恋愛教育義務法施行下における二人の女子高生のお話
【登場人物】
野上 羽菜:高校一年生。なつきとは中学からの付き合い。恋愛の授業の希望相手にこっそりなつきの名前を書いた。
新見なつき:羽菜と仲のいい友達。羽菜ともども恋愛を勉強中。
愛は地球を救う。そんな合言葉を掲げる番組が昔にあったらしい。
しかし本当に愛だけで地球を救うのは難しい。技術だってお金だって掛かるし、国を越えてとなると様々な要因が絡み合い容易にはいかないだろう。
だったら地球という大きな枠組みではなく、自分たちの手の届く範囲だけの小さな世界で当てはめてみればどうか。汝が隣人を愛せば隣人も汝を愛してくれるかもしれない。小さな世界が少しずつその愛で満たされていけば誰もが幸せに暮らしていけるかもしれない。そんなことを偉い人達が本気で考えた結果、日本ではある法律が出来た。
『恋愛教育義務法』、通称『恋愛法』。
中学校、高校において『恋愛』という科目を作り、生徒に恋愛について学ばせなければならないという法律だ。人が恋をするときの脳の働きや、誰かを想うことで生まれた様々な芸術品・発明品を通して恋愛が人間にもたらしてくれた事柄を教える。また性教育を行うことで若年妊娠のリスクを説き、感染症などの予防にも尽力する。
なかでも恋愛法が一番目を引いたのは性別の自由選択だった。
自分で男子なのか女子なのかを生徒自身で選ぶことが出来る。性対象も同様。先生は生徒を呼ぶときは全員さん付けで呼ぶ。また、恋愛法では恋愛という感情やそれに伴う行動を学ぶのであって、恋愛を強要するものではない(勿論恋愛をしてもらうに越したことはないが)。
これらの要素が性差廃絶団体からの支持を受けることになり、恋愛法成立の後押しとなった。
当然批判もあった。学校で教えることではない。恋愛だけが人生ではない。セクシャルマイノリティ以外への配慮はどうするのか等々。
政府側は、学校以外で誤ったことを学ぶよりかは良い、恋愛は人生を豊かにするいち要素に過ぎない、個人で使えるトイレや更衣室を設ける等と返答して批判に対処した。
恋愛法成立時にまた色々と揉めたが、若年層から意外と好評だったこと、感染症発症率の低下等の成果が見られたことで徐々に人々に受け入れられていったという。
「……交際を体験してみて感じたことをまとめなさい、か」
野上羽菜は授業で渡されたプリントに目を通しながら呟いた。
中学校では座学ばかりだった恋愛の授業も、高校では仮の交際相手を決めて実際にデートなどを体験してみることになっている。
「まさか羽菜が相手になるとは思わなかったよ」
羽菜の隣で新見なつきが明るく笑った。
「ほんとにね。もしかしてなつき、私の名前書いた?」
「書いてない。羽菜が書いたんじゃないの?」
「違うし。どちらでもに丸つけたけど空欄で出しましたー」
「あたしもおんなじ」
仮の相手といっても完全ランダムで決まるわけではない。まず相手の性別の希望を男子か女子、もしくはどちらでもいいを選び、任意の相手(現在付き合っている人や片思いしている人)がいた場合はその人の名前を書くことになっている。全てを踏まえた上で恋愛科目専任の先生が決定をする。
性別の希望がどちらでも、というのは恋愛にあまり興味がない人が選びがちだ。積極的に恋愛をしたいと思っておらず、恋愛対象が同性なのか異性なのかさえ分からない。だからどっちでもいい。
同性同士で恋愛の課題に取り組んでいる人達も一定以上いる。それは本当に同性が好きな場合もあるが、異性と真似事で恋人になるよりは仲の良い友達と遊ぶ延長で恋人ごっこをする方が楽しいと考えているからだ。
「まぁなつきが相手だったら気が楽だし良かったよ」
「だね」
なつきが笑うのに合わせて笑いながら羽菜は胸を撫で下ろした。名前を書いていないなんて嘘だ。前もってのアンケートには『新見なつき(出来れば)』と書いた。まさか本当にペアになれると思っていなかったのでもしかしてなつきも同じように書いてくれたのかと期待したがそれは違ったようだ。
(あんまり怪しまれなくてよかった。これで存分になつきとデートできる)
喜びが表情に出ないように気をつけながら、羽菜は机の下で静かに拳を握った。
仮の交際とはいえ交際は交際、やることは変わらない。
一緒に登下校をしたりお昼を食べたり、休日にデートをしたり。授業の一環ではあるが強制ではないので部活や勉強を優先する人達もいる。また、お互いの価値観が合わずに二・三回デートをしただけで嫌になって交際の体をなさないこともある。
それでも二カ月は付き合わなければいけない。元々二カ月で相手を変えることを前提としているが、短期間でも人と付き合ってみることで自分が今一番何をしたいかを確認させたり、交際がうまくいかなかった人は何故うまくいかなかったかを考えさせることが目的らしい。
(私にとっての課題はその二カ月後のペア変えのときになつきに『このままでいいんじゃない?』と言わせることだ)
授業をきっかけに本当に交際を始める人達もそこそこいる。そういった人達はペアを変えずに継続して恋愛の授業に取り組むことが出来る。結局途中で別れることも多々あるが、なかにはそのまま結婚した人もいるというのだから驚きだ。
(さすがにそこまで望むのは高望みが過ぎる、よね?)
羽菜にとって大事なのはなつきと一緒にいられること。もし恋人ごっこをするうちに好きになってくれれば言うことはないが、無理矢理振り向かせるようなこともしたくはない。
ただ、羽菜もひとりの女の子として好きな人に良く見られたいと思う心もあるわけで。
「……何着ていこう」
日曜の本日は記念すべき初デートの日。朝早くに起きた羽菜はいまだ着ていく服を迷っていた。ベッドの上に何着も服を広げてうんうんと唸る。
(明るい色の可愛い系でいくかモノトーンの清楚系でいくか……もしくはボーイッシュ? 肩とか見せたらさすがに変かな)
ブラウスやTシャツ、スカート、デニムパンツ等を合わせては入れ替えを繰り返す。
(いや、別に中学のころから遊んでるし今更服装に気を遣うような仲じゃないんだけど、ほら、一応名目は恋愛の課題の為のデートなわけだし、多少はそれなりの格好をした方がいいと思うんだ、うん)
それが言い訳なことは自分が一番よく分かっていた。中学時代なつきのことを意識しだしてから服装や見た目を気にするようにはなったが、いきなり変え過ぎても『どしたの?』と変に思われてしまうので踏み出せずにいただけだ。しかしデートならどれだけおしゃれをした所でおかしくはない。たとえ課題の為のデートでも。
「そうだ……!」
羽菜はなつきにメッセージを送った。
『デートなんだし参考までになつきの好きなコーデ教えてよ。デートって普通は相手の好みに合わせたりするでしょ?』
これなら自然だ。あくまで一般的なデートをシミュレートしようとしているだけに思ってくれるだろう。すぐになつきから返事がきた。
『あたしの好きなコーデって基本的にあたしが着たいと思うかどうかだし、羽菜は羽菜で自分に似合ってるの着ればいいんじゃない?』
『じゃあなつきから見て私に似合ってると思ったコーデ教えて』
『んー、ガーリーもフェミニンも羽菜には似合ってると思うよ。色はあんまり派手じゃない方がいいかも。あ、この前着てたチェックのプリーツスカートは良かった』
よし、と羽菜はひとり頷いた。
『わかった。じゃあそれに合うの考えてみる。ありがとね』
『せっかくだから羽菜から見てあたしに合ってるの教えてよ。それ着ていくからさ』
質問されて羽菜は悩んだ。正直どんな服装でもなつきは着こなしているし今更こっちが口を出すことでもない。
『なつきが着たいのでいいよ』
『そっちだってあたしの意見聞いたんだからあたしにも聞かせなさい』
そこまで言われては仕方ない。少し迷ってから返事を打った。
『文句言わないでよ?』
『言わない言わない』
『なつきスタイルいいし、足とか出した方がすらっと見えていいと思う』
『そんなにあたしの太もも見たい?』
『バカ。そんなわけないでしょ』
『冗談だって』
見たいか見たくないかで言えば見たかったが、素直に答えられるわけもない。
羽菜はスマホを横に置くとさっそくチェックのプリーツスカートを手に取り、今日着ていく服を決めにかかった。まだ待ち合わせの時間には早いが、身だしなみを整えるのに早過ぎて困ることはない。このあとは髪をセットして肌の状態をチェックして眉を整えて軽く化粧をしなければ。やることはたくさんあっても今の羽菜には苦ではなかった。
(会う前にこうやって準備してるときが、あぁ本当に好きなんだなぁって思う)
お昼を少し越えた頃、羽菜は駅前に到着した。待ち合わせの時間まであと30分もある。
(結局早く着き過ぎちゃったっていうね)
スマホをしまいコンビニで少し時間を潰そうかと顔を上げたとき、まさしくなつきが歩いてきているのが目に入り驚いた。なつきも羽菜に気付き、駆け足で近づいてくる。
「羽菜、早いね」
「なつきの方こそ」
「あたしはえっと、定番のアレをやろうかなと思って」
「定番のアレ?」
「相手より先に来ててさ、『待った?』って聞かれたときに『うぅん。今来たとこ』って返すやつ」
「あー、すごいよく見るやつね。にしても30分前は早過ぎじゃない?」
「それを言うなら羽菜の方だって」
「私は、ちょっとお母さんから頼まれ事されてたから早めに出て、予想以上に早く着いちゃったの」
適当な嘘を言って誤魔化すと、なつきは特に疑問に思う様子もなく羽菜の姿を眺めてふっと微笑んだ。
「服、可愛いじゃん」
「あ、ありがと」
羽菜は自分の体を見下ろした。上はセーター生地の白の長袖。袖のところが少しもこもこしている。下はなつきの要望通りのチェックのプリーツスカート。靴はウェッジソールの黒いローファー。
褒められると選んだ甲斐があるというもの。今度は羽菜がなつきの服装に目をやる。
白のパーカーにカーキのジャケット。デニムのショートパンツからすらりと伸びた足は黒のニーハイが履いてあり、太ももの白さとのコントラストが眩しい。足元には白地に青のスニーカー。全体的にスポーティな可愛さがあった。
「なつきもすごい似合ってるよ」
「ありがと。なんかこうやってきちんと服を褒め合うのって初めてじゃない?」
「そういやそうだね。いつもは集合したらさっさと遊びに行ってたし」
「あたしも羽菜もあんまり相手の服装とか気にするタイプじゃないもんね」
「そうそう」
本当は気にしてたけど口に出して褒めたりするのが恥ずかしかっただけなのだが。羽菜は自然に笑ったあとに付け加える。
「でもさ、一応デートするんだったらそういう恋人っぽいこともやっていかないとね。ほら、課題の為に」
課題の為。なんとも便利な言葉だ。この建前があればなつきとどんないちゃいちゃだって出来る、かもしれない。
なつきが手を口の前に立ててわざとらしくにやりと笑う。
「おんやぁ? 羽菜さん結構ノリノリですねぇ。そんなにあたしとラブラブデートしたかった?」
「はぁ!? なにバカなこと言ってんの! はい、じゃあもう電車乗るよ」
羽菜はすたすたと駅の中へと向かった。心情を言い当てられてドキっとしたがこのくらいの言い合いならいつものことだ。平常心平常心と唱えながら改札に進んでいく。
後ろから追いついてきたなつきが羽菜の右手を取り、そのまま握った。
「――――」
「恋人っぽいことの定番って言えばやっぱりこれだよね」
「そ、そうだけど……」
私と手を繋いでもいいの? と聞きたくなる衝動を羽菜は抑えた。意識しているのがバレバレになってしまう。なので違う言葉を続ける。
「このまま改札抜けるの?」
「いけるっしょ。ピッてタッチするだけだし」
「右手塞がってると財布取りづらいんだって」
言いながらカバンから財布を取り出す。なつきはそれを確認してから改札を先に抜けていった。羽菜は財布を持った左手をクロスするように右のセンサーに持っていく。ピッと音が鳴り、無事改札を通過した。
「ほら、大丈夫だったでしょ?」
「はいはい。でもこれ切符だったらキツいよね」
「――そうか、世の中の電子マネー化はカップルで手を繋いだまま出来るようにしようという壮大な計画だったのか!」
「バカなの?」
くだらないことを話し、呆れ、笑い、電車で目的地へと向かう。それは羽菜となつきにとってはいつもと変わらない休日の一幕。でもしっかりと繋いだ手が、いつもと違う一日なのだということを羽菜にしっかりと知らしめていた。
恋愛法成立以降、街にはカップルと思しき二人組がかなり増えた。若い学生達はもちろんのこと成人済みの人達も多い。授業を通して恋愛への抵抗感が減ったとか、周りの人達が恋愛しているのを見ることで自分もやりたいと集団心理が働いたとか、性別関係なくカップルが外を出歩いている姿に同様の境遇だった人達が勇気をもらったからだとか色々な説がある。
そのどれもが理由なんだろうな、と羽菜は思った。羽菜自身もなつきと手を繋いで歩くのに恥ずかしさはちょっとあるが人目を気にするほどではない。
「今日のデートの目標は『恋人らしく』。あたしたちが普通に遊ぶだけじゃいつもと変わんないからね」
人通りの多い歩道を漠然と歓楽街へ向かいながらなつきが言った。その歩幅に羽菜も合わせる。
「恋人らしいデートってどんなの?」
「んー……定番なら水族館、動物園、遊園地、映画……」
「この辺りだと映画しかないけど」
「映画、行く?」
「観たいのあるの?」
「あたしはないけど、羽菜は?」
「ないよ。え、ノープラン?」
「しょうがないじゃん! 遊びに行くってなったときに『どうせならデートってことにする?』って急に決めたんだし」
「あぁそうだったね」
羽菜も乗り気だったのでなつきのせいだけには出来ない。フォローの意味も兼ねて意見を口にする。
「そもそも何をもって恋人らしいデートとするか、だよね。例えばその、好きな人とだったらどんな場所に行っても楽しい、って聞くし」
「それはある。結局好きな人とおしゃべり出来て歩けるなら近所の公園でも学校でもスーパーでもいいよね」
「スーパーってまた生活感たっぷりな」
「生活感なめんな。スーパーで一緒に買い物をして部屋で二人でご飯を食べるってなったら?」
「恋人っぽい」
「でしょー? まぁあたしたちは学生なんだし、お金かけずにデートするのもいいと思うよ」
「あー、高級ホテルで夜景を眺めながらディナーとか緊張して楽しめなさそうだよね」
「羽菜はそういうとこで食事するのはイヤ?」
「えぇっと……タイミングとかにもよるんじゃないかな」
羽菜の脳内になつきと二人でディナーを食べる映像が浮かび、咄嗟に言葉を濁す。楽しめなさそうなんて自分で言っておきながら、想像だけで胸が高鳴っていた。
「タイミングねぇ。そういうのを察知するのが難しいって言うよね」
「直接相手に聞けばよくない?」
「どうせならサプライズとかで喜んで欲しいってのもあったりするじゃん」
「あぁ、それはまぁアリかな」
「羽菜が相手だと大変だろうな~」
「どういう意味?」
「分かりづらそう」
「そんなことないって」
「ほんとに~?」
「自分では割と分かりやすい方だと思ってたけど」
「いーやいや、結構ポーカーフェイスだよ?」
「普通に笑ったりしてますー」
「表情が無いってことじゃなくて、何かあったときに全然顔に出さないでしょ? 中学の入学式覚えてないの?」
「……覚えてるよ」
なつきと初めて会ったときのことを忘れるはずがない。
中学校の入学式の日、羽菜は式が終わるときになって急に体調を崩した。体育館の床に座ったまま立ち上がれなかった羽菜にいち早く気付いたのが出席番号の近かったなつきだった。先生に知らせたり保健室に羽菜のカバンを運んだり、親が迎えに来るまで話し相手になってくれたりしたのをきっかけになつきと仲良くなったのだ。
(多分あのときから私はなつきのこと……)
あれから恋慕はつのったものの告白をするには至れていない。結局怖いのだ。いくじなしだと自分でも思う。だが積み上げてしまったものが崩れてしまうよりはマシだ。
「あーもう、はいはい、なるべく表情でも分かりやすくなるよう努力するから、さっさとデートの続きするよ」
「お、なんかやけくそっぽいけどやる気だね。そんで羽菜のプランは?」
「駅周辺をぐるっと回って面白そうなお店に片っ端から入っていく」
「いつも通りでは?」
「臨機応変なデートと言って」
たとえいつもと同じでも、デートだと言い張ればそれがデートになる。ショップやゲームセンターを巡りながら、羽菜は手のぬくもりと共にそれを実感していた。小物を眺めていてもクレーンゲームをしていてもプリクラを撮っていても、手と手が互いを繋いでいる。触れ合うことよりも親密を超えた距離の近さが羽菜の動悸を早くさせた。
「おっと、あぶな」
向かいからの歩行者にぶつかりそうになり、なつきが羽菜の方へ体を寄せた。なつきの髪が跳ね、かすかにシャンプーの香りを漂わせる。
「…………」
「ごめんごめん」
「大丈夫」
羽菜は気にしないでと笑いかけながら、ゆっくりと深呼吸をした。いきなり抱き締められるくらい近くに来るのはやめて欲しい。心臓に悪い。
なつきは羽菜の心情などまった気付かず前方のカラフルな小屋のようなお店を指さした。
「あ、羽菜、クレープ食べない?」
「いいよ。ちょうど甘いもの食べたい気分だったし」
注文を済まし商品を受け取り、近くのパラソル付きのテーブルで腰を落ち着かせる。
唐突になつきが質問をしてきた。
「恋人、クレープと言えば鉄板ネタってなんだと思う?」
「さぁ? お互いに食べさせ合うとか?」
「それもあるけど、ほら――」
なつきが自分のクレープのホイップクリームをわざと唇の端に付けた。羽菜もその意図を理解する。
「あぁそれね」
羽菜が人差し指でそのクリームをぬぐった。指先が一瞬なつきの唇に触れてドキリとする。
(この指を咥えたら間接キスになるのかな)
わずかな逡巡の後、人差し指に付いたクリームを自らの口に持っていく。
「……ん、そんな小学生じゃないんだから」
「これは年齢の問題じゃなくて、一種の様式美だよ。はい、次は羽菜の番」
「…………」
今度は羽菜がクリームを唇の端に付けたが、少し目測を見誤って唇の半分くらいクリームまみれになってしまった。
「ち、ちょっと待って、もう一回やり直すから」
「いいよ、それで」
羽菜が舌でクリームを舐め取ろうとしたとき、なつきがさっと人差し指でクリームをぬぐっていった。羽菜の舌先がクリームではない何かに触れた。しかし楽しそうに人差し指を咥えているなつきを見て、それ以上深く考えないようにした。でないと平静を保っていられない。
クレープを食べ終わってデートを続ける。衣服を見にお店に入り、あれこれ話して何も買わずに出る。それは別段特別なことではない、いつもの二人の休日ではあったが、それでも羽菜は幸せだった。好きな人とならどんな場所でデートをしたって楽しい。身をもってそれを体験した。
日が傾き始め、羽菜となつきは地元に戻った。お昼に集合した場所で解散となる。駅前でなつきがレポーター風に羽菜に尋ねる。
「羽菜さん、今日のデートはどうでしたか?」
「まぁ、普通に楽しかったんじゃない? 恋人っぽいこともやれたし。なつきは?」
「あたしも色々と新鮮で楽しかったよ。今日だけでもそれなりの考察は書けそうなくらい」
「じゃあ次からはデートとかナシにして普通に遊ぶ?」
「それは、羽菜次第かな?」
「私? 私はどっちでもいいよ。遊ぶことには変わらないんだし」
本音は言うまでもない。ただ、それを今の羽菜が口に出せるわけもない。
「あたしだってどっちでもいいよ。けど一応二カ月は恋人ってことなんだし、課題の締め切りまでもうちょっと試すのもいいんじゃないかなとも思う」
「うん、じゃあそれで。普通に遊びながらデートを研究したりするって感じにしよ」
「おっけ」
「…………」
「…………」
あとは手を離して別れの挨拶をするだけ、という段になっても無言のまま二人は駅前に佇んでいた。
恋人とさよならをするとき、どういうシーンをよく見るか。
――ハグとキス。
二人の脳内に浮かんだのはまさしくその二つだった。授業の課題とはいえキス以上のことは求められていない。感情を学ぶのであって行為は重要ではないと先生から何度も説明される。あまりにも目に余るようなら停学だってありえる、と。
(でも今だったら……)
課題という大義のもとキスくらい許してくれるのではないか。なつきが手を離さないのは向こうも同じことを考え期待しているからではないのか。軽い感じで『せっかくだし別れ際にキスとかしてみる?』って聞けば軽いノリでOKしてくれるかもしれない。いやいや『せっかく』でキスするなんておかしいし、そんなノリでファーストキスを体験していいのか。全然いい。雰囲気や場所よりも好きな人とファーストキスをすることの方が大事だ。いやおかしい。おかしくない。おかしい。おかしくない。
ぴくり、となつきの指先に力が込められる。隣からの緊張した空気を感じとり羽菜は考えるのを止めて耳をそばだてた。
「あのさ――」
(きた!)
羽菜は心情を悟られないように慎重に答える。
「……なに?」
「その、これからどうする?」
(どうする? え? なにが? まだ遊ぶかってこと? キスするかってこと?)
混乱する思考を息と共に吐き捨てる。
「どうするって、もう帰るんじゃなくて?」
羽菜は期待を込めていた。ここでなつきが『キスしよ』と言ってくれれば恥ずかしながらも『いいよ』と言うつもりだった。
だがなつきはふっと笑うと手を離してこう言った。
「うん、そんじゃ帰ろっか」
「……うん」
拍子抜けしたまま羽菜はなつきと別れて帰路についた。
本当は違うことを言いたかったんじゃないの? と聞く勇気は羽菜には無かった。
別れ際に空気がおかしくなったのはその日だけで、それ以降羽菜がなつきとデートっぽいことをしてもいつも通りだった。
慣れもあるのだろう。羽菜も最初のデートに比べるとなつきと手を繋ぐことに関してドキドキすることは減っていた。どんなに刺激があっても人間は慣れる生き物だ。高揚するよりも安心するような心地に変化したことはむしろ喜ばしい変化と言ってもいい。
恋愛の授業で出された課題の締め切りが迫ってきた。それはすなわち、二カ月の恋人期間が終わることも示している。
今日は羽菜の家に集まって二カ月を終えてのまとめに入っていた。
「恋人とのデートだといつもより身なりに気を遣わなきゃって思うよね」
「そうそう。なるべくなら相手が好きそうな服にしたいってなったなった」
ノートにそれぞれが感じたことを箇条書きしていく。
「相手に喜んで欲しい、楽しんで欲しいっていうのが第一に来るのが恋愛の始まりな気がする」
「でもそうなると束縛系は? 自分だけのものにしたいっていうのも好きには違いないでしょ」
「独占欲があるのと好きな人を喜ばしたいかどうかはまた別問題じゃない? 特殊な状況をあげればキリがないからとりあえず私達の考えでいこ」
「そだね」
あくまで客観的に、今までのデートを振り返って考察を進めていく。いくつか書き出し、羽菜はシャーペンの先をとんとんとノートの上に落とす。
「普通に遊ぶのとデートの違いってなんだろうね」
「んー……気持ち、とか?」
「ふむ」
「二人ともが『これはデート』って思ってれば同じことをしても感じ方が違う気がする」
「あぁ、なるほどね。認識を合わせるっていうのは確かに大事かも」
羽菜となつきの場合も『恋人っぽいことをする』という目的を共有していたからこそデートになり得た。これが片方だけだと思いが一方通行になってうまく行かないだろう。
走り書きながら羽菜は思ったことを口にする。
「……『デートしよ』と『遊びに行こ』じゃ全然違うもんね。まぁ遊びに行くことがデートだって考えもあるんだろうけど」
「付き合い始めたらそういうのもいいんじゃない? 『今度の休みどこ行く?』っていうのは実質デートの誘いみたいなもんだし」
「言葉じゃなくても気持ちで通じ合ってればおっけー、と」
「あくまでそういう例もあるってだけだから。あたしは『今度の休みデートしよ?』って言われた方がぐっと来る」
「分からなくもない」
「でしょー? 実際に付き合い始めた女子たちにどうやってデート誘うのか聞いてみてもいいかもね」
「あー、なんか今回割といるらしいね。長続きすればいいけど」
「こら、あんまり不穏なこと言わない」
「でも授業で付き合ってもすぐ別れちゃうって話聞くし。やっぱり普通に告白して恋愛する方がいいのかな」
深く考えて発言したわけではない。そういう噂がある、というのを語っただけだ。しかし羽菜の言葉を聞いてなつきが表情を固くした。重々しくその唇を開く。
「……人と人が結ばれるのに優劣ってあるの?」
「え?」
きょとんと見返す羽菜の耳に、なつきの弱々しくも強い声が届く。
「結婚だってさ、お見合いで結婚をして、そこから愛が生まれることだってあるんじゃないの? 合コンで知り合った人と結ばれるより、普通に出会った人と仲を深めて結ばれる方が勝ってるの? 一目惚れは? ナンパは? 偶発的に誰かと結ばれることはそんなに良くないことなの?」
「なつき……?」
「どんな過程で結ばれてもそこに互いを愛しいと想う気持ちがあれば優劣なんてない。長続きするしないは当人たちの問題であって、どう結ばれたかは関係ない。もし関係あるんならこの世界には恋愛結婚した人達ばっかりになるでしょ? でもそうじゃない。人の数だけ恋愛があるんだから結ばれるところから始まる恋愛だってあっても全然おかしくない」
「…………」
羽菜が不安そうに見つめると、なつきがハッとして視線を床に落とした。
「あ、いや、結局何が言いたいかというと……別に授業がきっかけで恋人になるのも悪くないんじゃないかなぁと……」
しおらしく顔を伏せた様子は言外に何かを羽菜に語りかけていた。それを察せられないほど羽菜は鈍くはない。
(ほんとに? ほんとになつきもそう思ってるの? いやでももし違ったら……)
ここでも直接聞く勇気は出ない。情けないと自覚はするがそれが性分なのだから仕方がない。
(こんなのでよくディナーを誘うとき『直接聞けばいい』なんて言えたもんだ)
自虐するのは後だ。今は返答を待っているなつきに自分の想いを伝えなければ。どうしてもその言葉が出てこないのなら違う言葉で伝えてもいい。
「え、えっと……」
羽菜の喉から出た声は予想以上に小さく消え入りそうだった。もう一度ゆっくり息を吸い込み、声に想いを乗せる。
「次の恋愛の授業も、なつきと一緒にやれたらいいなっておも……ぅ……」
なつきと目が合い、羽菜は言葉尻をすぼめて視線を下げた。恥ずかしさに顔から火が出そうだった。
「羽菜……それはその、そういうことでいいの?」
(そういうことってなに!? そういうこと!?)
なんだか似たやりとりを前にもしたなとデジャヴを感じつつ、羽菜は頷いた。
「そういうこと、だと思う」
途端になつきが「だぁー」っと座卓に突っ伏した。何か変なことを言ったかと焦る羽菜になつきが怒って言う。
「だから言ったじゃん! 羽菜は分かりづらいんだって」
「私のせい!?」
「本当なら二カ月前に終わってたでしょうが」
「知らないよ! なつきがはっきり口にすれば良かったんじゃないの!」
「あたしのせいにする? だいたいおかしいと思いなよ。偶然であたしと羽菜がペアになるわけないでしょ? そんなのあたしが希望出したに決まってんじゃん」
「私も希望出したんだけど」
「……まじ?」
「まじ」
顔を見合わせてしばし、どちらからともなく笑い出す。
「く、くくっ、あーもうバカらしい」
「ぷっ、ふふ、なんだったんだろうねこの二カ月。っていうか今まで」
「ほんとほんと」
「まぁでも? なつきの言葉を借りるなら、過程はどうあれ想い合う気持ちがあればいいんでしょ?」
「あたしのことを想う気持ちはちゃんとあるんだ」
「……あるよ」
「へぇ~、そっかぁ」
なつきが床を這って羽菜の側へとやってきてとても良い笑顔を浮かべた。
「だったら、最初のデートの続き、今ここでやってもいい?」
何をやるのか。目的語がなくても羽菜には分かった。しかしここはあえてとぼけて見せる。
「……課題の続き?」
「羽ぁ菜、分かりづらいって言ったよね」
「分かりづらさで言ったらなつきだって同じだと思うけど」
ぶつぶつと文句を垂れてから、羽菜は目を瞑った。
それが今相手に伝えるべき自分の気持ちだと信じて。
◆
『恋愛をするということ
野上羽菜
恋愛をするということは、いつもの日常ががらりと姿を変えることだと思います。
おはようと挨拶をするとき、授業を受けているとき、お昼を食べているとき……昨日までは何の変哲もなかった光景がまったく違うものに感じられるんです。
声が耳を通り抜ける度に胸がとくんと高鳴り、電灯が新しくなったわけでもないのに特定の人だけが明るく見えたり、朝の残りもののご飯がいつもより美味しかったり。
世界は何も変わっていません。変わったのは私ともう一人の心の持ち方。それも本当に少しだけ。なのにそのたった少しが世界を喜びの色に染めてくれるんです。
この二カ月で私は人を好きになることの楽しさと、結ばれることの嬉しさを学びました。そのどちらも経験できた私は恵まれていると思います。
人が誰かを好きになる理由は様々です。昔からの縁もあれば、突然の出会いでもたらされることもあります。でもどんな理由でもいいと思います。
相手を思いやり、相手と一緒の時間を過ごしたいと思うその心が届いたときに湧き上がってくる言葉に表せないほどの感情――そこに違いなんてありません。
改めて、私は私の好きな人と結ばれて良かったと思います。
こう思えることこそが、私が恋愛をしている何よりの証なのではないでしょうか。』
終
pixivの第二回百合文芸コンテスト応募作品。
ちょっといつもと趣向を変えて現代と少しだけ違う世界のお話です。
これ一番楽しんでるのは組み合わせ決める先生なんじゃないでしょうか。