第十五話
その男には右目が無かった。眼帯で隠されたそこには、かつて戦場で出会った男に付けられた古傷が残っている。相手は太刀を担いだ大男。銃火器が蹂躙する戦場で、あろうことか刀で戦っていた。
「……傷が久々に痛みやがる」
男は眼帯で隠された傷を押さえながら、頬を緩ませた。
近頃、傷の存在すら忘れてしまう程、その古傷はうんともすんとも言わなかった筈だ。だが何故か今、目の奥から熱く、まるで溶けた鉄が流れ出てくるかのような感覚を覚える。
男はニア東国の大佐。ミコトを嫁にするべく遊郭に通い詰め、街のチンピラを使って拉致させた張本人。
「まるで悪代官だな……」
彼は退屈していた。大佐になってからという物、戦場に送り込まれる事も無くなってしまった。それなりの立場を確立し、歳も食った。自分でも体は衰えている、そう感じていても戦場が懐かしく感じてしまう。
これは一種の病気だとも男は感じていた。そう感じる程には、男は軍人では無かった。
かつて戦場で出会った太刀を担いだあの大男は、未だ戦場を駆け巡っているのだろう、そう思うと今の自分が罪深く感じてしまう。数多の若者を導き、そして見殺しにしてきた。自分だけ畳の上で死を迎える事は、これ以上ない大罪であり屈辱。しかしそれを受け入れる事も、一つの償いなのかもしれない。
「せいぜいあの世で罵倒されようか……それとも戦場が俺を迎えてくれるだろうか」
男は目の奥から込み上げる痛みに期待してしまう。
スルガの国境警備隊の指揮を任された時、もはや自分を迎えてくれる戦場は皆無だと思った。指揮と言っても、優秀な部下が揃っている為、得に何もすることも無い。自分はもはや墓場を探す事すら出来なくなってしまった、ならばいっその事、魔女に殺してもらおうか……と男は今回、ミコトを嫁に迎える事にした。
魔女が神化した人間を嫌っているのは有名な話。神化した人間は即刻処刑せよと宣言した事もある。だがその宣言は速攻で政庁の老人達に取り消される事となった。
そんな魔女は、神化した人間を軍人が嫁に向かえたらどういう反応を示すのだろう、そう思ってしまった。激高して自分を殺してくれれば、それはそれでいい。我儘を言うのなら、魔女の側近であるアギスを差し向けて欲しい。最後に心血武装持ちと決闘など、心が躍る。それが叶わないのなら、地元ヤクザでもいい。だからミコトは絶好の相手だった。地元極道の一人娘であり、神化した人間。一気に敵を作る事が出来る。
「そうか……この痛みは……」
もしかしたら誰かが現れてくれるかもしれない。魔女か、その側近か、極道か。はたまた予想外な所から強者が現れてくれるか。
男は期待する。自分の前に立ちはだかってくれる者が現れる事を。
無くした戦場が、再び自分を迎えてくれる事を。
※
一方、結婚式の準備は着々と進んでいる。劇団船の協力もあり、滞りなく。
しかしニア東国の軍人達は目を丸くしていた。劇団船から、式の会場も飾りつけすると申し出があったため、任せてみたものの、その会場はニア東国で行う婚礼とは程遠い物だったから。
会場の視察へと来た一人の軍人、国境警備隊のアスラは、思わずその会場を見て指示を出していた団長ヴァレスへと尋ねてしまう。一体、ここは何の準備をしているのかと。
「えっ、いやぁ、まあ見てもらった通り……チャペルの……」
団長ヴァレスは劇団員以外に対して、異常に腰が低い。別に猫を被っているわけでも、ましてや役者として演技しているわけでもない。その腰の低さはただ単純にヴァレスの性格だった。
そしてチャペルと聞いたアスラは、さらに首を傾げる。
一体それは何だ。聞いた事が無い。
「すまない、チャペルってなんだ?」
「ん?! そこから?! ぁ、す、すいません……。チャペルっていうのは、要は永遠を誓う合う場所というか……」
「つまりここが大佐殿と猫耳少女の結婚式会場というわけか……いや、分かってはいたんだ。でもこの国の様式とかなり違うというか……」
「す、すみません。でも最近の若い子は……こっちのほうが好きかなーっと……」
「まあ、大佐は別にそういう拘りを持つ人では無いから……娘に合わせるべきなのだろうが……それにしても、あんな若い娘を今さら嫁にとは。一体何を考えているのだか……」
思わず愚痴ってしまったアスラ。それを聞いて、ヴァレスは軽く頬を緩ませる。当然だが軍の中でも違和感が拭えないらしい。
「その……大佐殿は元々、そういう趣味がおありで?」
ヴァレスの質問にアスラは思わず肩を揺らして笑ってしまう。
「まさか。遊郭に通っていた事すら私には信じがたい。まさか女に興味があったとはな。そうだな……例えを言うなら、戦争を人の形にしたら、大佐のような物になるんだろうな」
「な、成程ぉー……」
ヴァレスは良く分からなかったが、とりあえず頷いておく。
どうやら大佐殿は、軍内部でも変わり者として扱われているようだと。
そのままヴァレスは、軍の警備状況について尋ねるべく、ヤクザ対策について話を振る。
「あの……これは小耳に挟んだんですが、その娘は地元ヤクザの娘だと……彼らはこの婚礼に賛同しているのですか?」
「いや。どうやらかなり強引な方法で引っ張ってきたようでな。もしかしたら抗争になるかもしれない。まあ大丈夫だろ。大佐は今回、四大四天王を使うと言っていたし……」
「四大……四天王?」
なんだ、その如何にも胡散臭い連中は、とヴァレスは首を傾げる。
何故そこまで四を強調するのか。
「大佐の警護を務める最強の軍人、四人衆……言ってて笑いたくなってくるが、まあそういう設定だ。最強かどうかはさておき、まあまあ腕は立つ連中だ。地元のヤクザが束になってかかってきても問題は無いだろう」
「は、はぁ……まあとりあえず、団員に被害が及ばないのであれば……」
「それは勿論だ。貴方達には幾度となく楽しませて貰ってるからな。警護の方は任せてくれ。あぁ、それと頼みがあるんだが……」
「……? なんでしょう」
「看板女優……リエナのサイン、五十枚ほど用意してくれないだろうか……」
ヴァレスは苦笑いしつつ、その要請を受け入れた。
※
“周りと違う、それだけで孤独と恐怖がいつまでも私に付きまとっている。いつか皆から見放されるかもしれない。私は一人では生きていけない。死にたいと願った事は幾度とある。でも私は死にたくない。好きな人が出来てしまったから”
ミコト、という名前を付けた父は極道の組長だった。それだけで周りの子供から怖がられる事は目に見えている。でも私は他の子とは明らかに違う部位がある。
ネコミミと尻尾。たかだかそれが生えているだけで、私は人間以外の何かだと認識されてきた。でも私は誰が何と言おうと人間だ。それは変わらない。
「にゃ」という語尾を付けるようになったのは、子供の頃。
周りの子達から虐められて、もうどうしようも無くなった時、母から教えてもらった自分の身を守る為の術。
猫みたいだと虐められるなら、猫になりきりなさい。
開き直って、今の自分を受け入れて、もっと自分を好きになりなさい。
そう母は私に言って聞かせた。それから私は語尾に「にゃ」を付けて喋るようになり、周りの子供達の虐めも何故か和らいでいった。逆に友達もでき始めた。面白い奴、と思われたのだろうか。でも何処か、皆私を異質な目で見ている。それは変わらなかった。
でもそれは仕方のない事だと思えるようになったのは、十代後半、遊郭に入り浸るようになってからだ。母が亡くなって自暴自棄になっていた私は、とにかく暴れたくて、遊郭の女性陣を守るという名目で力を振るっていた。神化した私はその辺の男より余程強い。クロが現れるまで、私は男に負けた事など皆無だった。
それからだ、私が遊郭で客を取り始めたのは。
全てはクロの事を忘れるためだった。初めて私が負けた男、そして初めて恋をした男。
私はこの街を離れるわけにはいかない。私は組の跡取りだ、私が後を継がねばならないのだ。
だからクロの事は忘れなければならない。一人の男に恋をして、組を、家族を見捨てる事なんて出来ない。
……なら今回のこの婚姻は、ある意味ではいい機会だったかもしれない。
軍の大佐との結婚。間違いなく極道など潰されるだろう。でも私の家族なんだ、命までは奪わない、いや、奪わせない。嫁になるという条件で、私が皆を守れば……。
頬を涙が伝う。
それは止まらない。ポタポタと膝の上の手に零れ落ちる。
目の前の化粧台へと目を移すと、酷い顔をしていた。そして……本心が表に出てきてしまう。
「嫌だよ……クロ……助けて……」




