6.滝壺1
夜中に僕を呼ぶ声がする。
「おいで」
「おいで」
と、可愛らしい声が僕を呼ぶ。
それなのに声のする方へ行こうとすると、決まって焔が立ちあがって邪魔をするんだ。
あの声の主に逢いたいのに――。
僕はどうも、風の精霊に嫌われているらしい。
三日三晩見守って、卵から孵してあげたのは僕なのに。
卵から孵った雛は一番初めに目にしたものを親だと思う――、の認識通り、彼女は僕ではなくサラマンダーに懐いてしまった。彼が超特急でやって来たせいで卵が割れたから、あんな小さな渦巻きで産まれてしまったのかも知れないのに。彼女は出てきたときから当たり前のように彼の後ろを追いかけて、くるくる渦巻いて飛んでいる。
僕は彼に成果を横取りされた気分だ。
もっとも、僕ではあの小さな渦巻きを育てることはできないから、これで良かったのかもしれない。そりゃあ、ちょっと悔しいけれどね。
とはいえ、あの「ハズレだね」はまずかった。彼女が僕に意地悪なのは、その僕の失言を覚えているからとしか思えない。僕が卵を洗ってあげたこととか、じっと見つめて視線で温めてあげていたことは、なぜだか棚上げされている。彼女が女の子だからだろうか?
神社の彼のもとへ遊びにいくと、旋風がまき起こる。ピシピシと砂礫に叩かれ、髪は逆立ち、服はバタバタと煽られる。
「おい、晃、何やってんだ?」
と呑気な彼の言葉がかかる頃には、僕の見てくれはボロボロだ。僕は黙って砂埃を払い落として彼を睨めつける。
彼は、キキキーと宙返りを打って笑い、僕の前で逆立ちしたまま、「お前、そんな格好じゃ、一緒にイギリスに行けないぞ。紳士の国なんだからな。身だしなみには気を使ってくれよ」と呑気に宣わる。
悪戯の犯人はそんな彼の背中におぶさって、チラチラと僕の様子を伺っているのだ。揺らめく空気の中で、小さな手が彼の蝶ネクタイに掴まってるのが見えるんだ。
「別に、きみ一人で行けばいいじゃないか。空を飛べるんだし」
僕はイライラと呟いた。
別に焼きもちを焼いてるって、わけじゃない。
もう九月になるからだ。
志望校を決めなくちゃいけない。ランクを落とすか。もう一度挑戦するか――。
僕はもう、こんなところで遊んでいるわけにはいかないのに。
「ケンブリッジ大学に連れてってくれるって、契約しただろ!」
「契約?」
開いた口が塞がらないよ。あれが契約?
頭の中で、ついこの間ネットで検索した「精霊大図鑑」の、火の精霊の項を必死でスクロールする。口約束でも契約になるんだっけ? いつまでに? 破ったらどうなるの? 僕は彼に食べられてしまうのだろうか?
――茫然と、楽しそうにステッキを振りまわし、タップダンスを踊っている彼の動きを目で追った。
それより彼、今度は何を食べたのだろう? なんてことが気になって――。
「とにかく、入試が先だからね……」
「おう、頑張れよ!」
今すぐ、と言われなかったのでほっと安堵の吐息が漏れた。
さやさやとした葉擦れに混じる水音だけが耳につく。
彼が自分の祠に帰ったあと、そういえば、まだ滝壺を見に行ったことがなかったことを思いだして、足を向けた。
とたんに旋風だ。
「いい加減にしろよ! いくら生まれたてだからって悪戯にもほどがあるだろ!」
ヒュルヒュルと風が御神木を囲むように螺旋を描いて立ち昇っている。ザワザワと梢が激しく揺れ動いている。
僕は背筋にぞくりとした何かを感じ、踵を返して石段を駆けおり、家に戻った。
見あげると、星の降る美しい夜だった。
いつの間にか、僕は滝壺の端に立っていた。




