10.道 その1
日が高く昇ってから訪れた滝壺は、水煙に緩く霞む、静かで美しい、どこか神聖さを感じさせる場所だった。
夜に見たどこまでも続く暗闇、底へ底へと導いていく黄泉比良坂の死のイメージなんか寄せつけないほどそれはきらきらしく、飛沫とともに降り注ぐ日の光を弾いている。
でも、岸壁に立って、じっとこの深く透き通った碧を眺めていると、目眩がしそうになる。服のはしや、指の先っぽを引っ張られてでもいるように、平衡感覚が定まらなくなる。
「おい、晃、お前、揺れてるぞ。危なっかしい奴だな」
頭上を旋回していたサラマンダーが、僕の髪をくいくいと引っ張る。シルフも真似をして首筋の髪を吹きあげる。僕は顔をしかめて頭を振った。
「ほら、見てみろ、道が開くぞ」
宙に留まりじっと水面を睨めつける彼を横目に、目眩を起こさないように気をつけながら、深い水を湛える壺の壁面に似た内側に張りだす広い岩石の上に腰をおろした。ざらざらとした感触と石の冷たさが、ジーンズを通してしんしんと伝わってくる。
「あ!」
僕は思わず大声をあげていた。ちょうど向かい合う岩場に生い茂る樹々の狭間から誰かが身を投げたのだ。白い着物を着た人が、あっと言う間に滝壺に吸いこまれ、大きな水飛沫が立ちあがる。
あまりの出来事に、僕は蒼白なままぶるぶると震えるだけで身動ぎすることさえできなかった。
また誰かが飛び降りた。きっちりと胸の前で手を合わせて。次々と行儀よく順番に並んで――。
一人飛び降りる度に水飛沫があがる――、ように見えるだけだ。実際の水面は静まり返っている。轟轟と落ちる滝の流れ、風の揺らす葉擦れの音、虫の声、そんな囁くような音しか聞こえない静寂の中で、透き通る人が、透き通る飛沫をあげて水底に溶けていくのだ。何人も――。何人も――。
魂が水に落ちる度、ウォータークラウンが水面に跳ねる。それは水の中を漂う彼女の額を飾る王冠のようで。その王冠めがけて飛び降りる魂たちの道標のようで。
ここは、黄泉比良坂の言い伝えのある、あの世とこの世の堺。
この滝壺は黄泉の国へと繋がっている。僕はそう思っていた。けれどサラマンダーはその黄泉の国への道が、水の精霊の開けた穴のせいでできた別の『道』のせいで塞がれて、行き止まりになっているのだという。この滝壺に、魂が溜まりに溜まって膨れあがっているという。
その新しくできた道のせいで、サラマンダーたちはここへ飛ばされてきたのだという。
「あの女は美味しい水の匂いを嗅ぎつけると、どこでもひょいひょい行きたがるんだ。おかげでこっちは大迷惑だ!」
彼はまた、キィキィ怒り始めている。
もう何度も聴いたって。
ウンディーネがそうやって広げた気脈のせいで時空が捻じれ、本来あるべきでないところに道ができ、他の道を塞いだり繋いだりしてるってこと。
飛び込み続ける魂たちから目を逸らし、あるべきではない道はどこにあるのか、と深い碧に目を凝らす。
「あれ、なんだろう?」
水面を漂う木の葉のようなトランプに、見覚えがあった。
「見つけた! 捉まえろ、契約しろ、早く!」
後ろから蹴り飛ばされたような衝撃で、僕の身体が浮きあがる。
オレンジ色に輝いたかと思うと、滝壺に真っ逆さま!
僕もとうとう、黄泉の国行きか!
思わず手を組んで、お父さん、お母さん、お祖母ちゃん、ごめんなさい、と――。
ザッバーン! 立ちあがる本物の飛沫。
水色の竜巻が僕を包み、水面への衝突を和らげてくれている。だけど僕は透き通る碧の水底にぶくぶく沈んでいるのだ。頭上を覆う水面はきらきらの、ぼってりと歪みのある手作りガラスを通す光のようだ。
僕は身体を捻り反転させた。視界のはしに見つけたゆらゆらと揺蕩うトランプに手を伸ばし、それを掴んだ。
ハートのエースの札だ。
と、そのトランプの向こうにゆらゆらと広がる街並みが見えた。
水底からそびえ立つ尖塔、時計台、ゴシック様式の建物の数々に瞬きを忘れて見入ってしまう。
『ビッグ・ベン……』
呟いた言葉が七色の泡になり昇っていく。
僕の身体も引き戻されるように、水面に浮いていた。
「サラマンダー! この底に、ロンドンの街が沈んでいる!」
ザバリ、と水から顔をあげるなり、僕はじっと成り行きを見守っていた彼に向かって叫んでいた。