第八話
“天使の歌声が聞こえた。美しいと素直に思える。愛情に溢れていて、きっと誰もが癒される、そんな歌声。でも何処か孤独で……悲しいのに無理をして歌っているとも感じた。だから私はその天使に会いたくなった。なんとしても、貴方に会いたくなった”
体が痛い。あちこちが悲鳴を上げている。
別にそれで目が覚めたわけじゃないけど、なんだか誰かに呼ばれた気がして瞼を開けた。
「……ここ、どこだっけ」
必死に記憶を手繰る。
そうだ、地下から誰かが助けてくれた。
助けてくれた? 誰が? 私を?
「地下じゃない……? 夢じゃない? 本当に?」
声が掠れている。でも地下に居た時より随分マシだ。
いや、ここが夢の世界だったらどうしよう。
本当は私はまだ地下に居て、ただ夢を見ているだけだったら……。
そうだ、目を覚ましたら永遠の闇が待っている。
それならずっと夢の世界に居たい。ここに居たい。
お願いだから目を覚まさないで、ずっと私はここに……
「……歌?」
私の耳に届いてくる、女性の声。
あの時の天使の声だ。
「……ここに、居るの?」
綺麗なベッドから足を降ろして、初めて気が付いた。
あのボロボロのワンピースを着ていない。ウェストンさんがくれたワンピース。
いつのまにか私は着替えさせられている。
いや、それだけじゃない。泥まみれだった体は綺麗になっていた。
体の傷も何処か薄くなったかのように感じる。
あぁ、やっぱりこれは夢だ。
夢……なんだ。
「いやだ……いやだ……嫌」
蘇ってくる忌まわしい記憶。
またアレをされる。
熱い鉄をお腹に押し付けられたり、針だらけの箱に入れられたり……
それをあの男は、王と名乗るあの男は……楽しそうな笑顔で私に何度も何度も……
「いや、いやぁ!」
「うほぅ?! ど、どうした?!」
思わず大声を出してしまった私。気が付かなかったが、ベッドのすぐ傍で白衣を着た金髪の男の人が椅子で眠っていた。でも驚かせてしまったようだ。
というか、その男の「うほぅ!」という声で私も驚いてしまった。
「す、すみません……起こしてしまって……」
「いやいや、目が覚めて良かった。嫌な夢でも見たのかい」
夢……そうだ、これは夢だ。
夢は今見ている。ここが……夢なんだ。
「私、起きたくない……ずっとこのまま眠っていたい……」
「ん? あぁ、じゃあ二度寝するといいよ。でもその前に何か食べた方が……」
何て事を言うんだ、この人は。
夢の世界で寝ると現実で起きてしまうかもしれない。
「いえ……起きていたいです……」
「あ? あ、あぁ。まあ好きにするといい。ちょっと待っててくれ、食事を持ってこよう」
そのまま部屋から出ていく男の人。
私はベッドから降り、窓辺へと立ってみた。
とても綺麗な海が見える。ここは船の中?
そうだ、あの髪の長い人に抱っこされて……。
いや、あれも夢だったんだ。私はまだ地下から……
『大丈夫だよ、君は助かったんだよ』
「……ミー子?」
今着せられているパジャマのお腹、そこにはポッケがあり、中からミー子が顔を覗かせてくる。
私はその可愛いミー子を抱っこしつつ、一緒に窓の外を眺める。
「ミー子……私、夢から覚めたくない……ずっとここに居たい……」
『ここは夢じゃないよ。現実。君は助けられたんだから』
「違うわ、私はずっと地下から出れないんだから……だからきっと目が覚めたら、またあそこに……」
『わからずやのお馬鹿さん。じゃあ外に出て、空気を一杯吸おう。ここが現実だって分かるから』
馬鹿って言われた……。
でもミー子がそう言うなら外に出てみよう。それで目が覚めてしまったら、今度は私がミー子の悪口を延々としてやろう。
裸足で柔らかな木の床を歩き、扉を開けて部屋の外へ。
狭い廊下に出て、壁に手を付きながらとりあえず歩く。すると耳に天使の声が届いてきた。
その声はだんだんはっきりと聞こえてくる。この先に天使が居るんだ。
「いたっ……」
足元から痛みが走る。床の木の板からトゲが出ていて、それを踏みつけてしまったようだ。
痛みがあるという事は……本当に現実?
いや、夢の中で痛みを感じないなんて良く聞くけど、私は確かめた事なんて無い。
ゆっくり、ゆっくり天使の声がする方へと歩く。
階段をのぼり、また狭い廊下を歩いて、また階段をのぼって……。
狭い通路を越えた先、空気が突然冷えてきた。
外が近い事を知らせる空気。目の前の扉を開ければ、そこに天使が居る。
扉に手をかけ、押し開いていく。
木で出来た扉が軋む音。何処か心地よく感じてしまう。今まで鉄と石に囲まれた地下に居たから、久しぶりに聞いた気がする。
その扉の向こう、一気に明るい空の下へと出た。
青空が眩しい、太陽の光が暖かい、肺を冷たい空気が満たしていく。
そして何より、耳へ、私の眠った頭に響くリアルな歌声。
まるで劇場に赴いているかのような……素人とは一線を画す歌声。
まさに天使が居た。
船の甲板の先に、天使が一人……海に向かって歌っていた。
質素な服装の天使の後ろ姿。それに文字通り釘付けになった。
唾を飲み込みたいけど、飲み込む時の音が邪魔になりそうで飲み込みたくない。
ずっとこのまま聞いていたい。ずっとこのままその後ろ姿を眺めていたい。
でも唐突に天使の歌は終わってしまった。
私の存在に気が付いた天使が振り向く。あぁ、私が邪魔してしまったんだ。
「……! 貴方、目が覚めたの?」
天使はとても綺麗なブロンドの髪をしていた。今はそれを大雑把に後ろに纏めてあるだけだけど、それでも存在感が天使だ。あぁ、やっぱりここは夢の中だったんだ。
「……やだ……やだ……」
「……? どうしたの? 泣いてるの?」
「私、戻りたくない……あそこに戻りたくない……ずっとここに居たい、お願いだからここに居させて……私をあそこに戻さないで!」
嫌だ、嫌だ、戻りたくない。
この夢から覚めたくない、ずっと夢の世界に居たい、お願いだからここにずっとずっと……
「大丈夫。悪い夢はもう終わったわ」
突然、私は抱きしめられた。
天使の暖かい胸に。
心臓の鼓動が聞こえる。天使の心臓の鼓動が。
「悪い……夢?」
終わった? 本当に……終わった?
「現実感が無いんだよね。私もそうだったから……良くわかる。私も助け出された後……美味しいご飯を食べた時、これは夢なんだって……期待しちゃ駄目なんだって思ったから」
天使の声が頭に響いてくる。
私はそれをすんなり受け入れていく。
「でも大丈夫。もう大丈夫だから」
本当に?
本当に……私はあそこから助けられた?
「……夢じゃない? もう、夢じゃない?」
「夢じゃないわ。証拠を見せてあげる」
すると天使は私の手を引いて、甲板の先へと。
波の音が聞こえて、同時に私の目に飛び込んでくる……壮大な世界。
水平線がとてつもなく綺麗な、壮大すぎる世界。
そこで私はやっと唾を飲み込んだ。その景観を見て、体の中に火が灯るのを感じた。
熱い、熱い何かが込み上げてくる。
「どう?」
「……さけ、叫びたい……叫んで……いいですか……」
天使はどうぞ、と満面の笑みで促してくる。
私は大きく口を開けて、胸から込み上げてくる何かを吐き出すように叫ぶ。
涙を流しながら叫ぶ。もうなんて叫んだのか分からないくらいに叫ぶ。
あの闇の中から、私はこの世界に出れたのだと……ひたすら叫んだ。
※
ひとしきり叫んで泣いて、自分の中の何かを出し切った後、途端にお腹が空いてきた。
私は食堂に案内され、またしても泣きながら食べていた。久しぶりのご馳走を。
「おいおいおいおい、すげえ食い方してるな」
まるで野生児のように手で掴んで、私はひたすら目の前の炒飯のような物を口に放り込んでいた。
その食べ方を見て、ご飯を作ってくれたコックさんみたいな男の人は呆れた顔で私を見てくる。
しかし美味しい、美味しすぎる、なんだ、この食べ物は。
「よっぽどお腹空いてたのね。ほら、ゆっくり食べないと喉に詰まるよ?」
天使が私の口を拭ってくれる。
私は口の中の物を飲み込みながら、盛大に机や床を汚している事に今気が付いた。
「牢屋の中で何食ってたんだ? そんなに美味いか、それ」
「ちょっと! 馬鹿! 何聞いてるの!」
「え、何って……」
牢屋の中で……何を?
それは……
「……泥」
「え?」
「隅の方にたまってる泥食べてた……」
素直にそう答えた。
味は一応あったけど、それに比べて今食べてるこれは凄くおいしい。
「……馬鹿」
「ご、ごめん」
別に謝らなくてもいいのに。
こんな美味しいご飯を作ってくれたんだから、私はもう何でもする。
でもその前に……
「あの、おかわり……」
「まだ食うのか?! 大丈夫か?!」
コクン、と頷きながらおかわりを請求する私。
私の胃袋は驚くほどに元気だ。入ってくる物を貪欲に吸収し続けている。
今なら家の近所のステーキ屋で大食いチャレンジ達成できるかもしれない。
「ほら、頼むからゆっくり食え。あとスプーンくらい使え」
「はい、いただきます」
そのまま再び手で食べ始めた。
スプーンなんて使えない。
だって私は……
「おいー! 人の話聞けよ!」
だって私は……嬉しくて嬉しくてたまらない。
この世界で光を浴びる事がこんなに嬉しいなんて……思いもしなかった。
この、世界で……私は生きる事を許されたんだ。
コックさんの作ってくれた炒飯は、何処か塩味が効いていた。