9.喧嘩
「道? 道ってもしかして、黄泉の国への通り道?」
僕は、あの滝壺の伝説を思いだしたのだ。
彼は不承不承頷く。腹立たしくて堪らない、とばかりに灰の中でバタ足をしながら――。
細かな灰がそこいら中に舞いあがってるじゃないか!
僕は目を眇めてコホコホと咳をしながら、飲みかけの湯呑を片手で覆った。
「やめろよ! 灰が入るじゃないか!」
まったく、なんて奴だ! この白湯ぶっかけてやろうか!
「なんだと! この俺に喧嘩を売る気か!」
灰の中から飛びでてきた彼を包む焔が、赤から黄、そして青へと変わる。輪郭がゆらゆらと高熱に揺らいでいる。
「きみ、僕を食べたね!」
すっと彼の顔色が、もとい、彼を包むオーラが変わった。元の赤よりももっと赤黒い。
これって、もしかして人でいうところの、青ざめているって状態ではないだろうか……。
「いや、あれはだな、お前を助けるためにだな……」
しどろもどろに言い訳を始め、所在なさげに小刻みの跳躍を繰り返す彼に、僕はさらに追い打ちをかけたる。
「だからって、黙って食べるなんてひどいじゃないか!」
前からそんな気はしていたんだ。教えた覚えはないのに僕の過去をいろいろ知っていたり。僕が覚えたばかりの知識を、話してあげる前に自慢してみせたり。
でも、今みたいに僕の心を読むなんてそれはあんまりだ。人権侵害だ!
心の中で悪態をつきながら膨れっ面をすると、彼はますます赤黒く、そして深緑や濃い紫へと目まぐるしく色を変えていく。こりゃ、カメレオンよりすごいや、と僕は変なところで感心してしまう。
「悪かったよ」
ぽん、ともとの鮮やかな赤に戻ると、彼は頭上のシルクハットを脱いで胸に当て頭を下げた。
「でも、喰っちまったものは、もうどうしようもできないんだ。許してくれよ。減るもんでもないしさ」
だから、ますます腹が立つんだよ! 燃やさずに食べられるのなら、僕の参考書や本を灰にする必要なんてなかっただろ!
「いや、あれはだな、やっぱり満腹感が違うっていうかな、」
キィーと、僕の方が叫びたい気分だったけれどやめておいた。これ以上怒っていると彼が何色になるか判らない。あまり変な色になられると普通の蜥蜴と区別がつかなくなる。羽があるとはいえ、保護色はやはりマズイ。見つけにくくなる。それに僕は彼の透き通るような綺麗な赤色が好きなのだ。
「綺麗か!」
鮮やかな火の粉を振りまいて、彼は嬉しそうに宙返りする。
「綺麗だよ」
僕は苦笑いを浮かべて頷いた。彼を取り巻く焔は嬉々として、柔らかな暖色のグラデーションに伸びあがる。
彼の機嫌が戻ったところで、僕は肝心の話を切りだした。
「話を戻すけれど、『道』ってどういうこと? それで、その『道』ができたのはきみの知り合いのせいだって?」
彼との話を一通り終えて、僕は朝食を取るためにいったん家に戻った。
僕が部屋にいないことに気づいて心配していた祖母に、早く目が覚めてしまったから神社まで散歩に行っていたのだ、と言い訳した。祖母は安心したように何度も頷いて、あそこはうちが仕えさせていただいている氏神さまのお社だから、そうやってお参りするのは良い事だと嬉しそうに教えてくれた。
そういえば、祖母の実家はこの村一帯の氏子を抱える神社で、彼の住んでいるあの社はその分社だ。祖母の家は普通の農家だから、ずっと忘れていたけれど。
僕と彼が出逢ったのも、何か目に見えない縁のようなものがあったのかな、と取り留めもなく考えながら、祖母の用意してくれた朝食の浅漬をポリポリと齧り、味噌汁を啜った。
彼のご飯、じゃなくて、ご本も持っていってあげないとな。昨夜あれだけ暴れたんだし、さぞかしお腹が空いているに違いない。と、ついさっきあれだけ怒っていたことをすっかり忘れて、何の本にしようかな、と僕は本棚を思い浮かべる。
『道』――。
彼の言う意味と僕が想像するものが、ちゃんと噛み合っているのか確かめなければ。それなら「古事記」なんかがいいかな……。
食事を終えたらもう一度訪れる予定のあの滝が、ぴんと張った白糸のような緊張感を伴い、脳裏をよぎっていった。