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続タイペイ・ハザード ~誰も知らない台湾と林家の歴史~

作者: ひすいゆめ

以外な結果と林家の情報、台湾の歴史が紐解かれます。

是非、楽しみにして下さい。

                 最大の危機

 翌日、朝から翡翠達はある場所に向かった。翡翠が小説を書く題材にと美玲に言い訳して、大渓の街に来ていた。ここは木製の品物と豆腐の名産地であった。巨大な中華的な城の門の模倣を思わせる建築が目の前に現れた。そこでタクシーを降りて初めて美玲は、それが大渓の街の入り口を象徴する巨大な歩道橋であることに気付く。翡翠は来たことがあったので、すでにそれを知っていて、特に横目で一瞥するだけであった。

 その町の建物は、今まで台北で見てきた町並みとは全然違い、どちらかというと洋風なイメージをかもし出していた。長屋風で数件がつながっていて、コンクリートに鮮やかな彫刻を掘った壁面やレンガの壁面が美玲の目を奪った。

 狛犬のようなものや草花が多く、西洋の神話の神を彫刻したものまであった。

 そこは地元民の観光地であって、日本人はほとんどいなく台湾人が多く観光に来ていた。達磨の木の彫刻を眺めながら、翡翠は脳裏に色々と思考を巡らせていた。建物は歩道まで乗り出していて、アーケード風になっていた。それを支える柱はレンガ風のものから、ヨーロッパ建築に似せて筋付きの石造りに似せたものも少なくはなかった。

 屋根の彫刻豊かな屋根にはどの建物にも屋号が彫刻によって掲げられていて(中にはローマ字で刻まれたものまである)、その屋号の上には、その店の店主の姓が刻まれているものもあった。壁には現代風の台湾独特の照明付きの黄色字に赤字の看板が乗り出していた。その歩道の脇を車道の路肩にも拘らず、屋台が並んでいる。

 その西洋をイメージしているかのような、台北の中で変わった街で翡翠はかつて来た時にも沢山カメラのシャッターを切ったであろう写真を沢山撮り始める。

 店にも何件も入り、木製彫刻屋や食品店だけでなく、雑貨屋にまで足を踏み入れた。デジカメに100枚以上もデータが蓄積されていく。

 「ねぇ、何の取材をしているの?」

 雑貨屋で珍しい品物を物色しながら、不思議になって堪らず美玲が尋ねる。翡翠はカメラをしまうとニコッと笑って答えた。

 「今、書いているホラーのネタにね」

 「ホラー?ここの街はあまりホラーには向いてないでしょう。思い切り地元の観光、ショッピングスポットだし。…翡翠。最初から呪いのこと、知っていたの?」

 「いいや、呪いの存在自体、知らなかったし。でも、林家の国民党に林家花園を荒らされた呪いで、僕がここに先祖の導きで来たのかもね。林家の人間はプライド高いし」

 そう、呟いて翡翠はあらぬ方向を眺めた。

翡翠はどことなく物思いに耽る様子を垣間見せつつも、木製の小さな蛙の彫刻を買った。棒で背中のぎざぎざを擦ると鳴き声が響くものである。

 買い物を沢山しながら、地元で有名な豆腐店で豆腐ようを立派な壷に入れられが箱に入っているものを買った。そして、外で揚げている豆腐を買って、食べながら翡翠は古いビルの中に入っていった。

 美玲はすぐに翡翠に追いつき腕を掴んで、かび臭い埃の舞う巨大な骨董品のようなレンガ風の外壁のその建物は、内部は薄暗く美玲の恐怖心は徐々に高まっていく。

 「ここには、いるな」

 翡翠の何気ないその言葉に、美玲はびくっとして怒るように怒鳴った。

 「変なこと言わないで。幽霊なんていないんだから」

 「いいや、いる」

 「もう、嫌」

 彼女は思い切り翡翠を平手打ちすると、座り込んでしまった。彼は頬を撫でながら、憂いを込めて彼女を見下ろした。

 異様な雰囲気がその廃ビルに漂っているのは、間違いない。窓からの明かりは木製の細長い、何枚もの雨戸が閉まっていたので、その隙間から漏れる日の光だけが視界を保っている。

 木製の雨戸は表に墨で『右1』、『右2』や『左1』、『左2』などとその木製の細長い板の場所が書かれていた。

 「雨戸を開けるか?」

 しかし、いつもの威勢のよさはなく、ただ力なく横に首を振った。不法侵入がばれてしまうからだろう。翡翠は彼女の前に屈んで、頭を撫でて言った。

 「君はここで待っていて。僕はこの中をカメラで撮影して、小説の取材をしていくから」

 すると、美玲は翡翠の裾を掴んで放さなかった。困惑した翡翠はふと、あるものを廊下の奥で目にした。巨大な絵額である。美しい女性の肖像画であった。

 その絵は一見、印象派の画家セザンヌを思わせるが、右下には『Allan・Stewart』と英語で書かれていた。そこで翡翠は目を細めて拳を握り締めた。

 美しい西洋の女性の肖像画であるが、その背景は大陸のある街のようであった。

 「台湾人が中国の風景のある絵を飾るなんて、皮肉だな」

 翡翠がそう呟くが、美玲はその絵さえも恐れて翡翠の背中にしがみ付いていた。

 翡翠の言葉は間違いであった。後で述べるように外省人に多い大陸派の人間も台湾には多くいる。その証拠に台湾のアイデンティティに関わる選挙で、大陸派と言える人々は台湾独立派と互角にいたのだから。


 ここで、台湾が中国とどう関わってきたのか述べておこう。何故、台湾と中国の対立が起こってしまったのだろうか。中国は台湾を中国一国とし、台湾は現代のアイデンティティの自覚により分かるように、1つの国として認識し、お互いに対峙しているのだろうか。

その歴史をある中国寄りの資料を元に中国が台湾を中国の一部として考えているのか、述べていくことにする。

 

 その前に、中国における『回土帰流』政策について述べる。

 1880年代の清朝は、清仏戦争の敗北でミャンマーの宗主権を失うなど、いわゆる『辺境の喪失』が続いたが、他方で体制再編を模索する動きが顕著になった。明治維新以後の日本が、東アジアの伝統的地域秩序に挑戦する姿勢をみせたのに対抗して、『藩属国』朝鮮の確保を図り、朝鮮の内政、外交に直接介入するような関係の強化を図ったのは、その顕著な例であろう。

 甲申事変で朝鮮に派遣された袁世凱に同行した若き日の張謇は、『朝鮮郡県化』論を提起して、北京の官界の評判になった。

 同時に従来比較的ゆるやかな統治が行われた藩部や、直轄地の周縁地域でも中央直接支配の強化の動きが目立った。

 藩部に属するモンゴル、新疆地域には、将軍という軍官と兵士が派遣されたが、現地の行政は現地の社会関係に任された。直轄地域である中国本土の各省についても、特に西南中国の広西、雲南、貴州、四川などの辺境地域には、(みゃお)族や壮族、泰(本来は人辺に泰)族等、様々な民族が居住し、焼畑耕作をはじめとして、漢族の社会とは違う生業を営み、それぞれ独自の社会を形成していた。

 

 その『回土帰流』政策は、西南の少数民族に対し、清朝は中央から官僚を派遣するのではなく、現地の支配者に行政をゆだねる間接支配を行った。

 これは士官等という現地支配者を使う方法で、明朝のやり方を継承した。しかし、漢族の居住地域で人口の増加が顕著になり、辺境への漢族農民の移住や漢族商人の往来が目立つと士官の制度にも変化が加えられる。

 明代にも、士官を改めて『流官』(科挙を通じて中央に吸収された知識人が地方官僚として派遣される、王朝本来の支配体制)の派遣に切り替える、いわゆる『回土帰流』という政策が実施され、それに対して少数民族が反乱を起こす事態がみられた。

 間接支配から直接支配に切り替えられた。

 それは清代に拡大し、前半にも、各地で民族的軋轢や反乱がしばしばみられたが、太平天国の時期に続発した民族反乱は、清末に民族対立の趨勢が深刻化したことを表した。


 ここから、台湾省の設置と開発の話に入る。

 漢族の人口増大と移住がもたらす社会変動が、西南中国だけでなく各地に発生していた。清朝発祥の地、『満州』は聖地として入植禁止だったが、清代後半に禁令も有名無実になり、主に山東や直隷から続々入植者が入り込んでいた。

 福建の対岸、台湾の開発も清朝中期以降、顕著になった。

 台湾が中国の歴史で特に注目すべき点は、明代末期に清朝の中国統一に反する鄭成功の勢力が台湾を拠点にして、清軍との対抗以来であろう。

 17世紀初め、一時オランダ人が台湾占拠した時期があるが、1661年に鄭成功はオランダ人を追放し、『鄭氏政権』の本拠を福建より台湾に移した。

 まもなく、鄭成功は死去したが、その後も鄭氏一族の台湾支配は続き人口もオランダ統治時代より2万数千から10数万人へ急増した。

 1683年に鄭氏は清朝に降伏し、台湾は清朝版図に組み込まれた。清朝は台湾が反清運動の拠点だったので、初め大陸からの移住禁止政策を取ったが、福建の沿海を中心に多数の人びとが台湾に移住し開墾に従事して、水利施設の整備や農田開発を始める。

 (林家の台湾移住もこのことからも当然と言えるだろう)

 こうして、平地部での漢族農民の農耕定住が拡大し、台湾の先住民を徐々に山地へ追いやった。

 清末の台湾で漢族住民は約300万人おり、そのうち福建省漳州府、泉州府の出身者が8割強を占め、広東省出身の客家が1割強あったという。

 (前述の林家の漳州人、泉州人の争いからの回避の件は、これによる)

 客家は福建系に対して弱い立場で、先住民との境界地域への移住が多く、それで先住民への圧迫の前面に立つこともあった。

 1885年、清朝は福建省台湾府の制度を改め、新たに台湾省を設置した。初代台湾巡撫には淮軍の劉銘伝(1836~1895年)が任命された。台湾建省後10年間台湾における『洋務運動』が精力的に進められた時期である。

 劉銘伝は、それまで複雑な土地所有関係を簡素化し税収を確保しようとし、西洋技術を導入して基隆炭鉱の開発を進めた。大陸との間に海底電線を敷設し、台湾を縦断する鉄道建設の構想もした。

 (実質、技術発展、鉄道建設は日本人により行われたが)

 これら、保守的な勢力の抵抗もあり、十分な成果も得ず途中で挫折したが、台湾社会の形成過程を考えると、重要な試みであったと考えられる。

 

 『辺境の喪失』に続き中華帝国として存在危機を深め、国際的地位の確保のため、清朝は改めて国家としてのあり方に再考を加えることを強制した。

 台湾に省が置かれたのは、1885年であるが、その前年、清朝はロシアとイリ問題の解決を受け、従来藩部として間接的な支配された清疆地方を直轄地に変更し、清疆省を設置し、巡撫をウルムチに駐在させた。

 初代の巡撫は湘軍系の劉錦棠(1844~1894年)であった。台湾出兵の舞台になった台湾を福建省から分離し台湾省に格上げしたのも、この再考の動きの中からである。

 しかし、清疆建省に見られるような理藩院を通じた間接統治から清朝中央政府の直轄統治への転換は、一方で『夷狄』と『中華』を跨った清朝の『中華帝国』的形態えお近代的国際関係に適合する中央主権的な領域国家への転換させる動きを意味したが、他方では、藩部=理藩院の体制を通じ、『夷狄』の世界が『中華』を制圧する形で均衡を保った清朝の支配体制を、根底から原理的に掘り崩した。

 すなわち、版図の直轄化による清朝支配の『近代化』は、少数民族である満州族と漢族との清朝建国以来の対立を顕在化させ、州追う政府として北京宮廷の相対的地位の低下をもたらしたと考えられる。


 話を戻すことにする。その不気味な空家に魅入られた。カメラでその内部の映像を収めていく。そこで突然、2階よりオルゴールが鳴り始めた。当然の現象と捉えている翡翠にびくっと驚いた美玲は飛びついて放さなかった。

 「大丈夫だよ。ここには、邪悪な気も強力な気配もないから」

 彼は本当に霊感を持っていて、不思議な体験を数多く経験していた。その中で恐怖を感じたことは1回を除いてなかった。霊能者の友人に言わせると、そのただ1回の霊は強力で邪悪だったので、翡翠に恐怖を感じさせたとのことだった。

 すっかり怖気づいて座り込んだ美玲の手をつないで、2階への階段に導いた。2階には、1階と同じような廊下が伸びていた。その先の部屋のドアが風で揺れている。

 「もう、止めようよ。私、こういうの苦手だって言っているじゃない」

 「だから、外で待っていてって。僕は取材したいんだから」

 「不法侵入で逮捕するわよ」

 「勝手にすればいいよ。じゃあ、僕は行くよ」

 「意地悪」

 半分泣きべそをかきながら翡翠の手を汗ばみながらしっかりと握っている。その部屋を覗いてみるが、誰もいた形跡はなかった。人がいた場合、その残り香があるはずである。埃も取れて、籠もった空気が変化するはずである。それが感じられなかった。

 古い木製の豪華な机の上に、ガラス製のオルゴールが乗っている。それを翡翠は懐かしそうに撫でて見つめて感傷に浸っていた。

 見た感じでは、何10年も空家のままのようなところで、似つかわしくないものであった。それは、突然なり始めている。

 「昨日、金門島に行くって言っていたじゃない。もう、こんなところ出て早く行きましょう」

 「どうして、このオルゴールが鳴り始めたか、気にならない?」

 「ならない。偶然、何かの拍子に鳴ったんでしょ。私達がここに入ってきた振動とかで。もう、いいじゃない」

 そして、恐怖の表情から、美玲は疑惑の表情へと変えた。

 「翡翠。もしかして、小説の取材じゃなくて、何かを調べているんじゃない?元々、今回台湾に来た目的も観光とかじゃないでしょ」

 すると、翡翠はそれに答えずにオルゴールから視線を外し、部屋中を見渡した。そこで、足音が微かに聞こえてきた。

 「つけられてきたようだね」

 緊張感をかもし出した翡翠は、ドアの傍でその新参者を待った。

 「ここは私に任せて」

 「幽霊とかになると弱気なのに、相手が人間だと強気になるんだな」

 「私は幽霊を信じていないし、嫌いなだけ」

 拳銃を構えた美玲は安全装置を解除して撃鉄を引いた。ゆっくりとリボルバーが回る。そこで翡翠は窓の雨戸を開けてガラスサッシを開け放った。新鮮な空気が籠もった空間に入ってくる。しかし、すぐ目の前に隣の建物の壁があり、その窓からは脱出できないと分かると、彼はオルゴールを荷物に入れて入り口のドアの方に慎重に歩いていった。

 彼女がドアを開けて拳銃を廊下に向ける。しかし、外には誰もいなかった。翡翠はそんな彼女を追い越して廊下を進んでいく。まるで、何も危険のないかのように。

 階段室のところまでくると、壁越しに階下を覗いた。エントランスには2人の男性が1階の廊下の左右から現れた。どうやら、1階全てを探っていたようだ。

 翡翠は手で美玲を制して彼らの様子を窺った。

 ―――次にどうする?

 翡翠の脳裏にある言葉が浮かんだ。

 『囮』

 彼は階段に躍り出ると、すぐに駆け下りて男性の1人に上段蹴りをして倒した。そこで、もう1人が翡翠のこめかみに拳銃を突きつける。そこですぐに美玲が階段を転げるように下りてきて拳銃を向けた。

 『拳銃を捨てろ。この男がどうなってもいいのか』

 美玲は悔しそうに拳銃を下ろそうとするが、そこで翡翠が叫んだ。

 「どうして、僕らを狙う?呪いと僕達は関係ないだろう」

 そこで、男性はゆっくりと口を開いた。

 「それが、関係あるんだよ。お前があそこに来たのを不審に感じた俺達は、闇の美術品ブローカーの取引相手にその屋根飾りのことを聞いてピンときたのさ。それで、調べたらお前、林家の子孫というじゃないか。俺らの持っている屋根飾りも林家の呪いだそうで、仲間が次々に死んでいる。お前が鍵になると思ってな」

 すると、美玲は笑って言葉を放った。

 「貴方達、そんな呪いとか幽霊とか信じているの?」

 「おい、女。お前は呪いの屋根飾りを目の当たりにしていないから、そう言えるんだよ」

 そこで、廊下の奥の肖像画が衝撃なのか、それとも他の原因なのか壁から落下した。

2人の男性が急に何か目に見えぬものに怯えるように、周りを見回してそわそわし始めた。

 「何とかしろ。祖先の呪いなんだ」

 翡翠は唖然として、冷や汗を流した。

 「何とかしろって言われてもねえ…」

 具体的に、何をしたら呪いにかかるのか、呪いを解除できるのか、翡翠も全然検討もつかないのだ。

 そこで、4人の周りの空気が徐々に重くなってきた。息苦しくなり、翡翠はそれが霊の仕業と分かり九字を切った。

 刹那、男性の1人が喉を掴んで苦しみだした。今度は翡翠にも見ることができた。彼の首を絞める半透明の男性の姿を。もう1人は、仲間の危機を放っておいて駆けていった。

 

 逃げるように建物を出ると、美玲は日本のものに比べてかなり小さすぎる携帯電話を取り出して、署に連絡をして美術品密売組織の仲間のことを告げた。

 そこでパトカーを見送ると、翡翠達はお互い顔を見合わせて苦笑した。

 「そろそろ、本当のことを話してくれてもいいんじゃない?」

 美玲は愛らしい仕草で腰に手を当てて強めに言った。しかし、翡翠は首を横に振った。

 「今はまだ…。その内にね」

 そうして、歩き出した翡翠はひとまず美玲の家に戻ることにした。タクシーに乗り込むが、そこで翡翠は嫌な予感がした。そのタクシーは行く先を伝え走り出すが、メーターを倒さない。そこで、ぼったくりのものか、偽タクシーだと察した。

 すぐに美玲にそれを伝えると、彼女は運転手に話しかけた。

 『メーターを倒してください』

 しかし、まるでその声が聞こえないようにハンドルを操り続ける。もし、ぼったくりなら、何か言ってくるはずだ。相手から金が取れるかどうかも分からないので誘拐はありえない。例の麻薬密売組織の一員であれば、すぐに殺しているはずだ。と、すると…。

 翡翠は試しに日本語で言った。

 「彼女は生きているのか?」

 すると、タクシーはゆっくり路肩に止まり運転手は前を向いたまま答えた。

 「お前は舞香の日記を辿っているのだろうが、無駄だ」

 「じゃあ、彼女はもう…」

 「その残された日記をお前に日本まで送ったのは、周女史だ。俺は除敬夷だ」

 「彼女はどこで?」

 すると、運転手は帽子を深く被り直して言った。

 「『十分大瀑布遊園』だ。大滝で有名な」

 「行ったことはある」

 そして、無愛想になっている美玲の手を引いて降りると、彼女のアパートに入っていった。そこで、事情を教えてくれない翡翠に完全に怒っていて、玄関の前まで来るとその前に立ちはだかって翡翠を睨み付けた。

 「まず、私に言わなきゃいけないことがあるでしょ?」

 「お昼は何にしようか?」

 「ふざけないで。入れてあげないよ」

 すると、翡翠は溜息をついて俯くと、明後日の方向を向きながら独り言のように話を始めた。

 「僕には台湾人の周姪鈴と日本人の亜宮(あみや)舞香という友人がいたんだ。日本で大学時代に彼女達が台湾に渡ってしまった。そして、最近になって日記が送られてきたんだ。それは舞香のものだった」

 「その人のこと、好きだったの?」

 不安そうに美玲が尋ねると、翡翠は首を横に振った。

 「それで、日記に載っていたとおりの行動を追ってここに来たんだ」

 「じゃあ、あのボロ幽霊屋敷も、あのガラスのオルゴールも…」

 彼はバッグからそれを取り出して音楽を鳴らした。

 「僕の好きな曲。誕生日にあげたんだ」

 それが日本のラブソングであることは、翡翠はあえて伝えなかった。

 「それでこれからどうするの?」

 「日記のまま行動をするよ。彼女が何を見て何を体験したのかを知るためにね」

 「呪いや組織のことを忘れないでね」

 「あいつ、その呪いで死んだのかもな。僕の祖先の残留思念で彼女が、…皮肉だな」

 美玲はやっと玄関のドアを開けると内ドアを開けて2人は中に飛び込んだ。


 やっと、帰ってきた翡翠達はリビングのソファに倒れ込むと、疲れのためにそのままテレビをつけた。ドキュメント番組が流れている。

 頭を肩に寄せる美玲に翡翠はそっと囁いた。

 「黙っていれば、綺麗で魅力的なんだけどな」

 すると、美玲はさっと翡翠の顔を見て眉を細めて頬を膨らませて、翡翠から少し離れた。それを見て笑うと、翡翠は近くに置いてあった青のギター(ZO()―(ー)Ⅲ(さん))をケースから取り出すと、電源を入れて軽くコードを奏で始めた。

 「結構、うまいじゃない。どのくらい弾いているの?」

 「習い始めて1年半くらいかな」

 「どうして、ギターを持って旅行しようと思ったの?」

 「路上ライブでもしようと思ってね。日本だと自信がないから恥ずかしいけど、台湾なら外国だし大丈夫かなって。でも、勝手に路上ライブなんてしたら駄目だろう」

 「弾ける場所もあるけど。でも、ここで練習すればいいじゃない。何か弾いてみせて」

 そこで、彼は某ヴィジュアルバンドの昔のヒット曲を弾いた。彼女は知っているようであったが、ラインメロディではないので最初は良く分からなかったようである。

 「どうして、歌わないの?」

 「本当は弾き語りしたいんだけど、まだ、できないんだ」

 そして、ギターをネックに負担の掛からないように横に置くと、立ち上がった。

 「さて、昼食でも食べるか」

 「それなら、天津をデリバリーしましょう」

 台湾には、天津をデリバリーする店があった。翡翠も祖母の家で何回かそれを食べていたので不思議には思わなかった。

 数々の天津を頬張りながら、彼らはたわいもない話を続けた。

 食事が済んで、お茶を啜りながらゆっくりしていると、翡翠は壁に掛かるチャイナ製の時計を見て言った。

 「じゃあ、次は約束どおり金門に行くか」

 そして、思い出したかのように翡翠はこう付け加えた。

 「泊まりの用意もした方が良い。僕も荷物を持って出るから」

 それが何を意味しているのか美玲はすぐに悟った。

 「どうして、ここが奴らにばれたの?」

 「おそらく、タクシーでここに送ってくれた除敬夷だろう。僕の知り合いの友人と言っていたが、それもどうだか」

 日記を取り出してそれを見る。そこには、舞香が金門島に向かったことが書かれていた。

 そして、椅子に掛かっていたイン・ザ・アティックというブランドのベルト風の持ち手のあるバッグに日記を入れて、右手で持って肩に担いだ。


 金門島は、本当にアモイが見えるほどに中国との隣接地域であった。軍事施設も多いのも頷ける。

 しかし、台湾と中国のお互いの異なった主張のための戦争は、現在、起こらないと台湾のジャーナリズムでは考えられている。

 そして、中国に対抗しようとする、台湾のアイデンティティの向上が、2004年の選挙で高まり、それが世界の中でも大きな情勢であるのだが、日本ではそれほど大きく考えられていなかった。

 おそらく、この選挙のことも知らない日本人も少なくないであろう。しかし、台湾では、激論を論じるほど台湾人の関心を集めていた。実際、翡翠の祖父方の台湾人の親戚も選挙のことで顔を赤くして激論を放ち合っていた。


 ここで、台湾人のアイデンティティについて説明することにする。

 その台湾で巨大なイベントが行われるほどの大きな影響を与えた2004年、台湾の総統選挙について、台湾の新聞の記事を元に述べよう。


 歴史的2004年総統選挙(現在・未来の台湾について)

 今までの台湾の外国統治の歴史の中で、一番の問題というべき『アイデンティティ』を今回の選挙で勝ち取った、歴史的な選挙であり、台湾ではかなり話題になり、2候補の僅差のための数え直しなどの声もあがり白熱した。

 それは翡翠の叔父、叔母達も例外ではなかった。比較的冷静かつ広大、多面的な視野を持つ叔母を覗いて、叔父達の親戚(父の父の姉、祖父兄弟の唯一の生き残りの息子達)は台湾語を口喧嘩している勢いで熱弁していた。

 この選挙で論点なのは、陳水扁の台湾人アイデンティティの主張である。これは世界的に難しい問題であり、逆を言うと陳陣営ではない方では、その主張の反対を支持しているといっても過言ではないということである。

 228事件があり、外国統治の歴史を持つ台湾人にも、中国に属するという台湾人アイデンティティに反する意見を持つ者達が、同じ漢民族ということでこれだけいたということである。これは、民族的に平安を保った日本人の翡翠には、複雑な思考と想いを受けることになった。

 それでは、台湾の新聞の日本語版から文章を覗いてみることにする。文章はかなり長いので、多少、簡略して記述することにする。


 台湾人のアイデンティティ(以降、ID)の勝利

 2004年3月20日の総統選挙は、陳水扁が僅差で再選を果たした。

野党候補の29518の票差は、得票率から見て0.228%の差で、まるで1947年2月28日発生の228事件で犠牲になった英雄のご加護の勝利のようだ。

投 票前日3月19日13時過ぎ、演説中の陳水扁・呂秀蓮氏が銃撃による暗殺未遂にあう。この世界震撼させる事件で、陳水扁氏に同情票が入ったという見方もあるが、野党陣営もその警戒より有効な票固めが行われ、事件は両者にも利するものとは言えない。

 2000年政権を勝ち取る陳水扁氏政権はけして順調ではなく、その政権運営の拙さも内外からも厳しい眼で見られた。この4年間の陳水扁政権の評価だけでは、連・宗両者を破ることは考えにくかった。

 だが、連戦氏の票差は僅かとは言え、陳水扁氏は50.11%の支持を得、2000年の39%より10%以上の成長したのだ。評価されない彼が政権交代どころか10%以上の支持の伸びを見せたのは何を意味しているのだろうか。これは偏に台湾人意識、台湾人のIDの成長に他ならない。

 昨年李登輝前総統呼びかけの15万人の『台湾正名運動』デモで、「中華民国(蒋介石統治国家)は存在しない」「国名を台湾国に改めよう」と彼らのIDは大いに喚起された。この台湾人IDの高まりが、次第に陳水扁の支持率を上げたのだ。

 また、李登輝前総統は、228事件記念日に合わせ、2月28日に220万人の『人間の鎖』を実行し、政治無関心な庶民層にも台湾人意欲を高めた。これで選挙の争点は陳陣営の『台湾・中国、一辺一国』という台湾主体堅持路線と、連戦・宗楚瑜コンビの『1つの中国』という中国併合路線をめぐるものになり、選挙は候補者選択より、台湾・中国の選択の選挙になった。

 こうなると、陳水扁の評価はもはや重要でなく、あくまで台湾人の台湾国作りか、中華民国体制を維持し続け、中国併合の可能性を容認するかという自分達、子供達の将来の『国の形』が有権者のテーマとなり、その結果として、50.1%が『台湾』を選んだのだ。

 騒動を起こした宗楚瑜氏の計算僅差での敗退で連戦氏はこの結果を不服とし、直ちに支持者を総統府前広場へ集結させ、群衆闘争路線に打って出た。連戦・宗楚瑜両氏支持者に「銃撃事件は自作自演だった」「票に不正操作があった」「即刻、票の再集計しろ」「選挙無効だ」と群衆扇動し、台湾確立の民主制度を完全否定した。この無謀行動は宗氏の最後の賭けであり、実際、陳氏当選確定の判定時点で、宗氏は選挙無効の闘争路線を強く主張し、連戦氏がその主張に従ったことをマスコミ関係者がリークしている。

 お坊ちゃま政治家、連氏ならともかく、権謀術数に長ける宗氏が、選挙に負けた悔しさから、この無謀戦術を取ったとみるべきではない。宗氏計算は、敗北責任回避、年末実施の国政選挙キャンペーンの一環と見るべきだ。そして、あわよくば、票の再集計が行われれば、再選挙になれば僅かな勝利への可能性もあるという計算なのだ。

 もし、素直に敗北を認めると、連・宗両氏も2度目の総統選挙の失敗になる。よって当然党内では世代交代を求める声が高まり、両氏の政治生命は絶たれるだろう。だが、選挙無効騒動で、ひとまず敗北責任をうやむやにし、この騒動を長引かせ年末選挙戦につなげ、世代交代問題も発生しないと読んだのだ。

 さらに、この騒動は宗氏による国民党への食い込み戦術であるのだ。台湾では外省人と言われる中国出身者は人口の13%を占めている。彼らは親中国派の原理主義的な過激派であり、宗氏のちゅうじつな支持者である。宗氏がいくら民主主義に反する行動をとっても、彼らからの支持を失うことはない。

 だが、今回の理性を欠く騒動で、今まで穏健派を標榜してきた国民党は、すでに支持者から反発を買い、党の崩壊の危機に直面している。親民党の宗氏がその隙をついて、国民党内の中国派を吸収しようというのが、真の狙いであるのだ。国民党は体力消耗させれば、いずれ、国民党の政治資源が宗氏のものになり、犠牲になるのは台湾国民と連戦氏だけである。


 騒動原因は中華民国体制に内在する中国文化の本質

 3月20日選挙直後から始まった連宗中国人集団の群衆闘争は台湾人に中国文化の本質を見せ付けた。敗戦後の騒動は、自ら非を認めぬ潔さを欠けた中国文化そのものである。 

 50数年の国民党政権の中国人化教育政策によって汚染されたといえど、ほとんどの台湾人は連宗集団の起こした怨念と私利の塊の如く権力闘争に愕然とした。この権力欲に血眼になる闘争はまさに中国人的だ。長年台湾で貯まった中国文化の澱である。国民党、親民党体内に充満する中国澱は金メッキに包まれていたが、今回の闘争で剥がれ醜い本性が明白になった。長い眼で見て、連宗両氏の最後の悪あがきはけして台湾にはマイナスでない。

 それは、台湾文化、中国文化の相違が際立ち、多くの台湾人はこの往生際の悪い中国人集団の騒乱に目覚め、台湾人意識も飛躍的成長に違いない。

 注目すべきは騒動の首謀者・参加者も中華民国体制原理主義的信者で、集会に集まる両者支持者達は例外なく、中華民国国旗である『青天白日旗』を持ち、実質的に国民党党歌の『中華民国国家』合唱をしている。この光景は台湾における中華民国体制の矛盾を象徴している。

 つまり、中華民国体制を維持しようとしている台湾内部の中国派である。台湾を中国に押し付ける勢力が中華民国の擁護者であるのだ。だが、現に台湾の正式名称は中華民国であり、陳水扁総統も現行憲法の下では、『台湾の総統』でなく『中華民国の総統』なのだ。 

 だが、この中国派が起こした騒動で分かるように、実際中華民国体制は台湾内部の中国派の特権維持装置であり、台湾の民主主義と相容れない異質の存在なのだ。中国派が中華民国の旗を持ち、台湾派に対抗する光景は、中華民国体制の末路の象徴だ。この騒動が激しくなれば台湾人は、中華民国はやはり外来的なものだと思い知るだろう。「だからこそ、憲法を制定して、中華民国体制を終結させなければ、台湾に将来はない」と思うはずだ。 

 国民投票による憲法制定は陳水扁総統の最後の大仕事である。中国派によるこの未曾有な騒動は、二期目の陳水扁氏に中華民国体制を認識させ、憲法制定を成し遂げる意志を強くさせたに違いない。


 2大台湾派は1小中国派に塗り替えられる政治地図

 総統戦で激発された台湾IDで、台湾の政治勢力も大きく変化するのであろう。2008年新憲法が施行されるまで、台湾内部では、台湾派と中国派の戦いは続く。中国による侵略戦争の発動や台湾の要人暗殺などの不確定要素がなければ、台湾派の優勢は間違いない。台湾の政治地図は2大1小勢力になる。つまり、2大は台湾リベラル派と台湾保守派勢力であり、1小は中国派勢力である。

 2008年の陳水扁総統第2期目の任期満了まで、台湾は2つの国政選挙と2つの地方選挙が控えている。今年年末の立法委員選挙、来年の地方首長、議員選挙、再来年の台北・高雄市長議会議員選挙、そして2007年の立法議員選挙である。今回の総統戦で敗退で政権復帰可能性の失った中国国民党は、これら全ての選挙に大敗するに違いない。なぜなら、金権体質の中国国民党は政治特権により、支持基盤を固めてきた権力集団である。政権を奪い返す可能性のない以上、これまでのような利益誘導による地域勢力結集の手段もなく、地方の支持基盤は一気に崩壊するだろう。

 党本部は幹部や国会議員達は、党の財産の清算されるまで、表面的な団結だけで維持するだろうが、それが清算されたあとは、沈みかける船にいるネズミのように、党から逃げ出すことであろう。権力も財産もなくなった国民党は、ヒモに逃げられた年老いた娼婦と同じ末路を辿るしかないのだ。

 だが、台湾国内の中国人勢力は、中国国民党の崩壊によって消滅することはない。中国は崩壊しない限り、彼らは台湾国内の中国の第4列的な存在になり、2008年以降も存在するだろう。しかし、台湾人ID高揚の流れの中、中国派政治勢力は再び政権をとれるほどの大政党にはなりえない。中国派は最終的には10%以下の支持しか得られない政治勢力となり、小勢力の万年野党にあるしかないのだ。これで、初めて台湾はリベラルか保守かの、台湾人のための政治路線論争ができるようになるのだ。


 台湾リベラル派になる民主党

 …(略)…


 台湾団結連盟は台湾保守派の核心になる

 元々、李登輝政権時代の国民党は保守中道政党だったので、安定優先に考える企業からの多くの支持を得られた。だが、連戦国民党主席が選挙後に展開した群衆運動路線の暴動で、国民党は中道保守から狂信的原理主義的集団との印象が強まった。群衆運動が手段の集団は過激派のイメージである。

 その手段はコントロール不能に陥る危険性が潜むため、国民に不安・恐怖をもたらす。そのため、安定志向の企業に最も敬遠されるのだ。その意味で連戦の再選挙を要求する騒動は、自らの経済立ち直しのスローガンと矛盾する。つまり、国民党はすでに中道保守路線を破壊したのだ。

 しかし、成熟した民主国家ならリベラル勢力とともに中道保守勢力の存在も必要である。この両勢力の存在で安定勢力・改革勢力のバランスを取れば、安定を保ちつつ改革を重ね続けることができる。中道保守勢力であった国民党崩壊となれば、それに代わる台湾派の中道保守勢力の存在が不可欠である。しかも、その保守勢力は台湾派リベラル勢力に結抗できるほどの力が備わらないといけない。

 現在、台湾派保守中道勢力と言えるのは、台湾団結連盟のみである。実は台湾団結連盟の核心メンバーのほとんどが、かつての国民党内の李登輝前総統に近い人物で、その理念も彼に近い中道保守である。彼らは産業発展重視と安全保障の観点から、アメリカの共和党に近い理念を持っている政治勢力である。安全保障に関して、最大脅威の中国に脅威し、現有の米台連携防衛体制で中国の軍事拡充に対抗しようと考えている。従って、日米安保体制の下の日本との関係も民進党以上に重視するわけだ。戦争を避ける唯一の方法は、戦争を恐れない態度をみせることである。

 これは残念ながら、リベラル勢力の民進党はさほど理解していない。その意味で李登輝前総統を中心の勢力は当分、浸水扁政権の一番弱い外交と国防の分野を担当すべきだ。実際、李登輝前総統は陳水扁総統より軍関係者から信頼されている。陳総統もこのことを重視し、台湾団結連盟を大いに活用すべきだろう。

 国民党完全崩壊まで、台湾内部では台湾派と中国派の戦いは続くため、このようなリベラルと保守の路線闘争は表面化することはないだろう。だが、国民党崩壊すると、リベラルと保守の路線の違いが鮮明になり、台湾派の中道保守勢力は大幅に成長するだろう。その時、李登輝前総統はこの中道保守勢力を終結させる最大の力になる。台湾は正常な国になり、政局も安定に向かうだろう。

 連宗集団が起こした政治的混乱状態は少なくとも12月の立法委員選挙まで続くだろう。連戦氏は総統選はまだ決着がついていないと信じ込んでいるようだが、宗楚瑜氏はすでに立法委員選挙に突入している。  2004年の立法委員選挙と2005年の地方選挙で国民党崩壊し、中国派勢力が弱小勢力に転落すれば、台湾政治も安定に向かうことになる。

 新憲法制定を目指す台湾は、中国とは熾烈の戦いが続くだろう。もしそこで台湾が軟弱な態度を見せれば、中国は間違いなく手を突っ込んでくるのだが、毅然として粛々と憲法制定を進めれば、中国が盲進してくる可能性は低くなる。

 陳水扁総統は公約どおり、2006年に国民投票で新憲法制定し、2008年に施行できれば、中国はこの動きに反応を示さないことはありえない。だが着目すべきことは、中国は今回の総統選挙前に日米に台湾の国民投票を阻止するように依頼した。

 その意味は、中国にとって台湾問題は、もはや中国と台湾の間の問題、中国内政問題との主張に限界があることを、中国自ら認めたことである。つまり、中国は台湾問題を国際問題として扱わざるを得ないということであり、それより、中国の憲法制定妨害圧力は確実に低下することになる。

 もちろん、2006年の憲法制定について、中国はあらゆる手段で阻止を試みるはずだ。だが、陳総統は対話という柔軟路線を取りつつ憲法制定を堅持していくだろう。この憲法制定とは台湾の国号、領地範囲の確定するものであり、5権憲法から三権分立憲法に移行するのであり、国会改革、行政改革も含める困難な工程だが、成し遂げなければ台湾は正常な国になれない。

 中国は当然この中国と縁を切る最終的な動きを、手をこまねいて見ている訳にいかない。だが、その取れる方法は限られている。台湾IDの高揚している台湾には、恫喝という手が逆効果を招くことは、中国のこれまでの経験より熟知している。ミサイル攻撃など電撃作戦で台湾を麻痺させて、一気に台湾国民の戦意を奪う手もあるが、台湾人のIDが高揚すればするほど、その戦意は簡単には喪失することはない。だから、台湾を護ろうとする台湾人の意志が強ければ強いほど、中国は手が出せなくなる。かくして、戦争の可能性も低くなる。その結果、現状維持、中国経済発展の阻止されることもなく継続され、台中双方がともに利益を享受することになる。

 中国の目下の狙いは、台湾の経済、外交などすべての生存空間を遮断するとの失速作戦により台湾を屈服させ、香港のように平和的併合することにある。この一番のコストの安い方法は連戦氏の敗戦によって消え去った。陳水扁政権以降のどの政権も中国との統一路線をとることはない。台湾併合には、もはや戦争以外の選択肢しかないが、その手段も台湾人のIDの高揚により有効といえなくなった。もしあえてその道を行えば、中国自身も崩壊するほどの高いコストが伴うことになる。

 今回の選挙で、台湾人は彼らのIDの威力を実感した。だから、今後、台湾人IDはさらに高揚していくだけなのだ。


 金門島に来ると、2人は軍艦や軍施設を見て過ごした。海岸で無言のまま散歩していると、翡翠はふと、振り向いてそのまま美玲の手を握って走り出した。

 「どうしたの?」

 「つけられている」

 その彼の真剣な顔を美玲はしばらく見つめながら走り続けた。金門島のミリタリーショップに入り、そこで尾行している謎の人物を見定めようとした。しかし、結局、誰も店に入らず、店先を通り過ぎる者もいなかった。

 しばらく、外を見定めていたが、危険がないのを確認するとほっと胸を撫で下ろして、そのまま、翡翠は店内を物色し始めた。

 品物の中には実際に本物の軍隊が使用するものが多々あった。一通り見て外に出ると、周りを視線だけで見回して翡翠は深呼吸をした。

 そこで、未だ、地雷原が存在する危険地域で爆発が起こった。すぐにそこに駆けつけようとしたが、軍隊の封鎖が即時に行われたので見に行くことはできなかった。

 「どういうこと?」

 美玲は苛々しながら地団駄を踏んだ。腕を組んで考え込んだ翡翠は、すぐにこの地から離れることを決めた。


 次に日記に記載されていた平渓に向かった。翡翠は叔母にこの辺りに林家の祖先が住み着いた場所と言っていたところである。平渓街の橋から見下ろすと河はかつての様子を見ることが出来なく、整備されていた。遠くの橋で列車が通るのが見えた。

 細い路地を進んでいく。そこは店が多くの天燈のミニチュアが多く売られていた。天燈とは、巨大な紙製の風船に願いを書き、催しの際に一斉に暖かい空気を中に入れて空に飛ばすものである。

 その沢山の明るい風船が飛んでいく様子は、幻想的で本当に人々の願いが天に届くかのようである。

 翡翠はかつて来た時に買ったが、また、その天燈のミニチュアを買って3つをバッグに、1つを美玲に渡した。

 「私に?」

 「ああ、願いが叶うようにね」

 『ありがとう』

 彼女は北京語の『謝々(しぇいしぇい)』ではなく、台湾語の『感謝(かむしゃ)』と『ありがとう』を表現した。わざと台湾語でお礼を言うと、満面の笑みを見せた。

 路地の建物には上の方に緑字で『平渓街』、『平渓郷』という番地名の書かれたプレートがある。それはかつての番地プレートであるそうだ。

 石畳の道の坂をさらに上る。犬を横目に2人は更に進む。木の道しるべや台湾ではメジャーな赤と緑の郵便ポストがあった。主要街中では赤のポスト、緑のポストと2つであるが、この小さな街では1つのポストに2口があり、赤と緑に半分ずつ色分けしてあった。緑は普通郵便であり、赤は至急の郵便である。

 木製の建物、レンガの建物を抜けていくと最も高いところに、日本統治時代より駄菓子屋をしていて、未だに日本のアイスクリームを売っているおばあさんがいた。そこで、アイスクリームを買って食べながら、お茶専門店も通り突き当たりの駅に着いた。その鉄道は、台湾鐡路という鉄道の素朴な駅であり、切符も日本のそれにそっくりであった。勿論、自動改札ではないので、紙製のものであるが。

 線路は柵がなく、線路に簡単に入ることが出来る。線路の上で遠くを眺めていた翡翠は、そのうち、溜息をついて振り向いた。

 「あいつ、何をしたかったのかな?」

 舞香のことである。日記から行動を追っているが、どうも普通の観光旅行ではない気がしてきたのである。そこで、美玲が急に翡翠を押し倒して伏せた。坂の下から男性が現れる。

 「もしかしたら、この呪い、舞香と関係しているのかもしれないな」

 「ちょっと、後輩にその人のこと調べさせるね」

 美玲は携帯電話で署の後輩の刑事に色々と、舞香について調べるように命令口調で言った。しばらくして、ある事実が分かった。

 「その子、2年前に変死しているわよ。しかも、あの十分大瀑布遊園でね」

  そう、日記の最後の記載されているところだ。しかし、すると不可解なものが2つある。日記が送られてきたのがつい最近であること。最後に絶命する前まで日記を書いていたということ。

 「私達が来た道から来たということは、つけられていたのかな」

 すると、翡翠は顎に手をやって慎重に言った。

 「いや、尾行はされていなかったはず。待ち伏せだ。店の中に隠れていたんだ」

 「でも、どうして、私達の行動がばれているの?」

 翡翠は意味ありげに美玲の顔を覗くが、あえて何も言わなかった。

 「相手は2人みたい。強行突破しよう」

 「無理だ。この『平渓』の駅で列車に乗って、『十分』の駅に行こう。幸い、この次に『十分大瀑布遊園』に行くんだからね」

 待合の建物を敵のいる反対の裏路地に出ると駅に向かい、切符を買って隠れながら列車を待った。列車が来るまで実際よりかなり時間がたったように、2人には感じられた。

 列車が来ると駅を通り乗り込むと、『十分』の駅に向かうことにした。列車の椅子に腰を下ろして溜息をつくと、美玲の携帯電話が鳴った。それは李警部からである。

 『おい、いつまで遊んでいる。さっさと署に戻って来ないか?』

 美玲はきょとんとして、自分の耳を疑った。

 『李警部、翡翠の警護はどうなるんですか?彼を狙う犯人の確保をするんでしょ?』

 すると、間を置いて慎重に彼は言った。

 『お前は一体、何を言っているんだ?たった今、陳麻薬組織を一網打尽にしたところだ。別の取引をしているところを別の所轄が確保した。もう、その青年は無事でお前もくっついていなくていいんだ』

 李警部が何か話をしている携帯電話を耳から離して、隣の窓の外を眺める翡翠を見て呆然とした。

 『あの時、翡翠が目撃したのは、その麻薬取引とは関係ないんです。闇美術品の取引だったんですよ』

 そこで、無言が少し続いた。

 『おい、何かあったのか?いつもみたいに無茶するな。おい、聞いているのか?』

 携帯電話を切るとしまって、美玲は頭の中を必死に整理しようとしていた。列車はそんな彼女を無常に着々と運んでいく。数駅が過ぎて、『十分』に着いた。

 駅に降りると、翡翠はタクシーを捕まえて、『十分大瀑布遊園』に向かうように伝えた。2人は沈黙を保ちながら、広い山道を進んでいった。

 岩に刻まれた紅い文字。それはこう書かれていた。

 『十分旅遊服務中心』

 右手の建物を横目に見る。そのドーム状の内側の壁には紅い文字が刻まれていた。

 『天燈研修廣場』

 その建物を右手のまま回りこみ河に出る。その先にあるつり橋、四廣潭橋を渡っていく。揺れる木製の足場を見つめながら、翡翠は心半ばで前に進む。

 そんな彼の背中を見つめながら、美玲は思案をめぐらせていた。麻薬密売組織は捕まっていた。

その前に警察にあそこで取引があると密告があったのは、麻薬取引ではなく、美術品取引であった。密告したのは?その動機は?

 河の水位が下がっていて、穴がぼこぼこ空いている川底が見えている場所も少なくなかった。橋を渡りきると、翡翠は道脇に立つ道しるべを見つめた。後ろに『旅客中心』。前方に『眼鏡洞』。

 石畳を進んでいくと、木のベンチがあった。

 「ここで舞香は腰を下ろして休んだのかな」

 翡翠は突如、そう呟いて足を止めた。

 「もう、何が自分の身に起こっているか、推測できているんだね」

 美玲がそう言うと、彼は寂しそうに振り返り優しく言った。

 「ここから先は僕独りでけりをつける。君は残ってくれ」

 「自分の立場が分かっている?翡翠。貴方は命を狙われているんだよ」

 「そうだな、じゃあ、君を連れて行くのに条件がある」

 翡翠はシャツの下に着ていた防弾チョッキを脱いで美玲に渡した。その真剣な眼差しに美玲は断ることも、溢れる想いも言葉にすることができなかった。

 「分かったわ」

 彼女はそれを着て顔を埋める。

 「翡翠の香り」

 「何やっているんだか」

 力なく微笑んでみせて再び足を進め始めた。

 左手の崖は岩肌が見えて、下には剥がれ落ちた岩が積まれている。それを見ると、薄く剥がれる岩盤であることがわかる。右手の河の向こう側の崖崩れを見て、翡翠は叔母の言葉を思い出していた。

 「あそこに、道路から車で滝の所まで行ける道があったんだけど、崩れ落ちたんだよ」

 今は滝のある公園は別の場所に入り口を持つ。

 薄い靄の中、長い道を進んでいくと階段が現れる。竹の手摺りを掴んで登っていくと、右手に小さな滝が洞窟の上から落ちていた。これが先ほどの道しるべの眼鏡洞だと翡翠は思った。

 階段の上にはまたつり橋、滝瀑吊橋があり、その右手に線路の橋が並行して伸びていた。その先に『眼鏡洞瀑布』という説明盤があった。写真より、先ほどの小さい滝が眼鏡洞であったことが正解であったと分かる。瀑布とは、その洞窟に布のように落ちる滝のことだろう。

 橋の終わりに左に曲がり、何と線路に出た。平渓鐡路であり、今も列車が通るにも拘らず、人を護る柵さえない。レールを綱渡りしながら翡翠は進む。その後を距離を取って美玲は翡翠を見守るようにとぼとぼと歩いていた。

 そこで、異音を微かに耳にした美玲は線路から離れた。

 「翡翠、電車が来るよ」

 しかし、まるで聞こえないかのように、轢かれることを望むかのように綱渡りを止めない。美玲は冷や汗を流して再び叫んだ。

 「翡翠、ふざけないで」

 列車は徐々に近付き警笛が山々に響く。美玲は泣きそうな顔になって、おどおどしながら翡翠を助けに飛び込もうか迷っていると、寸でのところで翡翠は線路から飛び降りて滝のある公園の入り口に入った。列車が目の前を通り過ぎるのを眺めながら、美玲は大きく息を吐いた。

 チケットを買って中に入る。ゲートに入ると金色の恵比寿と狛犬が出迎えていた。

公園には子供が遊戯具で遊んでいる。仏像の群れや龍の像を横目に日本語の音楽が遠くに流れる中、滝の見えるところまで歩いていった。

 その滝は壮大で圧倒されるくらい心を揺るがすものであった。そこで、2人は振り向く。そこには、翡翠の見慣れた顔があった。

 「周女史」

 彼女は花束を持っていて、それを翡翠に投げた。受け取る翡翠に彼女は真剣な眼差しで言った。

 「舞香を追ってきたのね。でも、捜索が弔いになるとは思わなかったでしょうけど」

 「舞香はどうして?それより…、君なんだろう。何回か彼女の日記を読んでいて、僕がその道を辿ることを推測して先回りして美術品ブローカーに教えていたのは」

 「私?私がやくざの娘だから?笑わせないでよ。そこまで私は落ちぶれてはいないわ。私は今、ここにいるのは彼女の命日で弔いに来たの。でも、貴方の方が適しているから、貴方が献花してよ」

 翡翠は少し離れたところで2人のやりとりを見ている美玲に視線を移して、それから滝の方に踵を返して滝つぼに花束を放り投げた。

 それはゆっくり花びらを散らしながら舞い落ちていった。まるで、以前の舞香のように。

 ふと、翡翠は殺気を感じて振り返る。そこには意外な顔があった。周女史は彼女の隣にきて嘲笑うように声を上げて笑った。

 「舞、舞香?」

 そう、舞香が周の隣に立っていた。しかも、拳銃を彼に向けながら…。

 「どうして?」

 すると、舞香は微笑んで言った。

 「彼女とゲームをしたのよ」

 周女史の方を見ながら楽しそうに言う。

 「貴方が私の日記で、ここまで来るかどうかね」

 そして、舞香は翡翠に視線を戻して言う。

 「結局、私の勝ちね。で、全てがゲームオーバー」

 彼女は撃鉄を引いた。マガジンから銃弾(ブレッド)が充填される。

 「ゲームはこの際いい。何故、僕を殺そうと?」

 「私達の中で、貴方だけ幸せでのほほんと暮らしているのがうざいからよ」

 周女史の言葉に何故か翡翠はピンと来るものがなかった。彼女達が羨むような存在では、けしてなかったからだ。

 翡翠は笑って呟いた。

 「そう、僕達は舞香の日記どおりに行動していた。その先々で、待ち伏せで尾行や攻撃を受けている。つまり、日記が敵に知られていたんだ。呪いの主の子孫だからって、ここまでつきまとう訳はない。全て、犯罪組織に見せかけたお前の仕業だったんだな」

 「麻薬密売組織なんて知らないわ」

 周女史が言う。

 「自分の献花は済んだことだし、あの世へ楽しんできてね」

 そこで、美玲が拳銃を取り出すが、周女史が飛び出して彼女の手を蹴って拳銃を飛ばした。そのときに、銃声が高らかになった。

 翡翠は胸に煙を上げながら手摺りから滝つぼに落下していった。


 舞香と周はそのまま、その場を去っていった。倒れていた美玲は信じられないといった感じに起き上がることもできず、翡翠の落ちた手摺りを呆然と眺めていた。

 しかし、すぐに立ち上がり右の階段を落ちるように下りていき、滝つぼに近い、水の跳ねるところまでくると、回り込んで浮かんでいる翡翠をすぐに手繰り寄せて陸に上げた。

 彼は気絶しているようだった。気が動転している美玲は、すぐに携帯電話を取り出して自分の所属する警察署の短縮を押した。

 すると、警察署の刑事課の電話に李警部が出た。

 『どうした?一体、何があったんだ。泣いているのか?』

 『誰か…誰か助けて。場所は『十分旅遊服務中心』。誰か早く!』

 半分、泣きながらやっと声を絞り出す。きつく翡翠を抱きながら。

 『落ち着け、何があったのか話すんだ』

 『どうでもいいから、早く救急車をよこして。十分の滝のところだから。…私に防弾チョッキを貸すから…。私のせいだ。私がついていたのに』

 すると、翡翠は突如、咳き込んで覚醒した。

 「翡翠、大丈夫なの?」

 「痛いって」

 美玲の腕を振り解くと、息を整えながらやっと聞こえる声で言う。

 「大丈夫な訳ないだろう。内臓とあばらはやられているな」

 「で、でも、どうして無事なの?」

 「無事、じゃあないけどな。これのおかげさ」

 彼はシャツの左ポケットから林家の記念銀貨を取り出した。プラスチックは砕けて銃弾の跡がついている。そして、貫通できなかった銃弾がポケットの中で布を焦がせていた。

 「すぐに救急車が来るから」

 「どうやって?ここは線路や吊橋を通らないと来れないんだ。自分で歩いていくさ」

 美玲の肩を借りて歩いていく翡翠は、公園から出ると線路の上を歩く。吊橋まで戻ってくると、足を止めた。舞香達がいるか気配を探っているのだ。間違っても、彼女達に追いついてはいけない。

 美玲は情況と舞香達を緊急手配依頼したが、警察が来る頃には彼女達は別の場所でくつろいでいるだろう。

 元の河原沿いの道の入り口にあった建物、『天燈研修廣場』まで戻ってくる。そして、そこで力尽きて翡翠は倒れてしまった。道路から担架を持った救急隊員がすぐに駆けつけて、美玲を付き添いに救急車は病院に向かった。

 

 林家の翡翠の親戚も高い地位にいる台北の大病院で、ICUで手術を受けている翡翠を心配しながら、廊下の長椅子に貧乏揺すりをしながら腰掛けていた。

 そこに李警部がカップのコーヒーを持ってやってきて、美玲に渡した。

 『大丈夫、ここは台北で一番の病院だ』

 そこで手術室から医師が出てきた。彼女はコーヒーが入ったカップを床に落としながら、すがりつくように訊いた。床にコーヒーが広がっていく。

 『翡翠は、彼は大丈夫なんですよね?』

 すると、医師は何とも言えずに俯いた。そして、ゆっくり口を開いた。

 『やれることはやりました。後は本人の気力次第です。しかし…』

 『何か問題でも?』

 李警部が代わりに尋ねる。

 『彼は生きる気力を出さない、行きようとしないようなのです。こういう情況は珍しいです。皆さんで励まして生きるように彼を導いてあげてください』

 個室に移された翡翠は静かに眠っている。バイタル機器の電子音が空しく美玲の心を打つ。彼女は翡翠の手を握って必死に叫んだ。

 「何やっているの?私を残して死のうとしているの?親友に裏切られたのは、同情するけど見返してやろうよ。生きて、仕返しをしよう。私はいくらでも力を貸すから」

 意味の分からない日本語を聞きながら、李警部は腕を組んで見守った。そして、見かねてそのまま去っていった。2人きりになった美玲は、彼の耳元で囁いた。

 「私、貴方のことを好きなの。失いたくないの」

 すると、意識のなかったはずの翡翠の口から言葉が零れた。

 「それは幻想さ」

 彼女は鼓動を激しくしながら口を開け放ち、そして、すぐに翡翠に飛びついた。

 「痛いって」

 「帰ってきたのね」

 「君が無理やりあの世から連れてきたんだ。首に縄をつけてね。で、さっきの台詞だけど」

 美玲は頬を染めて頷く。しかし、彼は死んだ目で窓の外を眺めた。

 「でもね、外国人同士の恋愛や結婚は、文化、考え方、性格、性質の違いから、うまくいくことが難しいんだ。僕が両親という身近な例を小さい頃から見てきたから分かるんだ」

 「ダブル、…ハーフだったわね。でも、それは貴方の場合だけ。とにかく、先生を呼んでくるわね」

 美玲はそのまま、足音が彼の傷に染みるほど慌しく駆けていった。それを見届けると、チューブや注射針などを外して無理して立ち上がると、壁に掛けてあった松葉杖を使って個室を出て行った。

 病院を出た翡翠は、周女史と舞香のいそうな場所を推測して向かうことにした。

 彼の祖先の屋敷、林本源園邸へ。


 林一族は日本人とのつながりも深く、日本統治時代には日本に多くの貢献をしてきた。

それは前述にも述べたが、『台湾は日本人がつくった』という著書にも林家のことが少々出ている。それを抜粋することにする。


 …もうひとり挙げたいのは木村泰治である。木村は明治3年、医師木村謙斉の七男として生まれ、18歳で東京英語学校入学、…(中略)…エリートだった。28歳で台湾に渡り、『台湾日日新報』の記者となる。

 そして、内藤湖南の推薦で「地天泰」のペンネームで多くの名文を残している。そのなかには、後藤新平や新渡戸稲造らのインタビュー記事もある。また、児玉総督と北部豪族林本源家を訪問し、簡大獅帰順式、北埔暴動などの号外記事も多く書いた。歴史事件の現場記者として活躍していたのである。


 台湾人慰安婦、台湾の4大家族が投資

 中央研究院中山社会科学研究所の朱徳蘭副研究員は8日、台湾人従軍慰安婦に関する初めて公開される史料を含んだ「台湾慰安婦档案調査研究」を発表した。

 それによると、第二次世界大戦の期間中、日本政府は台湾に設立した台拓会社と福大会社を通じて海南島に慰安所を設立し、だまして連れてきた台湾人女性を慰安婦として働かせていたという。また、福大会社の株主には、現在に至るまで台湾の政財界で活躍している板橋の林家、高雄の王家、基隆の顔家、そして海峡交流基金会の現董事長である辜振甫氏の辜家が含まれていた。

 朱徳蘭副研究員が発見した慰安婦に関する史料は、台湾省文献委員会に保存されていた「台湾拓殖株式会社档案」。朱徳蘭副研究員は慰安婦を支援している台北市婦女救援基金会と連絡し、台湾における戦争中の慰安婦募集の実態を再現するため史料の整理を行った。

 台北市婦女救援基金会の創始者である王清峰弁護士は、台湾人慰安婦が存在したという証拠は、これまで1人の女性による証言しかなく歴史資料が欠けていたが、この史料の出現により台湾人慰安婦が日本政府に賠償を請求する際、証拠とすることができると語った。

 しかし社会科学研究所の別の研究者は、朱徳蘭副研究員が提示している史料は、日本政府が投資した台拓会社と福大会社が、日本による中国進出の戦略物資を提供するとともに慰安婦を取り扱っており、辜振甫氏らが株主の一人だったことを証明するものだが、辜振甫氏らは小株主の一人にすぎず、辜振甫氏らが慰安婦事業のことを知っていたことを証明するものにはなっていないと指摘している。

 朱徳蘭副研究員の報告によると、第二次世界大戦の期間中、日本は大幅に軍事予算を拡大したが、これによって多くの財閥が軍需産業に従事した。台湾拓殖株式会社(略称、台拓)は1936年に設立されたもので、日本が南進政策を進める上で台湾総督府に代わって華南と東南アジアの軍事経済活動に従事した。本部は台北で、政府と財閥が合弁で設立した。 

 1939年に日本軍が海南島に上陸すると、占領軍は台湾総督府を通じて、台拓に対して海南島の開発を命じ、初期には占領軍が必要とする事務所、病院、食堂、宿舎、海軍慰安所などの建設にあたった。

 1939年4月4日の記録によると、台湾総督府の木原調査課長は、台拓に対して芸妓と娼妓を90人派遣するよう委託した。台拓はとりあえず「花月」「竹之家」の2件の置屋から10人を派遣し、彼女たちに3万円の営業資金を貸し付けた。

 しかし台拓は、慰安所の経営者に資金を提供することはふさわしくないと判断し、姉妹会社である福大会社に資金を融資して食料、労働者、運転手の調達、慰安などの関連業務を行わせ、福大会社から食堂と慰安所の経営者に資金を供給する方式を申し出ている。

 当年4月6日、台拓と福大はこれについて契約に調印している。当年に福大が慰安所経営者3人と行った金銭の往来についても、記録が残されている。この3人の経営者は、4月18日と5月24日に、招集した慰安婦を軍艦に乗せて海南島海口と三亜に送っている。渡航者の名簿には、慰安所経営者、芸妓、酌婦(慰安婦)などと記されている。

 朱徳蘭副研究員は、これは警察、商人、やくざ、村長などが、女性を脅迫したりだましたりして慰安婦にしたことを示していると指摘している。

 「株式会社福大」は1936年に設立されたもので、最大株主は台拓。福大は日本が福建に置いた国策会社と位置付けられている。

 福大の株主はほとんどが日本人だが、名簿には少数の台湾人の名前も見掛けられる。そのうち辜顕栄氏(辜振甫氏の父親)200株、林熊徴氏1000株、林熊祥氏1000株は個人名義。陳啓峰氏は新興製糖過節会社の名義で100株、台陽鉱業株式会社は台煤の顔欽賢氏。

 福大の株は合わせて6万3700株。そのうち台拓が1万9409株。

 辜顕栄氏の株は1941年、辜振甫、辜京生、辜偉甫、辜濂松(辜顔碧霞を代表)、辜寛敏の各氏に譲渡されている。1931年の株主総会の記録には、林熊徴、林熊祥、顔欽賢、陳啓峰、辜振甫などの各氏の名前が見られるが、慰安婦については触れていない。

 海峡交流基金会董事長で台湾セメント董事長の辜振甫氏はこれについて、自分の家族はいかに落ちぶれても天に背くことはしないと語った。また、福大という会社に家族が参加しているとは聞いたことがないと強調した。


 次に、林家の歴史的状況を示すことにする。これにより、日本政府に(台湾政府にも)多額の金銭を貸していたか、または、没収されたかが分かる。


表1.板橋林家の管理


年代    代表人備駐

1895年~1905年林維源この時期は緩衝期、林家全族これより先に福建に逃げる。日本政府の軍政時              期で日本政府にその分家産を没収される。但し、1897年5月8日以後、林家              は2人に本籍に加入。保住産業、この後、雙方都相安無事。

1906年~1937年林熊徴扶植林家時期

1938年~1945年林熊祥(曽祖父)利用興猜忌期


表2.林熊祥(曽祖父)對福建省借款一覧表


借款名稱     成立年月日借款額利息擔保昭和3年本利

福建省政府整理借款大正10.8.1日金   200万園日息4錢1.福建全省税、閩侯縣土酒捐及                                  竹崎、閩安、延平、水口各厘征                                  款之項収入提出作爲擔保

                                  2.大正11年8月6日追加擔保

                                  :水亭、上渡、閩琯、興代、東                                  沖、漳州、建寧各厘金局征款、                                  建甌、建陽兩縣什税、閩侯縣契                                  税、賈捐、菸酒捐

                                  3.大正15年11月23日追加擔                                   保、廈門、漳州兩厘金局収入                             4,171,269.64


福建省財政方借款大正10.8.21日金   30万園日息6錢1. 閩侯縣契税糧税

                                  2.上渡木植局、興化、閩琯厘金                                  局征款858,562.25

    同上大正11.1.25台伏 12万園月利 3分 東沖厘金局征款(1)                                      183,886.62

    同上大正11.4.15   12万月利 2分半煙草税、酒税                             381,585.71

    同上大正11.8.1台伏 4万園日息 10錢東沖厘金局征款                             170,694.93

    同上大正11.9.10台伏 24万園日息6錢1.金庫券20万園

                                  2.元年6厘公債10万園

                                  3.浦城、漳州、建寧、永厘4厘                                  金局雜税収入                                       809,022.47

福建省財政統一整理借款 大正10.10.6日金30万園日息5錢1.前項數入之餘額

                                  2.上渡、閩琯二厘金局征款                             519,590.80

     同上大正11.8.25台伏1万園  日息6錢福建銀行所有地、即中央分福州                                  分行29,688.64

          總和日金260万園

                   日金41万園     銀12万                        日金5,549,422.69

                   台伏1,193,292.66

                             銀381,585.71

 此款曾償還部分

 銀約等同台伏

 1元(7416銀)約爲日金0.7416元

 参考資料:台湾銀行および林熊祥關係の對省政府借款關係


 翡翠が林本源園邸に着くと、拝観料を払い中に入る。日は高く彼の負傷した体をじりじりと蝕む。観光者の列に並び進んでいくと、池のほとりに舞香達が談笑していた。

 そこに姿を現す。その冷酷な表情は彼の気持ちを量り知るのに充分であった。

 「あら、生きていたんだ。意外にしぶといのね」

 意外にも翡翠の生存に驚くことなく、その周女史の言葉に彼は睨みつけることで答える。

 「でも、いいじゃない。この林家、貴方の祖先の住居で死ぬことになるのだから、守護霊も本望じゃない?しかも、先祖の呪いでね」

 その舞香の言葉は、かつての彼女から想像することができなかった。これが彼女の本性なのだろうか?それとも、変わってしまったのだろうか。

 彼女は鞄から黄金の屋根飾りを取り出すと、それを翡翠に投げた。無意識に受け取った瞬間、背中に冷たいものが流れた。

 この地に住む先祖に守護してくれることを密かに願いつつ、翡翠は痛む体に鞭打って2人の前に威圧的に立ちはだかって言った。

 「全ては終わりだ」

 その言葉は何を意味しているのか、舞香達には分からなかった。

 すぐに、彼女達は周囲の雰囲気に気付き、冷や汗を流した。彼女達は自分の境遇に羨望したのではない。あの、仲のよかった仲間の中で、唯一(・・)生き残って(・・・・・)いる(・・)翡翠の命を羨んだのだ。

 先祖の呪いに加え、2人の親友の霊にさえ命を狙われる翡翠自身に、彼は嘆きを隠せなかった。2人は足音もなく近づいてくる。そして、手を伸ばそうとしたその時、呪文が辺りに響いた。

 彼女達はそれを聞くと苦しみ始める。その声の方を振り返ると、翡翠の瞳には劉金宏が写った。

 「俺は本当は霊媒師なんだ。君に憑いているのに気づき、密かに機会を窺っていたんだが、途中で見失ってね。危険な想いをさせて悪かった」

 日本人のような日本語の言葉使いで、20代前半の劉は、呪文を唱えながら手印を結んだ。すると、翡翠の親友達はそのまま苦しんで、煙のように消えていった。

 「あとは、闇美術品ブローカーだけど、それは警察に任せたよ」

 去ろうとする劉に翡翠は慌てて声をかけた。

「この屋根飾りの呪いは?」

 すると、彼は声を上げて笑った。

 「子孫を殺すような真似は、少なくとも台湾人ならしないから、安心してくれ。それにその呪いは君の祖先のせいじゃなく、彼女達の怨念から来るものだったのだし。林家の一族に呪いを残すほどの残留思念を残す性質の人間は存在しないさ」

 そう言い残して、霊能者、劉は去っていった。

 ベンチに座って、膝に屋根飾りを置くと、独りで呟いた。

 「何が悪かったのだろうか」

 先祖が建てた建物を見上げる。その入り口から観光客の中から、美玲が鋭い視線で現れて近付いてきた。そのまま、翡翠が黙って佇んでいると、その胸の中に飛び込んで泣き声交じりで囁いた。

「約束して。もう、危険なことをしないで」

 翡翠は美玲の頭を撫でて無言でそれに答えた。


 しばらく、ベンチで2人は黙って座っていた。その後、美玲から言葉を発した。

 「翡翠の先祖の家にいるんだよね。何か、信じられない」

 「過去の栄光か。虚しいね」

 林家のかつての栄光を物憂いに心に浮かべながら、その建物を2人で眺めていた。


 ここで、林家のことを述べた書籍から、その歴史やその功績などを紹介することにする。


 いまから70年ほど前、中国には「宗族」はあっても民族はなかった、と孫文は述べている。宗族とは祖先を共にする血縁集団で、家族をすこし大きくしたていどのものだった。  

 家族のために我が身をささげることはある。それをすこし広げて、宗族のために犠牲になる精神はあるが、それまでなのだ。それを一歩進めて、民族のためという気持ちをもたせようとするのが、孫文のいう民族主義である。

 宗族は血縁のグループだが、地縁のそれもある。同郷といっても親縁関係も含まれ、中国にあっては、とくに地方では宗族なみなのだ。こんなグループが「械闘」なる武力衝突をする。宗族では李姓のグループと張姓のそれとが、武器を手に争うようなもので、たいした理由もなしに死傷者を出している。

 台湾の住民は福建の泉州と漳州から来た人が多く、この両者がいたって仲が悪い。新荘市は、50年前は人口1万ほどのまちで、住民の大部分は泉州出身であった。淡水河をへだてた板橋というまちは漳州人のまちで、たえずトラブルをおこしていた。新荘に住んでいたと林本源いう大富豪は、住みづらくなって、むかいの板橋に居を移したほどである。

 トラブルといっても、たいてい死人が出るので、戦いは情熱を傾けてするのだ。その情熱をなぜ国のために捧げないのか。孫文の民族主義はそれを目指している。おそらくいまのバルカン半島に燃えている民族主義も、世界を視野に入れた運動にいずれつながるのではあるまいか


 一族の争い

 後に、一族で色々な問題が起こる。

 その中で日本の国会図書館にも所蔵されている一族同士の遺産争いの裁判の資料が存在している。その資料とは、『林本源各房各管合約二対スル各房ノ希望』『第三房林鶴寿・懐記 林娥生 契約書』『決議ヲ要スベキ事項』『和解条項承諾書』『裁定願』『覚書』(いずれも国会図書館所蔵)である。

 林熊祥(翡翠の曽祖父)の弁護士は日本人で鈴木三郎氏である。叔母の話では、妾の子と直系の子孫の争いらしい。

 内容、結果により、この裁判の全容を垣間見ることができるだろう。

 『第三房林鶴寿・懐記 林娥生 契約書』から、現代の日本語的に文章を変えて抜粋をしていくことにする。

 林本源の第3房代表者・林鶴寿、林本源の懐記代表者・林娥生、林允生との間に下記契約を締結。


 第1条:懐記號における土地にて従来、林鶴壽の業主名義となっている毎年収穫のある7千5百石の土地の中、6千石に相当する土地を挙げて代金12万園をもって、林本源第3房に譲与すること。

 第2条:前条の代金12万園の内、金3万園は己に受譲与者より、明治44年中に譲与者に交付済みをもって残金9万園の内金2万園は本年12月31日を限り相違なく交付すべきこと。

 第3条:その余りの残金7万園は明治46年より明治55年まで10箇所賦とれ毎年7月31日および、12月31日の両度において3千5百園宛相違なく交付すべきこと。

 第4条:懐記號の土地7千5百石の内、1千5百石は林本源第3房の所得となるにつき、明治43年11月21日以前、懐記號にある権利および義務は比例に応じて受譲与者たる林本源第3房において継承すべきこと。

 第5条:懐記號の有する大租権については明治42年および明治43年の両度において林本源第3房より譲与者たる懐記代表者に交付せる全5万園をもって一切第3房に買収済みのこと。

 第6条:本契約書成立後林本源第3房の取得する権利については各関係者において一切の故障を申し入れざること。


 上記確約候なり。

 明治45年2月吉日

 …住所のため略…

 林本源第3房代表者

 契約者 林鶴壽

 …住所のため略…

 懐記代表者

 契約者 林娥生

 同上

 契約者 林允生

 …住所のため略…

 號管理人

 立会人 林熊徴(翡翠の曾祖父、熊祥の兄で、子供のいない彼の父の兄にもらわれている)

 この契約には2通りを作り譲与者および被譲与者において1部ずつ所持する。

 林本源第3房の取得すべき土地は別冊に明記しこれを承認する。以上。


 この争いの2人の一族としての位置は、家計図で分かるが、説明すると平候の息子、國芳(源記)の息子(兄、國華より子供を譲り受けた)林維源の妾の子と國芳の友人より譲り受けた息子維得の息子、鶴壽である。

 複雑な関係であるが、簡単にいうと、従兄弟同士の争いである。


 林本源園邸の林家の歴史の詳細編

 インターネットのサイトで林家について調べた結果、詳細を見つけることができたので、それを紹介することにする。

 「台湾近代史の第一家族-板橋林家」


 有名な板橋林家ガーデンは、元は「林本源園邸」で称される。この「林本源」は台湾に渡来した林家の先祖、林應寅の家系の意味で、個人を示すものではない。板橋林本源家族の先祖は中国大理陸漳州龍溪籍 (今の福建省龍溪)で、西暦1778年に林応寅は台湾に渡来、新荘に住んでいた。林家の興起は林応寅の息子林平侯の代からである。


 少年時代の林平侯は米屋鄭谷家に雇われ、基層仕事をしていましたが、勤勉さゆえに雇い主であった鄭谷家の信頼を得て、資金を借り自分の事業を立ち上がり自立できるようになった。林平侯は深謀遠慮で知らされていて、事業の経営と共に商界で信用を築き上げ、 迅速に富を積み上げていった。資本が充実したのち、塩業、航海輸送業など台湾と大陸の間での貿易に参入、ただ数年で有名な豪商になりと同時に、政府に献金し広西柳州四品知府の官職を得た。台湾に帰った後は漳系泉系移民の武闘紛争が多い安全性を考えて新荘から大渓に移住、そして大渓の米業、茶業、樟脳業の発展をも促進した。


 林平侯は國棟、國仁、國華、國英、國芳五人の息子があったので、家業を飲、水、本、思、源の五系の屋号に分けて、5系の中に国華(本記)、国芳(源記)は本家に属する(養子ではない実子)、この両系は後で共に板橋に戻って豪宅を築く。國棟も本家に属したが、若くして死去。(これは前述を参照)世に「林本源」と称されていました。そのあと、林家は國華、國芳の経営で米、塩、運輸、樟脳、融資の事業以外に、淡水、桃園、宜蘭周辺で土地開墾をも行い、台湾一の富商になる基礎を得ました。


 林維源は林國華の息子であり、彼は林家の事業を最盛期に導き、台湾の現代化にも多大の貢献がありました。当時は台湾巡撫劉銘伝に原住民政策、税賦整理、土地測量、土地開拓などの政事に協力して、二品という官位を得ました。この時期で林家の重点事業は農業から商業に移転、政府の商業促進方針に合わせ、事業を拡大し続けて、ついに台湾一の富商になりました。


 5代目、爾康は民国の成立期にあたり、日清戦争のあと台湾は日本政府に渡り、この時期の林家は資産保全を前提に事業を経営していました。六代目林熊徴の代になったからは日本統治時代で政商界に活躍、もう一度林家を全盛期にし林本源製糖株式会社、華南銀行などの新式企業を立ち上がりました。海外投資にも大陸の漢冶萍鉄工廠、粵漢鉄路、漳廈鉄路、及び日本、南洋で多くの新事業に参加、政治面に関しても同盟会に加入し民国革命に力を貢献しました。


 今の林家は熊徴の兄弟にあたり、商業界で活躍し人材も輩出しています。林柏壽、林熊祥(曽祖父)、林衡道は台湾国内の有名人物であり、そして林熊徴の息子林明成は大永興業と華南銀行の董事長、台湾中央銀行の理事、そしてその他金融、物流など諸業界に渡り系列会社の董事長であります。林家「義利合一」信念のもとで、公益に熱心、文化教育事業に多くの関心を持っていて、林熊徴奨学金を拡大、そして大統領の慈湖・頭寮陵寢に計19ヘクタールの土地を(無償又は低価徴収で)提供しました。


 「積善之家,必有餘慶」(善事を行う人に福あれ)との諺とおり、林家は百年の間に繁盛し続けるのも、社会公益に貢献してきたのが大きな要因です。


 結局、日本統治までは、その成功・大富豪として豪族であったが、国民党侵略により、財産が没収、財産保有の余裕のなさより寄付、切り売りによりその栄華は没落の一途を辿ることになった。


 そして、林一族の行ってきた功業を紹介することにする。


 学校・幼稚園設立

 光緒33年(明治41年,1907年)林本源一族の林爾嘉、林彭壽、林鶴壽、林嵩壽,林熊徵等はさらに校舎を板橋の東北隅(現在の板橋の國小に所在)に寄付建築し、2月3日に施工始め、5月25日に落成して、その公学校は新築される。

 大きな碑に長い日下部東書的な文が書かれ建てられた。(支援者が碑を建てた)、碑は現在、板橋國小学校に存在する。

 民國17年(昭和2年,1928年)、林崇壽、林屐信は義塾「私立板橋幼稚園」を成立させる。光復後、幼稚園は一度閉園して、義熟は荒廃する。民國40年(1951年),台北縣内には孔子廟はないために、台北の孔子廟に孔子の位牌を戻す。

 民國49年(1960年)その時、板橋の鎮長、楊水は組織『大觀書社管理委員会』を発足させる。52年(1963年)正式に財団法人を登録する。林家の後代の林熊祥が初代から理事長に代わる。

民國56年(1967年) 地方の人士力、前板橋國小校長の朱驕陽先生は定年退職後、幼稚園を再び開園させて、翌年に遂に「大觀幼稚園」を創立させ、第1期園長に張阿聘が就任した。


 林本源に関する情報(台湾日日新報 1922.10.25)

 林本源製糖の甘蔗改良方法

 林本源製糖会社の蔗園面積は、従来4000余甲を下らず、収穫斤量は最も向上するに至らない。あるいは、一般的に年々減少の傾向を有し、これは独り同社のみならず各製糖業の通有とするところとなるが、同社はこれが原因として地力の消耗退化と栽培上の欠陥あるものと認めた。

 そして、あらかじめ研究中のところ今回その改良方法によって、従来、甲当り収穫斤量5万斤内外に過ぎないものが、15万斤以上の収量を得るものと見込した。

 したがって、蔗園の奨励する甲数も経済的に縮小し2500甲歩になっても充分だとし、13年期より実行する方針にて、14日の各農務係を集めて説明し続いて、蔗農家に対し腹蔵ない意見を交換して、その諒解を求めるが新改良方法の概要は次のようであった。


 1.地力の消耗を防ぎ、甲当収量を増加させるため、3年1作の甘蔗となす事。

 従来、一定の土地に蔗作を限定して、その大部分は2年で1作なるが年に相当の肥料を施用するのに拘らず、甲当収量は僅に45万斤に過ぎないのは地力の消耗に起因する。

 2.田は糊仔甘蔗に限る事。

 甘蔗作が早植に限ることは周知だが、従来、田の甘蔗は稲作の関係上、12月頃に至ざれば植付できる。しかし、昨年、糊仔甘蔗の方法を発見して、これを実験すると予想外の良成績を得ることができた。甲当の収穫斤量、15万以上になるのは勿論、耕作費において、稲作収穫後相当の整地をなして、植付をするものに比べて、約30円の節約をなすことになった。

 3.蔗作は前作物、田青犂込地に限る事。

 田青犂込地としない土地とは、甘蔗収穫斤量に於て甲当3万斤以上の差を生じ、しかも、田青のような緑肥を栽培することは、地力を維持する上において最も緊要である。

 4.蔗作地は田畑を通じて甲当収量、見込10万斤以上の土地に限る事。

 従来、奨励方針が面積本位に力を注ぎ土地の良否を選ばないが、結局、会社並に蔗作者の不利益を招来するものであるが故、その方針を打破すること。

 5.甘蔗収穫後、その枯葉を犂込むこと。

 豆類及び黄麻田青等栽培の跡は、例えこれを犂込まざる土地と雖も、蔗作その他耕作物に適するが、それ等のものの枯葉もしくは茎根をその儘犂込むは、所謂、還元法にして地力を消耗することなく、なお土地の風化作用を促すために、外ならず甘蔗作は従来、これ等の方法を行わないのみならず、地上に落たる少量の枯葉と雖も尽く。

 これを掻集めて燃料として、もしくは焼却するのは不合理あり、台湾にては北港製糖所区域内にて、両3年前よりこれが犂込を励行して、世界の糖業地たる布哇、玖馬におても、盛んに励行しているが、弊社はこの方針を貫徹するため、甘蔗刈り取り後、その枯葉を確実に犂込して、その後、更に田青を採種したる土地に対しては、糖分の内2年1作甘蔗の申し込みを受ける考えである。

 6.甲当の奨励金を全廃すること、善良である蔗作者の利益のために、従来のように甲当り奨励金制度を 全廃して、今後は甲当収穫斤量により奨励金を交付する。

 7.甘蔗の等級を甲当収穫斤量により定める方針。

 この方法による時は、熱心に蔗作者程、甲当収穫斤量増加すると共に、等級向上の利益を獲得する。

 8.耕作資金は千斤当たり、1円の割をもってする方針。

 従来の貸金方活は甲当をもって定めるも、今後は収穫見込により千斤に付1円の貸付をなす方針とすること。

 9.畑地申し込み期限は5月末に、田糊仔甘蔗は8月末限となす方針。

 従来の方法と違い、全ての点にその準備を要してなるべく早く申し込むこと。

大略以上のような方針の下に着手し、なお、収量適確なる台湾実生の第19号及びその他、最も優良なる品種を配付するものとする。


 林コレクションの中国書画

 林宗毅氏は、祖先楼閣の名称を冠した定静堂コレクションとして知られている中国書画の収集品を昭和58年に120点、平成2年には天皇御即位を祝寿され、さらに100点を選ばれて東京国立博物館に寄贈された。平成10年にご寄贈品をご寄託品とともに展示された。


 小南門(重煕門)

 小南門は愛國西路の最西端にあります。

 小南門の外形は他の台北城の城門と比べても全く違う形をしていました。他の4城門と異なり、秀麗さ、 親切さを感じられる外観はとても特別でした。また、城門の建設も特別でした。

 小南門は台北城南側城壁の西端に位置し、別名重煕門とも呼ばれていました。板橋の富豪、林本源家族の寄進により建設された。

 林家の本籍は福建漳州でした。当時の艋舺は泉州人の天下で、西門より台北城への出入りを行っていました。泉、漳人の移民間の争いは時には闘争とも言えるほどの規模になり、林氏は寄進を行い、小南門を建設し、この門より城内に入ることにしました。

 艋舺・西門経由または遠回りして南門経由で城内に入る必要が無くなったのです。その後、小南門は台北南西部の板橋、永和との交通の要所となりました。

 1900頃から、日本人により城壁と城門の取り壊しが始まりました。まず西門が壊されましたが、幸運にも当時の有識者との争いを経て、小南門とその他3門は壊されずにすみました。南側城壁は取り壊された後、3車線道路として整備され、現在の愛國西路となっています。


 戦前の金融・林本源家の関係している産業経済

 日本の台湾領有後から太平洋戦争までにおいて、台湾においてどんな企業が活躍し台湾産業にどのような影響を与えていたのか。

 まず、その前提としていかなる産業が台湾に存在していたかを見てみよう。台湾産業の中心は糖業である。糖業のほか台湾在来の主要産業としては製茶、樟脳、米がある。新興産業としてパイナップル・バナナなどがある。これらの産業にどのように企業がかかわり従事していたかを以下で見てみたい。

 この時期の台湾における企業の資本家の中心は日本系である。また台湾において成立し発展させられた資本家的企業のもっとも顕著な特徴としては、独占化があげられる。そしてそれは日本本土における資本独占の運動及び反映として、ならびに総督府の助力の下に、きわめて模範的に且つ温室的に行われたのである。

糖業についてみるに、新式製糖会社の資本金は合計2億6千1万円、払い込み額1,64,145,164,145,990円にして、台湾の株式会社全体の総資本563,300,000円、払い込み額321,986,381円に対し、約半分を占める(昭和元年末)。

 そして、台湾の耕地総面積約80万以上の中、製糖会社の原料採取区域に含まれるもの78万5千以上を占める。

 即ち、台湾高地のほとんど全部は庶作に関する限りすでに新式製糖会社の独占支配する区域となり、小規模なる旧式製糖はわずかに山間僻地に存在し得ることとなったのみならず、新たに製糖会社の設立させられるべき、原料採取区域の余地も存在しない。

 そして、甘藷(かんしょ)作付け総面積は約13万以上、また庶作農家戸数は約12万戸にして総戸数70万個に対して約1割6分、農家総戸数38万戸に対して約3割に当たる(大正14年)。 

 しかし、台湾庶作は3年輪作を要するがゆえに、順次庶作に当てられるべき耕地及び農家の総数は、この3倍を要するものとすれば、結局面積においては原料採取区域内耕地の約2分の1、戸数においては農家総戸数のほとんど全部が、新式製糖会社の下にたつものと見るべきである。

 即ち、台湾の総資本に関しても、耕地面積及び農家戸数に関しても、その甚だおおきな割合が新式製糖会社によって支配された。且つ台湾の外地及び内地への輸移出総価額(昭和元年)2億5千万円のうち砂糖は1億円を占める重要産業であり、そしてその総産糖高の9割8分は新式製糖場に属するのである。

以上によって新式製糖会社の台湾事業界において占める重要な勢力、及び糖業界に於けるその独占的地位を知るであろう。

 新式製糖会社は13社あったが‐台湾、新興、明治、大日本、東洋、塩水港、林本源、新高、帝国、台南、新竹、沙鹿の13社‐昭和2年このうち林本源は塩水港に、東洋は大日本に合併されたのをもってさらに2社減り、巨大な台湾製糖企業は11社に集中したのである。(昭和2年恐慌後台南製糖は整理されて、その代わり昭和製糖株式会社が設立された。)

 明治35年には、新式製糖会社は台南製糖1社のみで、その工場数は3百t能力のもの1、資本金は100万円に過ぎなかった。

 しかし、昭和3年6月末日には新式製糖会社数は11、許可工場数48、工場能力合計4万3千t、資本金総額は2億8千万円に達した。

 この巨大なる資本蓄積企業膨張の過程の中にあって、資本集積及び集中の発展は特に有力なる34の大会社に於いて著しくあった。

 台湾製糖のみにて資本金6千3百万円、工場数13、工場能力1万2千tを占める。

また、台湾、明治、大日本、塩水港、新高、帝国6社の資本合計は、266,916,600円にして、既述新式製糖会社総資本額の9割4分に当たり、工場数合計は40にして全体の8割3分、工場能力合計は38,620tにして全体の9割にあたる。

 これに対して残り5会社の占める勢力の軽微に過ぎないことは明白である。

 しかも、これを個々の会社によって見ないで、資本及び資金系統についてみるときは、昭和2年恐慌直後の糖界新分野における製糖工場能力は、三井系(台湾、沙鹿)約1万1千t、三菱系(明治、塩水港)約1万2千t、藤山系(大日本、新高)約1万t、台湾銀行系(昭和、台東、新興)約3千t、松方系(帝国)3千t、このほか台湾の地方的資本化による新竹製糖は560tである。

 即ち、対案の企業界においてもっとも重要な地位を占めた糖業は新式製糖会社の独占であり、それは結局見つ三井、三菱、藤山、台銀、松方の独占であり、そのなかで三井、三菱、藤山の3台資本が鼎立して糖界の4分の3を占めているのである。

 台湾における総会社資本の約半分、全耕地面積の半分、全農家戸数のほとんどすべては、大体この3大資本化の糖業資本による独占的支配の下に立っているのである。

 加えると緒製糖会社は明治43年10月以来台湾糖業連合会なるカルテルを組織し、生産額の制限及び各社間割り当て、製糖業にたいする原料糖供給の割り当て、販売価格の制限、義務的輸出の割り当てなどの協定により、市場を独占しカルテル価格を維持し利潤率を高いものにするよう努めた。

 このカルテル内部において各社間に競争が起こったのは、国家、消費者、ならびに農民労働者に対する糖業資本の独占の存在を防ぐものではなくかえってこの競争によってカルテルないにおける有力会社への生産及び資本集中を活発化させ、その結果はカルテルの独占的地位を一層強大なものにした。

 独占は資本の集積および集中によってなる。即ち、新式製糖会社はあるいは自ら工場庶園などの新規増設により、あるいは改良糖部もしくは他の新式製糖会社の合併買収によって、その事業を拡張する。

 これら工場または事業の増設もしくは買収は一時に巨額の出資を必要とするがゆえに、資本的に有力なる会社が最もよく企業集中を実行し得る。そして資金供給者が事業を支配するいたる傾向もまた、企業集中の公式的必然である。

 この金融資本の支配的地位は台湾糖業についても明瞭に看られる。内地における最大の金融資本家である三井三菱は、その理由により台湾糖業においてもまた日糖と並んで覇者的地位を占める。

 また、台湾銀行が台東製糖および昭和製糖(昨年台南製糖を整理して設立した)の経営にあたったのは資金関係に起因したものである。要するに台湾糖業を独占的に支配するものはわが国金融資本家である。今や台湾糖業はわが国金融資本主義の一部である。従がってそれは金融資本的段階にまで発展するものである。

企業集中はただ同一生産段階の、例えば工場とか農場とかの、単純企業形態的拡張に止まらず、多くはまた各生産段階を通じた混合企業形態において行われる。

 そして、糖業は農業部門と工業部門との結合を要することもっとも顕著な産業なるがゆえに、混合企業形態の均衡的発展はその企業の安全利潤の増大のため絶対的必要な条件にして、有力製糖会社が所有庶園を拡張しようと努めるのは当然である。台湾糖業における混合企業形態は最も典型的であって、農業方面即ち原料甘藷の生産に関しては土地所有、庶園自営、肥料製造、開墾による庶園拡張を図る。

 次の原料甘藷、材料、製品及び従業員などの運送に関しては自ら鉄道軌道を敷設し、かねて一般運送営業に従事する。(台湾の鉄道は幹線が官線であるが、地方的鉄道及び軌道はほとんど製糖会社の社線である)また、第1次大戦後の船賃暴騰の際に、帝国、塩水港、及び台湾製糖の3社は汽船を買いいれて自社用運送及び一般海運業を兼営した。

 次に、糖業部門においては中心である分蜜糖製造のほかに、台湾における耕地白糖および瓜畦糖再製の設備ならびに内地における製糖工場の自営によって、粗糖より精糖への技術的及び経済的連合を有利にし、且つ副産物として廃糖蜜を原料とする酒精工場を作る。次に製品の内外販売に関しては、同一資本系統または資金関係を有する商事会社の手に属する。(例えば台湾製糖は三井物産に、明治製糖の海岸販路は三菱商事に、その内地販路は自己の直系会社である明治商店に。破綻前の鈴木商店はその支配化に属していた塩水港製糖東洋製糖の販売権を有した。また大日本精糖の販売権は自営である)

 さらに砂糖製品について、塩水港製糖は氷当工場を有し、又台湾製糖は森永製菓株式会社の大株主として、明治製糖は明治製菓株式会社の親会社として、製菓業を支配する。以上の様に原料甘藷栽培のための開墾事業より始まって、庶作、製糖、運送、販売、及び生産的消費(成果)等にいたるまで、糖業資本は広範なる全技術的及び経済的過程によって混合企業形態を支配する。

 各会社の事業がすべてこの全過程に通じているわけではないが、糖業資本全体として見れば完全なる混合企業形態的支配であり、そして有力会社ほど実際これに基づいて獲得する企業集中及び独占の範囲は広く基礎は硬いのである。例えば開墾地で石を拾う高砂族の老幼より、庶園および工場の本島人農民及び労働者、製糖工場の内地人職工、森永喫茶店の清楚なウェートレスにいたるまで、台湾製糖の、従がって、三井の、一括して支配する一連環である。

 他会社はこれに準ずる。独占資本の社会的勢力はまことに広汎であり強大である。

かくて三井三菱及び日糖の3社は台湾糖業の独占者となった。しかし内地大資本化の台湾に対する進出は下より糖業に止まらないのである。

 台湾における企業家にしてその歴史も古く事業範囲の大なるは三井である。

領台後まもなく三井物産は糖商として率先して外国商会を駆逐しこれを圧倒し、またまた三井物産を最大の株主とする台湾製糖会社が新式製糖会社の先陣として設立された。このほか、明治40年頃より茶輸出業にも進出して外国商と争い、近年ウーロン茶輸出数量の2割6分は三井物産の取扱に属する。そして三井合名会社は大正6,7年ごろより新竹州番地の予約開墾払い下げ貸下げを受けて2,434以上の近代的エステートである大茶園及びこれが中心である大工場の建設に従事し近年製茶が開始するに至った。

 その完成は昭和12年であったが、これは茶生産の資本家的企業化、しかも合理的な混合企業形態の建設に他ならない。

 その製品の規格統一及び大量供給の可能によって、リプトン紅茶に圧倒された台湾ウーロン茶の販路を回復するとともに、同一資本系統に属する三井物産の茶貿易における勢力を増進し、かくて茶生産及び貿易においても三井系資本は独占的支配の地位を獲得した。

 また、米貿易についても三井物産の勢力著しく増進し、専売局関係でも阿片原料及び外国煙草の輸入はほとんど三井物産の独占であり、樟脳販売も明治41年より大正七年日本樟脳株式会社設立に至るまでの間は三井物産の独占であった。

 工業に関しても石炭総産額の4割5分は三井系の経営する基隆炭黄および台陽工業の両者で占め、総出炭高の6割は三井物産が販売権を有する。

 台湾2金山のうち一つの瑞芳金山も大正9年以来台陽工業株式会社の手にありしたがって台陽工業が大正14年以来三井系の基隆炭黄株式会社に経営一切を委託するに伴い、瑞芳金山も三井系になったのである。

このほか、三井合名は台湾電力株式会社の大株主であり、三井の資本が台湾主要産業の各方面にわたって広汎なる生産及び貿易上の独占的地位を掌握していた。

 三菱の台湾に対する進出は比較的後のこととして、その範囲も到底三井の比ではない。明治製糖株式会社は明治39年11月主として三菱合資会社の出資により設立されたものであったが、このほか三菱系の事業として見るものは多くはない。

 かの有名となった竹林事件は明治41年三菱製紙株式会社事業計画に端を発したものであって、林内製紙所は明治44年作業を開始したが、生竹を原料とする竹紙製造は技術的に成功せずまもなく大正3年に工場閉鎖のやむなきにいたり、ただその竹林造林地1万5千以上は大正4年に予約払い下げの許可を受け大正4年にいたり確実に三菱の所有権になった。

 その後、三菱はパイナップル栽培に注目して台南州斗6郡2,300以上の土地を買収し、缶詰工場建設を計画したのであった。

 台湾はパイナップル栽培に適し、その敵地は67,000以上を有していた。

 よって、その後三菱が農場工場兼営の資本家的企業を設立することにより、北部三井の茶園に対して南部は三菱のパイナップル園が持つようになった。

 三井三菱は内地において蓄積した資本を以って台湾に進出したものであるが、鈴木商店はこれに反し台湾を基礎とし出発点としてその巨大なる資本蓄積事業拡張をとげた。

 即ち、合名会社鈴木商店は資本金50万円をもって明治35年に設立され、台湾の事業の根城を据えて砂糖および樟脳に手をつけたのを始めとして、昭和2年破綻当時には直系及び放資会社60有余、その資本金総額5億円に達した。

 東洋製糖はその直径子会社であり、塩水港製糖もまた鈴木を大株主とした。この2会社及び林本源製糖の販売権もまたほとんど鈴木の独占であった。

 樟脳に関しては専売局工場とともに再製樟脳製造を独占とする再製樟脳株式会社、ならびに精製樟脳の製造および粗製精製樟脳の委託販売を独占する日本樟脳株式会社は鈴木の直系であり、樟脳製造の副産物である赤白油および芳油の委託販売もまた独占的に鈴木商店に与えられていた。

 以上述べられたところで、結局、第一には台湾の代表的産業たる糖業が三井三菱藤山鈴木等の大資本家によって独占されたこと、第2にはこれらの大資本家による独占はただ糖業に止まらず、台湾全産業に及ぶこと、第3にはこれら大資本家はただ台湾においてのみならず、日本全国的独占勢力であったこと、を見ることができる。

 即ち、台湾における独占的資本は帝国的独占資本の一部であるのは事実である。

 それは、ただ台湾に関する地方的独占に止まらないで帝国的独占の一連環である。資本家的活動の出発点が三井三菱のように内地にあったのと、鈴木のように台湾にあったのとは問題ではない。

 内地資本が台湾の資本家的企業を独占化し、これを独占化することによって自己の帝国的独占の地位を進めた。鈴木商店の没落は台湾企業界の独占状態にさらに一歩を進め、同時に帝国的独占資本の地位を一段と進歩させたものである。


                    エピローグ

 翡翠は独り、線路の上を歩いていた。手には色とりどりの花束を抱いて。その線路から微妙に振動が聞こえる。徐々に遠くから列車の走ってくる空気が漂ってきて、彼の背中に風が吹き抜けていった。列車が迫り徐々に彼の人影を確認して警笛を鳴らす。それでも、翡翠はマイペースでゆっくりと線路の右のレールを綱渡りのように歩く。平渓鐡路という線路で平渓と瑞芳の駅を結んでいた。

 列車がブレーキをかけようとした瞬間、彼はレールから降りて左に向かっていった。列車の軌道から逸れた翡翠は、ある入り口に向かって進んでいった。そこは巨大な滝が有名な公園。昔はもっと別の大通りに近いところに道があったが、その道が剥離し易い地層のために崖崩れで川に落下し、車も通れない細い道、それも途中で線路の上を歩かないといけないところに入り口を移設したのだ。

 その大きな滝つぼの一番見えるところまで行き、手摺りに肘をかけて滝の飛沫を微かに浴びていた。遠くから日本の曲のようなものが、かろうじて聞こえてくる。

 しばらく、物思いに耽っていた翡翠は、やがて抱えていた花束を大きく滝に向かって力強く投げ込んだ。彼にはその(あだ)(ばな)はスローモーションとなって水面に向かって舞っていくように見えた。

 ふと、翡翠は振り返った。と同時に驚愕の表情で彼は固まった。

 彼の目の前には、美玲が立っていた。

 「明日、帰ってしまうの?」

 その質問に翡翠は無言で頷いた。

 「帰らないで、私とずっと一緒にいて」

 「一緒にいたいなら、君が来ればいい。待っているからさ」

 その言葉に中華的な考え方の美玲は、目からうろこが落ちたように呆然とした。そして、数分後に頷いた。

 2人は巨大に大量な水を落としている滝を眺めながら、美玲の手を握りながら、ふと、翡翠は1こと呟いた。

 「そう言えば、舞香達が僕らを狙っていたのは分かるけど、台湾で起こっている林家の屋根飾りの呪いは、全て彼女達のせいだったのかな?」

 その答えはやがて、彼らの前に訪れることになる。

             

                   完


参考資料

 台湾の植民の歴史から解放まで

時代     年     出 来 事

未開拓時代 8世紀初頭中国大陸の漢民族が台湾の偵察征略を試みる。

      1360年 中国大陸の元王朝は澎湖島に巡検司を設置⇒福建省同安県に隷属                   させた。

      1593年     日本の豊臣秀吉が使者を台湾に派遣し、台湾を支配しようと試み                   た。

ヨーロッパ台湾の発見 16世紀  大航海時代に日本に向かう途中でポルトガル人によって台湾発                    見。

                   ポルトガル人は美しい島国の台湾を、イラ・フォルモサ(Ilha                    Formosa)、麗しの島」と呼んだ。

オランダ・スペインに                                      よる開拓統治時代 1622年 オランダは澎湖島を占拠。

      1624年 オランダは南部台湾を占拠した。オランダはジャワから日本等へ                   の中継地点として利用した。

                   また、オランダは台湾でサトウキビの栽培を始めた。

      1626年 スペインは台湾の基隆、淡水を占拠した。

                   スペインはフィリピンから日本等への中継地点として利用した。

      1642年 スペインはオランダの攻撃によって台湾から退却した。

鄭成功による漢人に                                       よる台湾占拠 1628年 鄭芝龍は明王朝より、清と戦うよう依頼されて兵力と資金をもら                   い、戦略の一つとして、自らの拠点である台湾西海岸を強化する                   ことを決め、大陸から台湾に、数万人の移民を渡海させるよう仕                   向け、開拓を進めた。彼らが「本省人」の祖先となった。

      1662年 清朝との戦いに負けた明朝の鄭成功(鄭芝龍の息子)は台湾へ逃                   げた。そして、オランダを追放。

                   鄭成功は台湾を明朝の国とし、清朝への戦いの拠点とした。

      1683年 鄭成功の死亡後、台湾の明朝は清朝によって滅ぼされた。

清朝の支配     1684年 台湾は清朝の福建省に隷属された。

                   清朝は現在の台南市に台湾府を置いた。

                   これ以降、清朝は200年の間、台湾を支配したが、清朝自身は                   台湾を積極的に開拓しようとしなかった。

                   しかし、大陸の福建省や広東省からの移民が激増し、彼らは台湾                   の南部から北部へと土地を開拓した。

                   結局、山岳原住民に惨敗、3分の1しか支配できなかった。

日本の支配1871年   牡丹社事件発生。日本公使との交渉に臨んだ清国政府は、「台湾                   東南部の生蕃(清国に反抗する台湾原住民)は化外の地の民であ                   るため、その所業の責任を負うことはできない」と回答した。つ                   まり、台湾問題には清国は我関せずの態度であったのだ。

                   公使は「ならば、彼らの凶悪を懲罰し文明の征伐を図ることは開                   化政府の当然の義務である」と言い残して引き揚げた。

                   同年4月、西郷は谷干城陸軍少佐や赤松則良海軍少将らを始め、                   軍艦5隻、船舶13隻、兵員3600名を率いて台湾へ赴いた。

      1894年 朝鮮での内乱をきっかけに、日清戦争が勃発した。

      1895年 日清戦争は日本の勝利で終結し、下関条約が結ばれ、清国が台湾                   を日本に割譲した。

                   日本は当初、台湾を武力によって支配していた。

                   しかし、その後は台湾の産業インフラの整備、日本式の教育施設                   の導入、産業の工業化等に力を入れた。

      1899年 台湾銀行が開業された。

      1900年 台湾製糖が創立された。

      1908年 台湾縦貫鉄道が開通した。

        1911年 中国の四川省で辛亥革命が勃発した。

      1912年 「中国革命の父」といわれる孫文は、中国の南京で臨時大統領と                   なり、中華民国(THE REPUBLIC OF CHINA)の成立を宣言し                   た。

                   中華民国は、政治腐敗した清朝に代わり、三民主義(中国人の主                   権の回復、人民主権による共和国の樹立、民衆の生活の安定)を                   目指した。

                   台湾では、1912年を中華民国元年と称し、一般的には民国元                   年と記している。

      1923年 皇太子(後の昭和天皇)が台湾を視察された。

      1943年     6年制義務教育が実施された。

      1944年 徴兵制が実施された。

      1945年 第二次世界大戦が終了した。

                   日本は戦争に負け、ポツダム宣言を受諾し、台湾及び付属諸島の                   所有権を放棄した。

                   国民党政府は、日本に代わり台湾の実権を握った。

国民党の支配 1947年    228事件が勃発した。

                  2月28日、国民党政府は台湾の独立運動を押さえるために、11                  万人もの台湾人を虐殺した。

      1949年    中国共産党との内戦によって中国大陸を追われた国民党は、蒋介石                  総統とともに、台湾に亡命した。

                  中国では、中国共産党の中華人民共和国が成立し、毛沢東が主席に                  就任した。

                  国民党は、鄭成功の時のように、台湾を反共産党の拠点とした。

                  この時に台湾に逃れた人々を外省人、それ以前から台湾に住んでい                  た人々を内省人という。

                  台湾全土に戒厳令(戦争時や国の事変に際し、平時の法を停止し                   て、行政権・司法権の行使を軍司令官に委ねる事)が実施された。

      1953年    台湾の第1期経済建設計画が始まった。

      1958年 国民党は金門島と馬祖島を占拠し、中国軍と砲撃戦を交えた。

      1960年 台湾横断公路(台湾島東西横断道路)が開通した。

      1966年 高雄を国内特別経済区域に指定した。

      1967年 台北市が行政院の直轄市になった。

      1970年 台中・楠梓を国内特別経済区域に指定した。

国際的孤立化 1971年    対立する大陸の中華人民共和国に国連代表権が与えられたため、中                   華民国としての台湾は国連から脱退した。

      1973年 日本との国交を断交をした。

      1975年 蒋介石総統が死去した。

      1976年 毛沢東党主席が死去した。

                   商用での海外渡航が自由化された。

      1979年 米中国交が樹立した。同時に、アメリカは台湾との国交を断交し                   た。

                   海外観光旅行が自由化された。

      1980年    「新竹科学工業園区」が開始された。

                   台湾はIMF、世界銀行から脱退した。

民主化の波 1985年 アメリカのレーガン米大統領が台湾の民主化を勧告した。

      1986年 民主進歩党(民進党)が野党として結成された。

                   民進党は戒厳令の廃止を唱えた。

      1987年 戒厳令が解除された。

                   変動相場制でない台湾ドルは大幅に切り上げられ、台湾輸出製品                   の競争力が一時弱まった。

      1988年 蒋介石の息子である蒋経国しょうけいこく総統が死去した。

                   続く国民党主席には、李登輝りとうき氏が選ばれた。台湾史                   上、初めての台湾人総統である。

                  「報禁」⇒報道の自由が解除された。

      1990年 李登輝総統は再選された。

                   タイ・フィリピン・インドネシア・マレーシアからの労働者受け                   入れを始めた。

      1991年 台湾のインターネット接続が始まった。

      1993年 日本語放送が全面解禁になった。

国家としての活動 1994年 李登輝総統は東南アジアを非公式に訪問した。

      1995年 李登輝総統はアメリカを訪問した。

ゆれ動く台湾  1996年   2月、中国は台湾に向けての軍事演習によるミサイル攻撃を行っ                   た。(3月の民選的な総統直接選挙を牽制するため)

                   3月、李登輝は台湾初の民選総統として総統に再就任した。

                   この間の中台関係の緊張が影響し、台湾経済は一時後退した。

      1997年 7月、香港が中国に返還された後、中国の江沢民国家主席は、一                   国二制度による中台(中国・台湾)統一を望むと演説した。

                   それに対し、台湾側は対中投資の監視を強化し、牽制した。

      1998年 6月、クリントン大統領は、上海で中国側提示の、アメリカ政府                   の対台湾政策に対する「三つのノー」(1.台湾独立への不支持                   2.『一つの中国・一つの台湾』もしくは『 二つの中国』への                   不支持 3.台湾による国家名義での国際組織加盟への不支持)                   を基本的に容認した。

                   11月、李登輝は台北市の市長選挙の馬英九(大陸出身、与党国                   民党)の応援演説で、「数百年前だろうが、数十年前だろうが、                   台湾に渡ってきた人はみんな新台湾人だ。台湾人はもうすでに過                   去の悲しみと別れを告げた。これからはみんな21世紀に向かっ                   て、この土地で生きるものとして力を合わせて頑張ろう。」等と                   述べ、新台湾人論を論じ、反響を得た。

      1999年 6月、李登輝は、著書『台湾の主張』(PHP研究所)で、「台                   湾の民主はすでに制度が確立され、台湾の民主主義はポスト李に                   おいても継続して実践されるだろう。」「新台湾人が選ぶ指導者                   は新台湾人を基礎とし、新時代を切り拓く人でなければならな                    い。」等と述べ、台湾の現代史と今後の台湾の進路を論じ、国内                   外から注目を浴びた。

                   7月、李登輝はドイツのマスコミとのインタビューにおいて、中                   国との両岸関係を「特殊な国と国との関係」と述べ、中台関係に                   緊張が走り、国際的に大きな波紋を呼んだ。

                   9月21日未明、台湾中部大地震(M7.7規模の直下型大地                    震)が発生した。死者2399人、負傷者1万人の大惨事となっ                   た。

      2000年 3月18日、李登輝の後の、台湾の指導者を選ぶ総統選挙の投開票                   が行われ、台湾生まれで台湾育ちの本省人である、民進党の陳水                   扁(49)が、初当選を果たした。

                   中国政府は、陳氏を台湾独立派ととらえ、独立は許さない姿勢を                   表明した。

      2004年 総統選挙に僅差で陳水扁再選。台湾人にアイデンティティの高揚                   を与える。


 参考資料

 228事件の真相:李筱峰 著・蕭錦文 譯

 台湾は日本人が作った(大和魂への『恩』中華思想への『怨』):黄文雄

 東洋神名事典:山北篤 監修

 台湾の歴史散歩:山口修 著

 遊園戯夢(林本源園邸賞園手冊)

 台北228記念館パンフレット

 台湾歴史散歩

 TAIWAN TIMES

 その他の林本源園邸・林家に関するサイト     


色々、林家や台湾について勉強になったと思います。

もし、もっと知りたいと思いましたら、色々調べてみて下さいね。

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