2 花人
私の朝は自分の支度を整える事から始まる。髪結師なので、もちろん自分の髪も毎日きちんと結うようにしている。
とは言え、この国の女性たちは髪結師でなくともみんな髪を長く伸ばし、それを毎日結っている。それがこの国の当たり前だから。
女性は髪が長いものだし、ほどいた髪で人前に出るのははしたない事なのだ。
けれど貴族や王族ではない一般の女性たちは、髪を結うと言っても、後ろでお団子にしてみたりするだけ。手入れにもそこまで時間をかけていない。
毎日忙しいから髪にばかり気を遣っていられないのだろう。
「今日はどんな髪型にしようかな」
鏡に映る自分の姿を見て呟いた。私の黒い髪は胸の下辺りまで伸びていて、毎日丁寧に手入れしているおかげか艶がある。毛先には少し癖があって内側に巻いているけれど、自慢の髪だ。
「編み込みを作って、横でお団子にしよう」
今日の髪型を決めて、手早く髪をまとめていく。前髪は残して、前髪の上の髪を編み込みに。そして残りの髪は右耳の後ろでお団子にする。普通にお団子にするときっちりと堅い印象になってしまうので、今日は緩い三つ編みを作ってからそれをさらに崩し、ピンでまとめてお団子にした。
最後に髪飾りだが、今日はお団子の上に銀色の蝶の髪飾りをつける事にした。高級な宝石ではないけれど、羽の部分には蝶の模様のように青い石が埋め込まれている。
私の目の色が明るい碧色なので、髪飾りの色はそれに合わせる事も多い。髪飾りは髪の色に合わせると埋もれてしまうので、目の色かドレスの色に合わせると無難だ。
「可愛くできた。さぁ、今日も頑張ろう」
髪型をおしゃれにすると気分も上がる。昨日レイにこっぴどく振られたというのに、鏡の中の私は自然にほほ笑んでいた。髪型の効果は偉大だ。
それに実際、レイの事ももうどうでも良くなってきた。やっぱり本気で好きになる前に振られてよかったと思う。彼に翻弄されたのはたった五日間の事だし、『失恋の傷』というほどのものも今の私の心にはない。一晩寝たら、結構あっさり吹っ切る事ができた。
「そろそろパトリシア様のところに行かないと」
私は自室を出て、雇い主の王女の元に向かった。
「おはようございます、パトリシア様」
「おはよう、メイナ」
パトリシア様は使用人たちに世話をされて、すでに薄く化粧を施していた。あとは私が髪を整え、ドレスを着れば完璧なお姫様の出来上がりだ。
「何かリクエストはありますか?」
「いいえ。今日もメイナに任せるわ」
寝巻き姿のパトリシア様に近づき、寝る時に三つ編みにしていた髪を解いていく。パトリシア様の髪はお尻の辺りまであるので、そのままにしておくと寝ている時に自分の体で自分の髪を下敷きにして、痛い思いをする事になるのだ。
使用人が用意しているパトリシア様の今日のドレスや首飾りを見ながら、似合う髪型を考える。
「メイナ、大丈夫?」
「……昨日の事ですか?」
すぐに察してそう返すと、パトリシア様は気の毒そうに続けた。
「あの人……レイだったかしら? 誠実で良い人そうに見えたのにね。彼はダリオ殿下の近衛騎士だから、私がダリオ殿下と話している時、たまにレイとも話す事があったのよ。その時はとても常識的な人に思えたわ。メイナの話を振ったら、嬉しそうに控えめにほほ笑んだりして。あの表情も嘘だったのかしら?」
「分かりません。嘘だったのかもしれないし、その時は本気だったけど気が変わったのかも」
私が肩をすくめて他人事のように言うと、パトリシアはホッとした顔をしてくれた。
「あら、よかった。そんなに傷ついてはいないみたい」
「昨日はショックでしたが、思えば私、傷つくほどあの人の事知らないんです」
「そうよね。知り合って数日だもの」
「そうです、そうです」
ウンウンと頷きながら、パトリシア様の薄い金色の髪を少しづつ手に取り、撫でていく。パトリシア様の髪は細く、くせ毛なので、すぐに絡まるし痛みやすい。けれど私が毎日お手入れをしているので状態は良く、ふわふわで触り心地が良い。
でも今日は痛みやすい表面の髪や毛先に少しザラつきを感じる。
「魔法の効果が切れてきたみたいです。いつもみたいに魔力を込めますね」
「ええ、お願い。目に見えて違いが出るから、もうメイナの魔法なしでは生きられないわ」
「そんな大げさな」
魔法と言いつつ、実は私は魔法は使えない。魔力はあるけど、魔法を学んだ事はないからだ。
私がするのは、髪を撫でながら髪に魔力を込めていくだけ。綺麗になぁれ、と心の中で呪文のように唱えながら髪を撫でれば艶が出て、光が当たればキラキラと輝き出すのだ。嘘みたいだけど効果は抜群。
けれどその効果は三、四日もすれば薄れていくので、定期的にやり直さなければならない。
「これって、魔法で髪の質を向上させているの?」
「いえ、おそらく魔力で髪の表面をコーティングしているだけだと思います。だから数日で取れてしまうんです」
パトリシア様の疑問に、髪を撫でながら答える。
するとパトリシア様は、目の前にある大きな鏡越しに私を見て続けた。
「〝花人〟って、みんな魔力があるのよね?」
「ええ、そうだと思います。私も花人の研究をした事はないのでよく分かりませんが……」
花人とは、人間と交わった花の妖精を先祖に持つ種族の事で、何を隠そう私もその花人なのだ。
つまり私の遠いご先祖さまは花の妖精だったわけだけど、現在の花人たちの容姿は人間と変わらない。花人の方が小柄で華奢な人は多いかも……というくらいだ。
その他の違いは、花人はみんな魔力があるけど人間の大多数は魔力を持たないとか、人間に比べて冬の寒さに弱いとか、花人は華やかな物や事を好みがちとか。
私が女性の髪を結うのが好きなのも、もしかしたら華やかな事が好きな花人の性質が影響しているのかも。
「私の周りにいた花人は自分の親くらいですし、一家で普通にこの国の人間社会の中で生きてきたので、あまり自分が花人だという自覚はないんです」
「私もメイナは普通の人間と変わらないと思うわ。いい意味でね。メイナ以外の花人に会った事はないけど、お話の中に出てくる花人ってもっと気ままで、可憐だけどわがままなイメージがあったから」
「その点、メイナは真面目だものね」とパトリシア様は続けた。私は苦笑して返す。
「花には色や形の違う様々なものがあるように、花人にも色々いるのかもしれません。私は日陰に咲いているような地味な花なのかも」
「バラやヒマワリみたいに主張の強い花ではなさそうだけど、人を癒やすような綺麗な花だと思うわ」
「ありがとうございます」
私は照れて頬を緩めながら笑った。可憐で、私よりもずっと妖精のように見えるパトリシア様に言われると何だか嬉しい。
この世界には、花人の他にも変わった種族がいる。例えば竜人もそう。彼らの事は竜人と呼ぶのが普通だけど、〝空人〟と呼ぶ事もある。
彼らはドラゴンを先祖に持つ種族なのだ。
そして他には人魚を先祖に持つ〝海人〟、精霊の〝森人〟、悪魔の〝闇人〟がいる。
花人と海人が人間と深く交流を持ち、妖精や人魚の元の姿を失い、持って生まれる魔力も減少傾向にあるのに対して、森人と闇人はほとんど人間と交わってこなかったので今でも強い魔力を持っている。
空人である竜人はその中間くらいで、魔力量は多くも少なくもなく、人間の姿にもドラゴンの姿にもなれる。
また、この世界にいる種族の数は人間が圧倒的で、その次に自分たちの種族だけで一つの国を作っている竜人が多い。あとの花人や海人、森人や闇人の数はよく分からないが、少ないのは確かだ。
「さぁ、髪が輝きを取り戻しましたよ」
窓から差し込む白い朝日を浴びて、パトリシア様の波打つ髪は細かな宝石を散りばめたように輝いていた。思わず見とれてしまう、うっとりするほど美しい髪だ。
パトリシア様も鏡を見ながら満足げに言う。
「自分のくせ毛の髪は扱いにくくて大嫌いだったけど、今では大好きよ。もうメイナの事は手放せそうにないわ」
「ありがとうございます。でも髪にかける魔法は、髪に対する愛があって魔力もある人なら、きっと誰でもできると思いますよ」
「その『髪に対する愛がある人』を探すのが難しいのよ。メイナみたいに髪の事ばかり考えている人はなかなかいないもの」
パトリシア様はちょっと笑って言った。褒められているのか分からなかったので、私は「なるほど」と神妙に頷いておいた。