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神の国のシャングリ・ラ  作者: 海野
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第一話 その二

今回もお読みいただきありがとうございます。前回に引き続き、エージェント・コンウェイのお話です。




 上海から北京への鉄道も、日本が敷設したものだ。日本は一〇〇〇年以上前から、中国大陸東北部及び黄河流域東部を実質的に領有し、同地の開発を行ってきた。共同租界のある上海と北京を結ぶ一三〇〇(キロ)の大陸縦断鉄道は、片道たった一日で目的地へと到着する。


 北京から大日本帝国満州開発公社の本社がある浜京までは、いったん瀋陽を経由し南満州鉄道へ乗り換える必要があった。この辺りで外国人は登録を受けることになるため、私の新しい偽名が日の目を見ることになる。そこから約四時間で浜京へ至ると、とうとう私は文明の利器たる鉄道と別れを告げ、数日かけて徒歩あるいは騎馬にて極東ロシアへ潜入しなくてはならなくなる。


 極東ロシアには、日本軍の新兵器実験場があるという噂があった。


 本国には平地が少ないという日本にとって、広大な無人の原野を有するシベリアは格好の庭――というわけだ。

 そしてその原野を管轄する極東ロシア開発公社は石炭採掘を主な業務としており、その優先的輸出を条件にロシア帝国と蜜月関係を築いていた。三度にわたる日英戦争でも、ロシアは日本側に回ってアフガニスタンをかすめ取っていった。


 ヨーロッパ諸国の中でも、最も早く日本と直接的な接触を果たしたのがロシアだった。極東ロシア開発を公認するネルチンスク条約によって、大日本帝国はロシア帝国内部に租借地を得ることに成功した。以来数百年間、ロシアは日本と戦火を交えていない。


「おはようございます。エージェント・コンウェイ」


 なるほど神経質そうな青年だと私は思った。出迎えに上がったというマリンソン少尉は、変装用の薄汚い服に身を包みながらも、整然とした敬礼を行っていた。私が返礼すると間もなく「それでは」と話題に入ろうとする。


「マリンソン少尉」


 という私の呼びかけに、マリンソンの青い目が怪訝そうにゆがんだ。なんでしょう、と地図を取り出しながら聞く青年将校には、とても和やかな自己紹介など求めようもなく、私は「なんでもない」と続ける。


「……では。我々長距離偵察部隊の偵察行動は、既に何らかの事件があったとみられるヤクーツク近郊へと伸びています。コンウェイさんの情報通りであれば、恐らく日本軍は既に数個連隊規模で同地に展開しているはずです。この森林ですから、日本軍は例の鉄の陸亀(アイアン・トータス)を使用しているわけではなく、主に回転翼機による哨戒を繰り返しています」


「回転翼機による哨戒? ということは、向こうの空軍は反乱へ加担しているわけではないんだな」

「そうです。いえ、それだけではなく」


 マリンソンは作戦地図を私に預けると、そりなりの大きさがあるサックパックから今度は数葉の写真を取り出す。そこに写っていたのは、日本軍の兵士が数人でまとまって行動している姿だった。


「軽装だ」

「そうです。彼らの部隊の行動を捕捉していましたが、今のところ一度も戦闘は起こっていない。――これを見てください」


 マリンソンが一番上にした写真には、軍属の医師が負傷した人間を治療している様子が写し込まれている。野戦病院だろうか、そこにはほかにもそのような負傷者がかなりの大人数運び込まれていた。


「戦闘がないのに、死傷者は増えているのです」

「そりゃまた、なんででしょうな」


 私は説明を聞く一方、話をする青年の様子を観察していた。とても外地での偵察任務に従事しているとは思えないほど生白い肌は、英国人と言うよりむしろウラル以西のロシア人といった風貌にも思えた。神経質なのは決して顔だけではなく、彼の一挙手一投足にその性質が表れている。マリンソンはそんな私の視線に気が付くわけでもなく、写真を指差しながら熱心に説明を続ける。


「彼らは、何らかの災害のために派遣されたのではないか、というのが我々が出している結論です」

「災害? 地震の類か」

「それも違うのではないでしょうか。猛烈な被害をもたらすほどの地震は観測されていませんし、一部の人間は事件当初に、連続する爆発音を聞いています」

「じゃあ、何故……」

「それを調べるのが、我々と、あなたの任務です」


 この青年のこういうところは好きになれないな、と私は独り前途の多難さを思いやった。





 極東ロシアへの侵入ルートは限られている。街道という街道は、既に開発公社麾下の外地軍が封鎖しており、彼らの持つ『神の目』がその周辺までをも丸裸にしてしまっている。ここへ到着する前に仕入れた情報によると、既に中華公社から極東ロシア公社への物資搬入ルートにも厳重な検問が敷設され、とても忍び込めるような状況ではないという。


 ゆえに、大興安嶺山脈のふもとまで出迎えに来たマリンソンは、最も厳しいルートを選択せざるを得なかった。走破には十日以上かかる悪路を、たった五日程度で抜けたというマリンソンの健脚ぶりには全く驚くばかりだが、そう言った私に対して、


「いえ、別に歩きではありません」

「では何を使ってここまで」

「これです」


 彼は履いているズボンをめくると、そこには灰色をした脈打つなにかが、太い脚のそこかしこに張り付けられていた。日本軍が使用していた人工筋繊維。おそらくは日英戦争時に鹵獲されたものだ。


「コンウェイさんの分も用意されています。これを」


 なんでも入っているサックパックから、今度は灰色の筋繊維が取り出される。偵察部隊時代、私も履いたことのあるこの装備は、生温かい筋繊維が非常に気色悪いと仲間の間でも不評だった。


 意を決して筋繊維を脚に張り付けて行くと、あの生温かい感触が途端に襲ってくる。私の動きへ対応するため、断続的に電流が私の身体へ流され、勝手に脚が細かく震えだす。


「これで五日に短縮したのか」

「今時着けていない偵察要員の方が少ないぐらいですよ」


 普通のイギリス軍兵士にグルカ兵並の身体能力を付与する、という灰色の脚(グレイ・フット)の謳い文句は、決して誇張表現ではない。むしろ、あえて人々にも分かる程度の表現に留めた、とも言える。


「今が夏でよかった」


 マリンソンが不意に口を開いたが、それを聞き取るにはかなり集中力を要した。グレイ・フットの快速で駆け抜けていくと、会話をするにも強風が邪魔をする。タイガの密集する樹木をすり抜けつつ走っていくのは、なかなか肝の冷える体験だろう。


「川は増水しているようだが」


 ロシアにも、夏はきちんと存在している。ただそれは、低緯度地域のそれと比べるといささか短い。その短い季節の間に永久凍土の雪は解け出し、大地を流れる河川を増水させる。


「極寒の中でこの疾走をする気にはなりません」

「なるほど」


 腐敗の遅い落葉の絨毯は、柔らかい感触で衝撃を吸収してしまう。一歩一歩のストライドが広がるグレイ・フットの歩法では、そのたびに枯葉が巻き上がった。


「あのあたり、見えますか」

「獣道か」


 マリンソンが指差す先には、近くの茂みが割れているのが見える。


「恐らく、アムールトラかと」

「虎……」

「ヒグマかもしれません」

「ヒグマ……!」


 やはり人の住むような土地ではない。私はその思いを強くして、しきりに周囲をよく見回し始めた。青々とした広葉樹――案外、針葉樹よりも広葉樹の方が多いのだが――が葉をいっぱいに広げている。私はよく目を凝らし、その間からヒグマが顔を出してこないか見張りながら足を運ぶ。


「コンウェイさん、よく前を見て走ってください」


 幹の太いカバノキをすんでのところでかわしながら、マリンソンが叫ぶ。その言葉にあわててステップを踏んだ私は、そこで初めて目前まで木の枝が迫っていたことを知る。冷汗が額に噴きだし、夏の蒸した風がそれを拭う。


 こんな旅がいつまで続くのか――私は気の遠くなる思いで先行する背中を見やる。コートをはためかせながら進んでいく青年は、少しも前進を緩める気配を見せない。


 私のため息は、後ろへ流れていく風の中に消えた。





 日中の温かさが一変、陽の落ちたシベリアは異様な涼しさ――寒さ、ととらえる人もいるだろう――に覆われる。本気で凍死を心配している私をよそに、マリンソンは落葉をかき分け始めていた。


「ベッドを作りましょう。少々匂いますが、腐葉土は温かいですから」


 どうにか寝床は確保できたわけだが、火を起こすわけにはいかない。既にここは、日本軍の捜索範囲の内側に入っている。


 マリンソンは冷えた食事の間、とうとう一言も口を利くことはなかった。場を盛り上げようとする私の冗談にも、彼は気付いているのか否か怪しい返答を繰り返すにとどまった。この青年が、どうして秘密諜報部の花形である対人任務の多い工作員にならなかったのか、私はその理由を悟った。


 夕食もそこそこに腐葉土のベッドへ潜り込むと、急に周囲の樹木のシルエットが大きくなったように思えた。野放図に伸びた枝が無造作に夜空を侵食し、星々の瞬きの間に割り込んでいる。星の明るさはロンドンや上海のそれとは比べ物にならない、人工光の手垢がついていない夜空が広がっていた。


 ヤクーツクはもう近いはずだったが、その灯りは夜空まで届いていないのだろうか。


「僕は不寝番に付きます。何かあったら知らせますので」



 ――それから私が眠っていられたのは、ほんの二、三時間ほどにすぎない。


「起きてください! エージェント・コンウェイ! 大変なんです」


 珍しく動揺した面持ちのマリンソンが私を荒っぽく起こし、熟睡していた私は心底不愉快そうに目を抉じ開けた。マリンソンは私が起き上がるのも待たずに、危急を全身で表現しながら矢継ぎ早に言った。


「い、いるんです。そこに! 半裸の、死んでしまう! いえ、死んでいるかもしれない!」

「……落ち着け、マリンソン少尉。なんだ……日本軍に見つかったわけじゃないんだな?」


 それどころではありません、とマリンソンが指を差す先には、白色をしたなにかが転がっている。目をこすりながらでは、星明りでほのかに照らされるそれが何なのか、判別がつかない。ランタンに火を入れた少尉がそれに近づいていくにつれ、白色の正体が徐々にはっきりと、私の頭にも理解できるようになる。


「人……?」

「子供が、すぐそこで倒れていたんです。しかも血を流しています」


 ランタンの灯りが、少年――歳は、十四、五ぐらいであろうか――の白い顔を浮かび上がらせる。顔立ちは、おそらくウラル以東の先住民だろうか、モンゴロイドであることは間違いない。


 肌とは対照的に黒い髪や、両目の間から優美に伸びてくる鼻、今は色を失っているが形の良い唇――と、目覚めたら美少年であることは疑いようもない。頬に点々と残っている赤い点は、恐らくマリンソンの言う通り血だろう。


「まずは心音を聞け、少尉」

「は、はい」おそるおそるマリンソンが少年の胸に耳を当てがった。しばらくの沈黙の後、きつく寄せられていた眉根が跳ねる。「あ、あります。生きてる……!」

「よし、なら手当てをしよう。血は、どのあたりに傷がある?」


 慎重な手つきで少年を抱き起した陸軍少尉の掌に、血が移っている。慌てて背中を探ったマリンソンは、訝しそうにつぶやいた。


「な、ない……」

「何?」動揺しているマリンソンでは信頼がおけない。私はランタンを持って彼に近づき、その手から少年の白い肢体を預かり受ける。「そんなわけがあるか」


 少年の身体は、思った以上に軽かった。本当に中身が入っているのか怪しいとさえ感じられるほど、その生命の重量は軽い。背中を上に向けると、そこには痛々しい生傷が――ない。本当に、なんの創傷も存在していない。ただ赤い血だけが、ほんの少し表皮に残されている。


「おいおい……」


 どうなってるんだ、なんだ、これは。

 顔を見合わせた私たちの間を、肌寒い風が吹き抜けていく。それは、夏にしてはやはり涼しすぎるシベリアの風だった。



次回は三川たちの視点に戻る予定です。果たして少年の正体とは。

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