3.彼の勉強法
まるで、リアルに重なる夢だけの世界。
彼の好きなモスコミュールをグラスに注いで窓辺に置いて、僕は今日も待っている。夜中をまわった頃、彼が二階の窓から僕の部屋を訪れるのを。
ザザーと吹き込む風がモスコミュールを撒き散らす。ぽっ、ぽっと光る飛沫が焔に変わる。螺旋に渦巻き広がっていく金の焔。
風の精霊を首に背負い、ほら、今夜も彼がやって来た。
「Good evening(今晩は)!」
くるくるとステッキを振り回し、シルクハットを小気味良くチョイと持ちあげる。ずいぶんと手馴れたものだ。
小さな蜥蜴によく似た彼は、カクテルが大好きだ。部屋中に撒き散らした煌めく火花を追いかけて、くるくる宙返りしながら楽しんでいる。
「そんなに酔っ払ってちゃ、勉強できなくなってしまうよ」
僕はくすくす笑いながら読み終わった本をひらひらさせる。
「今日のご馳走はなんだ?」
ご機嫌な彼が僕の腕に腰かけて、気取った仕草で手にしたステッキを振り、トントンと本の表紙を叩く。
「『月世界旅行』。きみの好きなジュール・ベルヌだよ」
キキキー! と歓声と一緒に焔が吹きあがる。
ふぅ、危ない、危ない! 危うくまた火傷するところだった。
「英語を教えてくれ」と彼は言った。
翌日、僕は英文法の参考書を持って彼の元を訪れた。あの神社の社の横にある、大きな御神木の地面に張りだした樹の根に腰かけて、彼のためにページを捲った。
とたんに参考書が燃えあがる。
「あつっ!」
僕は慌てて手を引っ込めた。少し赤くなっている。
さすがに怒って彼をぐっと睨めつけると、ゆるゆるとした金の環の中で、彼はもぐもぐと頬を動かしているではないか!
「食べているの!」
「当たり前だろ。勉強してるんだから」
三日月の瞳が僕を睨む。僕はあんぐりと口を開けたまま。
火の精霊は大変な大食漢、――もとい、勉強家で、読書家だということを僕はこうして知ったのだ。
そして彼は、食べた知識を、いや、身につけた知識を光の幻術で形にする事ができるんだ。
そんなわけで、僕の部屋に遊びにきた時に勝手に食した亡き祖父愛蔵の小説、ジュール・ベルヌの「八十日間世界一周」から、イギリス人はこういう格好をしているもの、とこれまた勝手に思い込み、シルクハットにステッキを生みだして身につけている。「蝶ネクタイもある方がそれっぽいよ」という僕のアドバイスも取り入れてくれ、白の蝶ネクタイも結んでちょっとした紳士風だ。
いつかイギリスを訪れた時、親戚たちと楽しく会話ができるように、彼は今日も本を食べる。
彼、やっぱり英語の本を欲しがるからね。もう必要ない参考書なんかは僕も気にせずあげちゃったけど、さすがに馴染んでいるやつはもったいなくて。とりあえず全部やり終えるまで待って、と頼んで、僕は昼間、彼の餌にするためにもう一度必死に参考書を読み、問題集をやるようになった。
だって彼の胃の中に――、頭の中に? 咀嚼されて収まるのだと思うともったいないないうえに名残惜しくて。志望校を決めた日からずっとお世話になってたんだもの。
そのうち、僕の持ってきた本類も尽きて、実家の母に電話して置いてきた本も送ってもらった。おまけに彼は小説が好きなものだから、英語で書かれた原書をネットで注文して買うようになった。
そんなこんなで彼はすっかり食通になってしまった。
贅沢に、装丁の豪華な美しい本を食べたがる。そんな高い本、買えるわけないだろ! まったく、我がままなんだから! ペーパーバックで我慢しろよ!
浪人生の僕が少ない小遣いから買ってあげたこの本も燃えて食べられてしまうのか、と思うとなんとも無性に感慨深くて、僕は電子辞書を片手に必死に注文した本たちを読んだよ。
彼の胃袋に消えてしまう運命の本たちが、なんだか可哀想だったから。
この世には、本屋とか、図書館というものがあることは、彼には絶対に内緒だよ。