第一話 その一
今回はもう一人の主人公である大英帝国のスパイが登場します。
黄浦江を臨むカフェが、私が上海で気に入っている場所の一つだった。
眼前には、大陸の深奥部を水源とする大河の、長い旅路の果てが横たわっている。水面は、この地の悠揚さを体現するような広がりを持ち、その上を行き交う汽船や小舟は、この魔都の闊達さを象徴していた。
引き攣った笑顔の国家代表たちが、上海で握手を交わしてから二年。
大日本帝国。かつては東方の未知と呼ばれた世界最大最強の国家に対して、私の祖国イギリスが三度目の敗北を喫したのも、同じく二年前――一八五四年のことだ。
彼らは悪魔の軍団だと、当時の兵士の手記に残されている。見通せないほどの遠くから小銃弾で隊列を薙ぎ払ったかと思えば、鋼鉄の飛魚が一個大隊を丸ごと消し炭に変えてしまう。開戦して数日のうちに、遠征軍司令官以下数名の将軍がその『鋼鉄の飛魚』の犠牲になった。
彼らが魔術の類を使ったのだと本当に信じた英国軍は、戦場の最前線へ牧師たちで構成された『神聖大隊』を送りさえもした。もちろん無意味であったのだが、現在でもインド駐留の英国軍にはこの手の部隊が派遣されている。
私は当時に思いを馳せながら、遅めのティータイムとしていた。ここ上海は、鎖国状態の日本本国と連絡を取ることのできる唯一の大使館が設置されていた。
世界で最も強大かつ閉ざされた国家の大使館。そんなものがある場所に、亡者どもが群がってこないはずはなかった。諜報員の万国博覧会とでもいうべき現在の上海は、まさに『魔都』の名にふさわしい状況となっている。
「彼と同じものを一つ」
給仕に洒落たオーダーをしてみせた男は、私の前の空席へ腰を下ろした。横目でその姿を確認した私は、「安くないぞ」と挨拶代わりの嫌味を言った。
「これぐらいは払えるな」
流暢な英語で答えた中国人の中年は、真面目そうな顔に悪い笑みを浮かべて見せた。よほど、今回の情報には自信があるらしい。大日本帝国中華開発公社管理下の在華紡で働く宋考利は、日本人幹部と現地人監督の連絡役として、彼らの内情に精通していた。
店内には、小さな個室がいくつも並んでいる。一つ一つの個室は薄い仕切りで区切られているだけで、そこまで厳重なゾーニングがなされているわけではない。
「追っ手は付いてないのか」
「いたとしても、巻いたとは思うが」
妙に歯切れの悪い宋考利の言葉に、悪い予感が脳裏をよぎる。私はできるだけ自然を装いつつ、紙巻き煙草に火を点けた。インド製の安物には、大日本帝国南印度開発公社の紋章が印刷されている。
顔を隠すように煙草をふかしながら店内を見回すと、数名の同業者と思しき人間が見つかった。だが日本の息がかかった人間かどうかは判別がつかない。この店自体には日本の資本は入っていないはず――だからこそ密談の場所として使える――なのだが、彼らが利用する『神の耳』と『神の目』は文字通りの神出鬼没で、一体どこに仕掛けられているか想像もつかない。その点ではどこにいようと同じだ。
「何があった」
「いや、別に大したことじゃないんだ。ただ、いつも通ってる酒場で知り合った日本人が、俺の仕事について根掘り葉掘り聞いてくるもんだから」
「……ほう」
日本は一〇〇〇年以上前から大陸での経済活動を行ってきたようだが、言語の壁はそう簡単に超えることができない。だからこそ、この男のような現地人が重宝されるのだ。大陸全土を探してみれば、数千人は似たような立場の人間がいるだろう。
そんな多くの人間の中から、大英帝国と繋がっているこの男へ接触があった。これを単なる偶然で片づけていいとは、到底思えない。この男を情報線として使うのは、しばらく避けるべきだろう。私は内心の決定を悟られないように、紫煙を吐き出した。
「……まあいい。話してくれ」
私は懐にある謝礼金を探るよう仕草をして、彼に話を切り出すよう促す。露骨に私の手の動きを気にしながら、宋考利は軽快にしゃべり始めた。
「昨日まで出張で、そこで欲しがりそうな話を手に入れたんだ――」
飛行機を見た、という。
昨日の夜明け前、編隊を組む飛行機の一団が北京の上空を北――ロシア方面――に飛んで行くのを、宋考利は見つけた。彼の言葉を信じるならば、その機体は明らかに旅客用でも空輸用でもなく、恐らくは日本軍のものだった。
「それだけじゃ話にならないだろ? でもな、ここから本番なんだよ」
宋考利は出張先の事業所長へ挨拶に行き、そこで思わぬ話を盗み聞くことができた。入室しようとした所長室から、密やかな会話が漏れてくることに気が付いた彼は、ドアに張り付いて耳をそばだてた。
――大変なことになりましてね。
視察に来ていた開発公社の幹部は、疲労の度合いがありありと分かる声音でそう言った。ちょうど数時間前まで、幹部の男は本社で会議に招集されていたのだという。
――極東露西亜開発公社が、突然壊滅状態になったって。ええ、昨日の夜半過ぎぐらいですか、いきなり本社に電信がありまして。
噂好きな幹部は、以降その話題に触れることなく会話を終えた。
「だから、あの飛行機はたぶん日本軍がシベリアへ援軍を送ったに違いねえ」
「……なるほどな」
話し方にはいくぶん誇張してやろうという意図が見えたものの、肝心の部分で嘘をついているようには見えなかった。もしこれが寸分も違わず事実であったとすれば、間もなく極東は動乱に襲われるだろう。
海外領土とはいえ、日本の統治機関を一夜にして壊滅させ得る存在。そんな芸当ができるのは大日本帝国自身以外にはあり得ない。巨大な帝国の内部では、私たちの知らないところで大きなひずみが生じていたのだろうか。
「分かった。ありがとう宋さん」
言いながら、紙幣の束を机の下で差し出す。宋は受け取る段になってから慌てて真顔を作ったが、今更もう遅い。受け取った宋は眉をひそめ、
「おいおい、こんなにもらえるのか」
「しばらく、ほとぼりを冷ます必要がある」
見る見るうちに宋の顔が青ざめる。俺はどうなる、と呻きにも似た声で言った中国人は、私の吸っている煙草の煙にむせ返った。
「好きにしてくれ。仕事を続けてもいいし、身を隠すでもいい」
「あんたは、あんたはどうする」
「さあな」私は立ち上がると、自分の会計とチップを置いた。「それだけあれば足りるだろう?」
喚き声さえ上げられない宋考利は、ウェイトレスが紅茶を運んできたことにも気づいていない様子だった。大方、黄浦江の美しさにでも見とれているのだろう。間違っても、身を投げたりしなければいいが。
領事館に戻った私は、真っ先にラザフォード一等書記官のもとへと足を運んだ。
「ロシア? そうか……」五歳年上の諜報担当者は何か納得したような表情を作ると、独りでにうなずき始めた。「なるほど。それなら話は早い」
――ロシアへ行け。ラザフォードはにべもなくそう言った。困惑した私は、どういうことです、と少々間抜けな問いを発してしまう。狼狽する部下を前に、悠々と片眼鏡の位置を調整しているラザフォードは、
「君のロシア行きが決まった」
「一体いつ」
「すぐにでも出立してほしい」
数歩後ずさり、私は何かを否定するかのように首を振った。配置換えなら、少なくとも一月以上前に教えるのが筋ではないか。
「赴任先は、ペテルブルクですか、それともモスクワ」
「決まっているだろう」ラザフォードの片眼鏡が、冷たく光る。「シベリアだよ」
「ここの人脈はどうなるんです」
「こちらで何とかする。とにかく急いでくれ。君のような人材が一刻も早く欲しいらしい」
信じがたいことに、この書記官は本気で言っているようだった。数枚の書類を取り出したラザフォードは、机の上にそれらを並べていく。
「昨晩、ロシア方面を管轄する秘密諜報部員から報告があった。――君の言っていた極東ロシアでの事件だよ。ウラル以西からでは間に合わん。中国方面に展開中の工作員を何名か、偵察に回してほしいという打診があった」
元軍人だろう、君は――とラザフォードは書類のうちの一枚を私に手渡す。顔写真の入った人事書類は、チャールズ・マリンソンという名の陸軍将校のものだった。神経質そうな顔立ちをした、まだ二十代半ばほどの青年だ。見れば、極東ロシアで対日情報収集を行っている部隊に配属されている。
「そのマリンソン少尉と現地で合流して、任務へ入ってもらう」
「……分かりました」
逆らったところで、既に決定済みの事項をひっくり返すことはできない。女王陛下がシベリアで凍ってこいと言うのなら、謹んで凍ってみせるのが大英帝国の臣民の勤めなのだ。フォルダーに紙束をまとめた私は、踵を返して部屋を出ようとする。
「では、失礼します」
「あっ、待ってくれ」
ラザフォードは忘れていた、と付け加えるともう一枚書類を出してくる。
「君の新しいコード・ネームだ。よろしく、ヒュー・コンウェイ君」
心中穏やかでない私は出来るだけ愛想よく受け取って、その場を後にする。工作員として過ごしてきた数年間で、最も面倒な事態が降りかかろうとしていた。
1856年に秘密諜報部は存在しない? いいんだよ歴史改変なんだから
次話もコンウェイのお話が続きます