表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
大阪を歩く犬  作者: ぽちでわん
PR
24/55

熊野街道を方違神社へ

八軒屋浜から遠里小野まで歩いた熊野街道。

遠里小野から先も歩いてみたくなった。でも遠里小野まで歩くとけっこう距離があって、その先、どこまで行けるか考えたら、ほぼゼロに近いな、と思った。それならばと、遠里小野までは自転車で行って、その先を歩くことにした。

その頃は、自転車にけっこう乗っていたな。

おかあさんはわたしを後ろに載せてみたり、前かごに載せてみたり。後ろだと、わたしが進行方向を見ようと身を乗り出して危ないことこの上ないので、すぐに前かごが定位置になった。

ぐらぐらすることも多い前かごの中で、わたしは敷いてもらった座蒲団に座っている。


その日は大和川を越えて知らない道を歩くんだということしか頭になくて、遠里小野をいい加減に歩きとばした。遠里小野のすごさをまだ全く分かっていなかったんだなあ。

街道歩きにも慣れていなくて、住宅街にはりめぐらされたたくさんの道の中、街道とされる道を間違わずに歩くということだけでほぼ満足していた。

遠里小野の公園に自転車をとめさせてもらい、てくてく遠里小野を歩き飛ばして大和川まで出たら、遠里小野橋で川を渡った。


大和川は元は大阪城の東を北上して淀川に注いでいたのを、江戸時代に人の力で流れを変え、遠里小野方面に流れるようになった川。夏の間にちょっと調べて、そのことは頭に入れていたから、ここは元は平野で、熊野街道を行く人々はそのまま南下していたのだろうなあと、実感はなく思った。

なんというか、江戸時代をすごく昔に思っていたから、人力で川の流れをこんなにも変えてしまったということにもぴんときていなかった。川の無かった姿も想像しがたかった。

それが、実は正解だったみたい。後で知ったことには、熊野街道がよく使われていた平安時代や鎌倉時代の頃にも、ここには川が流れていたそうだ。狭間川といって、その川筋が大和川の付替えでは新大和川に一部利用されたのだって。

今みたいに川幅はなくて、スーパー堤防もなかっただろうけれど、渡しで川を渡ったのかなあ?


遠里小野橋を渡りきると、左折。このあたりからはもうずっとただの「堺の市街地」だった。

南海高野線浅香山駅があり、そこからは南に見えている浅香山病院をめざした。

病院からは道なりに南下。左手に白い高い塀がずっと続いていて、なにかと思ったら刑務所だった。「関係車両以外立ち入り禁止」だって。

刑務所手前で右折すると小さな公園があって、ここに境王子があったと伝わるらしい。津守王子の次の王子ね。

なんの変哲もなく人気ひとけもない公園だったけれど、名が王子ヶうえ公園。横には立派な「境王子跡」の碑があった。でも気をつけて見ないと気づかないかもしれない。

王子ヶ飢の「王子」は莵道稚郎子うじのわきいらつこのことだと伝わるらしい。

莵道稚郎子は仁徳天皇の異母兄弟。応神天皇亡き後、仁徳天皇と皇位を譲り合い、自殺して仁徳天皇を即位させたとも伝わる人。

その墓は宇治の莵道とどうにあるけれど、ここ堺では、王子は都を出てさすらい、この地で自ら食を絶って死んだと伝わるらしい。

「王子ヶ飢」と呼ばれるここで、本当に餓死した皇子がいたのかもしれない。それで後に「それは莵道稚郎子だったとさ」という話になったのかも?

近くにコーヒー工場があって、小売りもしていたから、おかあさんはわたしを公園に残して買いに行った。それが散歩の途中で置き去りにされた初めてのときだったなあ。いつもはキャリーに入って待たされたけれど、この時は身ぐるみ1つなく、空の下に裸で放り出されていた。

誰もいなくて草も伸び放題の王子ヶ飢公園の遊具につながれて、おかあさんの姿が見えなくなって、ひゃんひゃん鳴いた。

今ではすっかり慣れて、帰ってきたおかあさんはおいしいものを持っていることが多いから、期待しながらおとなしく待っているんだけれど、このときの心細さったら。


境王子跡から南に進むと、このあたりには少しだけ古い町屋や長屋も残っていた。西には下り坂なのが見てとれた。海岸に向かう坂道だったのだろうな。

そしてすぐ方違ほうちがい神社だった。

和泉、摂津、河内の3つの国の境界さかいになるところだったそうだ。堺の地名もここからきているのだって。

そして神社の北に面した車道は、長尾街道なる古代からの街道といわれているらしい。

境内はそんなには広くなかった。アスファルトばかりの町の中で、ちょっとした憩いの場になっていたけれど、その時は工事中で、なんと本殿がぽっかりなかったのじゃなかったかな。まだ本殿と拝殿の区別もついていない子犬だったから、本当に本殿だったか疑わしくはあるけれど。

方違神社は、10代崇神天皇が物部さんにスサノオを祀らせたのが起源なんだとか。

その後、神功皇后は忍熊王との戦いで、ここで祈願して勝利したんだそうだ。息子の15代応神天皇がさらに住吉神などを祀り、「方違大依羅よさみ神社」と名づけたのだって。

う~ん・・・徳川家康とかの実在は信じるようになったけれど、ここまでくるとまだちょっと信じがたかった。

そして奈良時代になると、このあたりに行基が布施屋をたてたそうだ。

まだ行基のこともなにも知らない頃だったなあ。布施屋のこともなにも分からずスルーした。


方違神社の南には境内に面するように池があり、その向こうにはこんもりとした緑が見えていた。

反正はんぜい天皇陵らしかった。

気にはなったけれど、これからまた遠里小野まで歩いて帰らないといけないのだ。方違神社までやって来たことに満足して、Uターンすることにした。

来た道とは違う道で帰ろうと、大和川沿いなどを歩いた。トンボ、バッタ、彼岸花、野の花なんかを見ながら。


遠里小野まで戻って、遠里小野も少しだけ散歩してみた。歩いてみると歴史が感じられて、不思議な感じのするところだった。人が多く住み、家はひしめき合い、電車も通っていて活気がある。けれど急に忍者が現れてもおかしくないようなところだな、と感じた。

塀の向こうから、実は代々忍者なんだ、って男の人がスマホを片手にタンと現れてもそれほど驚かない(かな)。

少し丘のようになったところにお寺が固まってあったりした。

遠里小野もかつては玉出と同じく環濠集落だったのだって。濠で囲った、出入口は橋だけという集落。

今思うに、我孫子や久宝寺なんかに似た感じが残っていたように思う。思いきり近代でありながら、まだ少しかつての空気を残している。お寺を中心にした村落だったような、忍者もいたような時代をまだ記憶しているような感じ。


熊野街道沿いには安楽寺があって、やや古い石の道標には「右八尾街道」「左阿倍野街道」とあった。

阿倍野街道は熊野街道のことらしかった。熊野街道を北上すると阿倍野だから、阿倍野街道とも呼ばれたわけだな。熊野街道は江戸時代頃にはもう廃れていて、最近になって見直されているだけだし。

八尾街道というのは大和川あたりで紀州街道から分かれ、ここから東北東の方角にある八尾に向かう道だそうだ。八尾では奈良街道に合流して終わるのだって。

応仁の乱の頃、京や大阪は戦場になってあちこち焼け落ち、荒れ果てて、新しい住みかを堺に求める人々も多かったらしい。その頃堺は自由な新興都市として栄えていたから。

そのときに人々が通った道でもあるそうだ。八尾、久宝寺、平野、遠里小野と、環濠集落だったところを通って環濠集落・堺に向かったんだな。

なんていろいろな街道があるんだろうと思った。


やっと自転車をおかせてもらっていた公園へ。

自転車を見つけて走って行くと、おかあさんがびっくりしていた。「おぼえていたの?」って。

いやいや、覚えてるでしょ。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ