表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
トゥス・キーズ  作者: ましこ
1/1

ノゴーン・モリの巫女

 目を覚ます――すると、見知らぬ光景が広がっていた。同じ寝台で微睡んでいる男は、冴えない顔に似合わぬ上等な絹の衣をまとっている。少女は数えきれないほどの侍女に敬われている。ここは自分の故郷ではない。耳慣れない言葉も行き交っているというのに、彼女はこの言語を母国語のように使っていた。そして知らないはずの人間を夫として認識している。

 また目を閉じる――けれど世界は変わらない。自分を「娘娘」と慕う彼女たちは、熱心に仕事を続け、せわしなく動き続けている。もう日が高いところまで昇っているというのに、主人と思われる男は起きる気配がない。不思議なことに、この穀潰しに対してあつい視線を送っている女中もいる。

 それは彼がこの国で一番くらいの高い人だから。何もしていなくても、最上級の暮らしを約束されている。彼女たちはその恩恵に預かりたいのだ。誰だってそう、楽をして贅沢をしたい。ありとあらゆる欲を捨てきれずにいる。

 けれど貴妃になった少女は違う、心の底から故郷に帰ることを願っている。どこまでも続く草原を駆け巡り、羊と共に暮らしたい。彼女の願いはそれだけだ。高価な衣服も、希少な宝石も望んで手に入れた物ではない。少女は後宮を知らないけれど、貴妃になった自分の身体は知っている。正しく言えば、未来の自分が経験したことだから、理解しているのだ。


翊鈞(よくきん)、朝ですよ、起きて下さいまし」


 誰も彼を起こさないのは、皇帝の機嫌を損ねて、刑罰を与えられることを恐れているから。過去の自分にできないことも今の自分には許される。

 彼女はもう、無力な遊牧民族のオユンではなかった。



「オユン、オユン! 良かった……目を覚ましたのね」


 なんの変哲もない初夏のこと、彼女は長い夢を見ていた。父母に呼ばれても全く目を覚まさなかったそうで、一週間ほど寝込んでいたという。今までは、弟が木から落ちる夢を見たり姉の嫁ぎ先を見たり、他者に関する夢ばかり見ていた。だから、自分の将来に関わる夢なんて見たことがなかった。オユンは背筋が凍るほどに怯えていた。


「母さん、わたしね、お嫁に行く夢を見たのよ」


 恐る恐る夢の話をしたとき、母の口角が上がるのをオユンは見逃さなかった。何年と共に暮らしてきた家族だから――自分を産んだ母親だからこそ、余計に悲しく感じたのかもしれない。娘の嫁ぎ先に敏感になっているのは、分かっていたつもりだった。けれど、どこかで娘の気持ちを一番に考えてくれるはずだと期待をしている自分もいた。 


「お祖母さまにあってくるわ」


 少なくとも、この閉鎖的な(ゲル)で休んでいる気持ちにはなれなかった。


「ノゴーン・モリの巫女さまだ」

「今日はどんな夢を見たのですか?」


 民の声に後ろ髪を引かれながらオユンは馬に乗り、草原の一番奥に(ゲル)を構える祖母の元へ向かった。オユンは群れの中で男顔負けの実力を持つ、馬乗りの名手だった。彼女は良き妻としての指針とされる家事や刺繍(トゥス・キーズ)を学ぶことよりも、父の行商に同行し、少年達と狩りに出ることを好んだ。

 肩にかかった金糸を思わせるしなやかな髪が、さらさらと音をたてる。果てのないモンゴル草原の中で、太陽の光を浴びていつもよりも輝いていた。未来を見つめる碧眼は何かにすがるような思いで、ひっそりと佇む(ゲル)を眺めていた。ちょうど外に、羊に水をあげる老婆と小柄な少女を見つけた。オユンの祖母と弟子のアルタンツェツグだ。


お師匠様(エメ)、オユンよ」

「遠くから見ても目立つ子だからね。この間作った帽子を渡してあげなさい」


 馬は前途に水あることに勘づいたと見えて、急に元気よく嘶いなないた。鞍上のオユンは馬を落ち着かせながら(ゲル)の端に括り付け、草原へ降りたった。


「珍しいわねオユン、今日はどうしたの?」

「貴女もお祖母さまに付き合うなんて飽きないわね。気になる夢を見たから、私以外の巫女にも話を聞きに来たのよ」


 新しい帽子を被りながら祖母の(ゲル)へ入っていく。生家よりも入り口が低く、オユンの頭にぶつかりそうだった。


「ここってもう少し高くできないの?」

「オユンの背が高いのよ」


 たしかに、カザフの群れの中で頭一つ抜けていた。


「この群れでそんな気儘を言うのはお前だけだよ。さぁ、早く座りなさい。アルタンツェツグはお茶を持ってきなさい」


 アルタンツェツグがお茶を用意している間、オユンはゆっくりと(ゲル)の中を眺めていた。壁一面に張り巡らされたトゥス・キーズは、色美しく入れてあってなかなか美術的なものである。赤い布地は命の色、輪のかたちは蕾をしめし、二色の線は物事の二面性を表す。円の中の文様は羊のツノを表すし、線に沿った曲線の文様もまた羊のツノを表す。遊牧民族にとって羊が富の象徴だからだ。


「お前がトゥス・キーズを見ているなんて、どういう風の吹き回しだい」

「別に……私にだって、そういう時くらいあるもの」


 トゥス・キーズは子孫繁栄を願って、図面を最後まで完成させることはない。色々な布地をつなぎ合わせて、大きな刺繍を繋げていく。オユンにとってはあまりにも念が籠もっていて、呪術的な物に他ならなかった。


「お祖母さま、私ね、明の皇帝の側室になる夢を見たのよ」

「明って、あの大国じゃない」


 アルタンツェツグは動揺しながら、友の肩を抱いた。といってもオユンにとっては、何の感情もない抱擁だった。自分はノゴーン・モリの娘だが、彼女は名字を持たない家の子だ。アルタンツェツグは相手のことをかわいそうと言って哀れむのが得意だった。刺繍の得意なオユンの祖母に取り入って世話役をかっている献身的な行為も、思惑がありそうで気に食わなかった。


「古くから伝え聞いていた夢の一つに、ノゴーン・モリの巫女の中で大国に嫁ぐ娘が現れるという話がある」

「それがオユンなのね」

「でもお祖母さま、私たちが見ているのは実際に起こる確率が高いって言うだけで、絶対な真実ではないんでしょう?」


 祖母は首を振った。


「お前は夢に疑問を持ったからこそ、私に会いに来たんじゃないのかい」

「だって、ものすごくリアルだったのよ。信じられないどうけど、自分自身で知らない国の言葉を話していたし、それを理解できるの……今回の夢は、いつもと何か違う」


 いつも見ていた夢とはあまりにもスケールの違う迫力に、オユンは圧倒されていたのだ。祖母の表情はほとんど同情に近かった。老婆は相手の罪の重みを、自分もなっているように頭をうなだれていた。そして、深い溜息をひとつしただけで、なにも声には出さなかった。

 ノゴーン・モリには、男系で受け継がれる不思議な力がある。時空を超えて真実の未来を見抜く幽遠の力を持つ娘を、畏敬の念をもって人々はノゴーン・モリの巫女と呼んでいた。その未来の中でも、オユンの見たものは予言と言っても差し支えのない、確定された未来と言えた。「どうも困ります」で済む話ではなかった。後宮を知らないカザフの人たちに取ってはありがたい話であっても、巫女の立場からすると重大の意味をもっていることになる。もはや、神の思し召しに違いないのだ。


「オユン、お前の名には知性という意味がある。婆がお前の未来を見通して付けた名だ。何にせよ、これからの身の振り方をよく考えるんだよ」


 骨と皮だけになった祖母の手がオユンに触れた時、少しだけ背筋がゾッとした。どうにもならないものは、どう足掻いても仕方のないことなのだ。祖母は、諦めて運命に付き従えと言ったのだ。祖母の手の中には鏡袋があった。赤い布地に、見慣れた羊の角が刺繍されているトゥス・キーズの鏡袋だ。鏡の中には家族の中に一人だけ容姿の違うオユンがいた。彼女は父にも母にも、誰にも似ていなかった。黒目黒髪で小柄なアルタンツェツグの容姿が、典型的なカザフの民だ。後の世の中では隔世遺伝というらしいが、この世ではそんなものは存在していない。鼻が高く彫りの深い、目鼻立ちがはっきりとした金髪碧眼の子供はオユンだけだった。


「私は、運命に抗うわ」


 そう言い残して、オユンは祖母の(ゲル)を去った。

 彼女は口にしたことはなかったが、もし嫁ぐなら彼が良いと決めていた同い年の少年がいた。よく行商で顔を合わせる、バルの息子に恋をしていた。もちろん、ノゴーン・モリがかつてほどの勢いをなくし、オユンの持参金を工面できないほどに落ちぶれてしまっていることも理解していた。だから、この気持ちだけは誰に知られることもなく、墓場まで持って行くつもりだった。けれど、アルタンツェツグに対しての異常なまでのプライドも、全部が無駄だったのだ。

 オユンは失意のあまり帰路の途中にある小さな池で、しゃがみ込んだ。馬だけが素知らぬ顔で水を飲んでいる。


「私も馬になってしまいたい、どこへだって駆けて行けるもの。だってこんなの、あまりにも惨めじゃない」


 一度でも皇帝のお手つきになった娘は後宮に住まうことになり、死してなお故郷に戻ることはできない。数多いる側室達から嫌がらせを受けようとも、逃れることはできないのだ。たとえ夫婦になれなくても、遠くから見つめていたかった。

 もう自らの命を絶ってしまおうかとも考えたとき、ある物音が聞こえた。オユンは気をひかれて、思わず音のする方へ向かっていった。あれは間違いなく、悲鳴だった。モンゴル草原には、音を遮るような森も大きな建物も存在しない。声の大きさからして、近くにいるはずだった。

 少し馬を走らせた先に、ひどく衰弱した男が数人ほど倒れていた。どうにもならい、手の施しようがない者達を看取っていると、一人だけ息を吹き返した男がいた。オユンは気づいていないようだったが、彼だけが一等立派な衣服を着ていた。


「大丈夫か、名前は分かるか」


 オユンは行商で覚えた、訛りの強い大国の言葉で語りかけた。そして男に通じたのか、小さく応えた――「翊鈞」と。



来週の土曜には続きを出したいんですけど……頑張ります!

詳しいお知らせはこちらのTwitterを登録して確認していただけると嬉しいです(@95A001_0)

お豆腐メンタルなので応援お待ちしています!

評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ