ」
レネーはため息をついた。
アランはしばらく下を向いていたが、ようやく何か決心したようにレネーの顔を見た。
「だったら、うちの父やハイマー侯爵がいなくなればいいんでしょう? 私があなたをここから連れ出して、レイモンド様が戻り、皆で国王陛下に全部お話しすればいいんですよ」
「だから、それは、あなたのお父上が断罪されるからだめよ」
アランは、レネーの素直になれない感じに、笑いが込み上げてきた。それで、わざと明るく言った。
「私は三男なんです。父と兄を断罪して追い出せば、私が爵位を継げるかもしれない」
「あなた……言うわね」
「言います」
アランは笑って答えた。
「レネー様。あなたは、うちの父やハイマー侯爵に誘拐された。そして脅されて、無理矢理駆け落ちって形でレイモンド殿下を守った。レイモンド殿下をサマンサ様に潔く返して、あなたはレイモンド殿下を忘れなさい」
「……」
「あなたは一生籠の鳥を続けるんですか? そもそもハイマー侯爵があなたを生かしておくと思いますか?」
レネーの顔から急に色が無くなった。
「思わない……」
「私も思いませんよ。まあ、あの完璧な執事や、あの騒がしいあなたの新恋人が、命くらいは守ってくれるかもしれませんが」
「リチャードは恋人じゃないわ……情報源だから」
レネーは首を横に振った。
「そうでしたね。あなたの恋人はレイモンド殿下お一人ですもんね」
アランは淡々と答えた。
レネーははっとして、苦しそうな顔をアランに向けた。唇が少し震えていた。
「あの方も違うから……遊びだから」
「そうですか? 本当に? あんな悲痛な呼びかけを聞いたら、助けてやろうって気にもなりますよ」
アランはふうっと息を吐きながら言った。
「聞いてたの!?」
「聞いてました」
「恥……」
レネーは下を向いた。
「なんです? 他に言うことあるでしょう、言ってご覧なさい」
アランはうんざりした顔で言った。
レネーはアランを見た。アランのまっすぐな嘘偽りない瞳にぶつかった。
レネーは躊躇った。
しかし、アランは厳しい目をしてレネーを見下ろしていた。
とっくにアランは決意しているのだ。
レネーは目を背けた。
「いいんですよ。あなたのためだけじゃない」
アランは優しく言った。
レネーは堪えきれなくなった。
アランの目は温かかった。
レネーの瞳に涙があふれてきた。
「アラン様…… どうか私とレイモンド殿下を助けてください……」
「最初から、素直にそう言えばいいのに」
アランはレネーの頭をぽんぽんと撫でた。
「私はいちど王都に戻り、いろいろな手筈を整えます。あなたは時が来たら、素直に私の言う通りに従ってくださいよ」
7.
アランはとてもうまくやった。
アランは、レネーと約束してから王都にすぐに戻った。
アランは、「国王の貴族同士の対立に対する懸念の意」を上手に利用した。
国王が表明している以上、それに関する事は直接国王に上奏できたのだ。
レネーはハイマー侯爵領の例の邸で、アランに呼び出され、国王の前で証言する日を待っていた。
しかし実際には、なんと、国王がレネーの邸を直に訪れた。
国王の休養と言う名目で、ハイマー侯爵領の山岳地帯が選ばれ、偶然を装って国王はレネーの邸を訪れるように仕組まれていた。
国王に同行していたモリー・ハイマー侯爵の慌てぶりといったら凄かった。しかし有無を言わさず、アランは国王をレネーの邸へと案内した。
レネーは国王の来訪の知らせを受けると、驚いて息が止まるかと思ったが、転げるように玄関先へと飛び出していった。
国王の顔を見ると、レネーは感情ばかりが膨らんで、一言も発することができないまま、目に涙を溜めて、国王の足元に身を投げ出し、平伏した。
レネーは心から悔いていた。この方から大切な跡継ぎの息子を奪ってしまった、と。
その日、レネーは黒いレースがふんだんに使われたドレスを着ていた。美しい身なりの女が、泥だらけになることを厭わず、国王の足元に許しを乞うて、蹲る姿は異様だった。
国王はレネーの懺悔を認め、許した。いっぺんの言葉もないまま、レネーの謝罪は受け入れられたのだった。
そしてそれは即ち、レネーの行動がレイモンド殿下の命を守るためのものであったことも認められたことを意味した。
エリンソン伯爵家は復活し、ハイマー侯爵家とクシュナー伯爵家が取り潰された。
クローブス家だけは、アラン・クローブスが爵位を継ぐという形で取り潰しを免れたが、アランの父や兄たちは、隠居させられることとなった。
レイモンドの弟のブラッドリー殿下は、副将軍の地位を与えられ、辺境の軍を取りまとめる任務につき、王太子である兄との差別化が図られた。
レネーの手筈でエリンソン家の遠縁に当たるファレル男爵家に身を寄せていたレイモンド殿下は、アランの手引きで無事王都に帰還した。
そして国王は、すぐさまレイモンド殿下と婚約者のサマンサ公爵令嬢との結婚を命じた。
フラフラ遊んでいたレイモンドの自覚のなさにも問題あり、と判断したためだ。所帯持ちとして立場をわきまえさせるという意味合いだった。
すべては収まるところに戻った。
アランはうまくやったのだった。
8.
レイモンドとサマンサの結婚式は盛大に行われた。国を挙げてとは、こういうことを言うのだろう。
結婚式は、王宮の一番格式の高い広間で執り行われた。
貴族たちがお祝いの言葉と品々を献上するためのルールは事細かく決められ、事前に通達されていた。すべての貴族が、三日間、その儀に拘束された。
それから国民のためのパレードが、三日間に渡って行われた。各地のパレードの時間とルートも事細かく決められて、国民に通達された。当日はどのルートも国民が溢れ、若い王太子夫婦はみなに祝福された。
その後は、連日のように王宮で、国王主催の祝賀パーティーが、そして王太子夫婦主催のパーティーが、そしてローレンツ家主催の結婚報告パーティーが開かれた。
レネーはレイモンド殿下の結婚の祝賀会に出席していた。非常に肩身が狭かったが、当事者として欠席しても角が立つため、とにかくさっさと記帳して、目立たぬように振る舞い、頃合いを見計らって帰ろうと思っていた。
レネーは、両親を含め、エリンソン家の者とも言葉を交わすのがためらわれ、今は、レイモンド殿下をかくまっていたファレル男爵家に身を寄せている。
レネーは、遠くで輝くレイモンド殿下の事は、申し訳なさすぎて、見ることもできなかった。
しかし、こんなに遠くにいるのに、レイモンド殿下の視線を度々感じる。
分かっている。レイモンド殿下は好いてくれていた。私も好いていた。だがもう、好いてはいけない。
レネーはいたたまれなくなり、そっと会場から立ち去ろうとした。
その時、レイモンドを匿っていたファレル男爵家の子息のウォルターが、レネーに話しかけた。
「レネー様。レイモンド殿下から言伝です。ご自分の手をご覧くださいと」
レネーははっとした。左手にレイモンドのくれた指輪が収まっていた。
しまった、とレネーは思った。レイモンドの結婚祝賀会に、レイモンドのくれた指輪をしてきてしまうなんて。
ずっとはめていたので、はめていることが当たり前で、外すと言うことなど考えも及ばなかった。
すぐに捨てようと指輪を外そうとしたレネーの手を、ウォルターが止めた。
「そういう意味じゃないと思いますよ」
「え?」
「その指輪が存在した事実そのものをおっしゃってるんだと思いますよ」
「ウォルター様? どういう……」
「はずしても結構ですが、どうぞ持っていて差し上げてください。あなたに愛を捧げたことがレイモンド様の宝物なんですって」
レネーは泣きそうになった。
「レイモンド様にそう言っていただくわけには……」
「いいんですよ、レネー様。終わったことなんですから」
ウォルターはレネーに優しく言った。
その時アラン・クローブス伯爵がやってきた。
「おや、レネー様に、ウォルター様。どうしたんです、お二人で指輪なんか見つめて」
レネーは、はっとして手を隠そうとした。その手をアランがつかんだ。
「もしかして、これってレイモンド様からの頂き物ですか? レネー様、あなたレイモンド様の結婚祝賀会にこんなものしてきてどういうつもりなんです? まだ殿下のことを忘れていらっしゃらないんですか」
アランは厳しい口調で言った。
「ち、違います。あの方の事は遊びでしかございませんでした!」
レネーは下を向いた。
そしてそれから、レネーは崩れ落ちるようにその場に跪いた。
「ウォルター様、アラン様。その節はどうもありがとうございました」
「あっ、ちょっと、やめてください、こんなところで!」
ウォルターが慌ててレネーを抱き起こそうとした。
アランはそれに関しては何も言わなかったが、
「レネー様。あなたに護衛をつけようと思っています」
と淡々と言った。
「何ですか。私がこれ以上まだ悪いことをするとでも? もう致しません」
レネーはきっぱりと言った。
「見張りじゃありません、護衛です」
アランは、レネーの誤解を訂正した。
「リチャード・ハイマーって男、知っていますよね? レネー様」
「は……はい……」
「彼があなたの誘拐とか企んでるみたいなんで」
「え?」
レネーはぎょっとした。
そして、アランは険しい顔をもっと険しくした。
「私は、どれだけ、あなたの後始末をさせられるんでしょうかね!」
「ちょっと、アラン様! レネー様にそんな言い方しなくても」
ウォルターは、レネーをかばうように言った。
アランは、はっとウォルターを振り返った。
「もしかして、ウォルター様もですか?」
「は? アラン様、何のことですか?」
「この女は純情なくせに、遊び慣れたふりをして、男をたぶらかす」
「アラン様! 私はたぶらかされてませんよ!」
ウォルターはアランをなだめようとした。
「アラン様こそどうなさったんですか。何かイライラなさって」
「私はイライラしていません!」
9.
祝賀会場の隅っこで、ギャーギャーとやりあっているレネーとアランとウォルターを遠目に眺めて、レイモンドは羨ましそうに目を細めた。
レネーに会いたい、レネーと話したい。レネーは俺のものなのに、もう触れる事は叶わない。なのにあの男たちは、レネーに気安く話しかける。
レネーがレイモンドをファレル男爵領に預けるとなった時、レイモンドはまず、ウォルターに嫉妬した。
あのような身動きの取りにくい状況で、そういう時こそ頼りにされるウォルターという男は、レネーにとってどんな存在なのかと思ったからだ。
それで、レイモンドは、ウォルターの邸に身を寄せている間、自分がどれだけレネーを愛し、レネーに愛されていたかを、事あるごとに口にした。
その話題になるとウォルターは決まって気の毒そうな顔になって、
「レイモンド様、好きな方と離れているのはお辛いでしょう。私も片思いをしているので分かります」
と言った。
レイモンドは、あられもない勘ぐりで
「片想いってレネーのことか?」
と思わず口にしてしまいそうになるのを 必死で抑えた。
アランの時もそうだ。
アランが初めてレイモンドのところを訪れ、
「レイモンド様をお助けいたします。レネー様と話がつきました」
と言った時、レイモンドは
「おまえはレネーの何者だ!」
と叫びそうになるのをグッと堪えた。
アランが会話の端々にレネーの様子を入れてくるので、レイモンドはアランにマウントを取りたくて、レネーのことをちょいちょい口にした。
すると、アランは
「レイモンド様。やめてください。私はレネー様に何の興味もありません」
と不機嫌そうに言うのだった。
しかし、その言葉が余計にレネーへの興味の裏腹に聞こえて、レイモンドは焦燥感に駆られた。
わかっている。これは何の根拠もない嫉妬なのだと。
それでも、思わずにはいられなかった。レネーが自分の全てだったから。
本当はレイモンドがアランとウォルターに
「レネーと自分を守ってくれてありがとう」
と感謝しなければならないのに。
言えないほど、レネーへの気持ちでいっぱいいっぱいになっていた。
「あなたのことは遊びだから」
とレネーは言った。
それは嘘のように聞こえたし、本当のようにも聞こえた。
ズルズルした関係が2人を傷つけた。レネーを独占できない焦りから手を出してしまった他の令嬢たちのことも傷つけた。
今ならわかる。レネーが本気で自分を好いていてくれたこと。でなければ、あんなことはしてくれなかっただろう。
初めからこれは、存在するべきではない恋だった。でも宝物だ。
きっと一生忘れられない。
もう届かない愛しい人を遠くに眺めて、レイモンドは、結局苦しいままだと、自嘲気味に呟くしかなかった。
最後までお読みくださりどうもありがとうございます。
作者はこのレネー嬢とアラン推しです。(書いていて楽しいです)
もし少しでも面白いと思ってくださいましたら、感想やご評価などいただけますとありがたいです。