序章
ちょっと重たい幕開けです。日本側の主人公らが登場します。
※色々アドバイスをもらったので改稿しました(12/16)
親友は、ここで死んだ。
家族のいない僕の、たった一人の親友の遺骸は、この異世界に取り残されたままでいる。
大気に充満した濃霧。昼夜なく橙色に焼けた空。大理石のようにすべすべとした大地。そして黒い書架。目に見えない禁書たち。
禁書封土の風景は変わらない。たとえその内部に、親友の死体を抱いていようとも。
遺体の回収は、一も二もなく却下されてしまった。僕ら〝侵索士〟に課せられた任務は、あくまで〝書架〟への接触であり〝禁書〟の回収だったからだ。
「三川。そろそろ例の地点か」
「ああ」
行軍の最中、思索にふけっていた僕の前方から思念伝達が飛んでくる。班員の中でもひときわ背丈の大きいこの男――四ツ田とはもう長い。僕が侵索士になった当初から、同じ班の仲間として戦ってきた同期だ。この広い背中が背負う気性の荒さは、裏を返せば誰よりも情に厚いということでもある。共通の友人である『彼』の死を聞いた四ツ田が、人目も憚らずに号泣したのはよく覚えている。
「この侵索が終わったら、絶対女捕まえて夜通し追悼宴会だからな」
多少無神経なきらいがあるのは、ご愛嬌だ。
「少しは脳味噌を使って発言しろこの脊髄反射野郎。第一、気が散るだろうが」
左から飛んできた罵声が、四ツ田の背中に刺さる。六実はこの班唯一の女性であり、そして優秀な耳を持つ索敵手であった。淑やかさとは対極に位置する言動は、彼女の持つ絶対的な自信から発せられている。全員が全覆式鉄帽で顔を覆っている今は分からないが、彼女の顔は四ツ田が「初対面で結婚を申し込む」程度には整っていた。
「まあまあ、六実さん。四ツ田さんは班長を慰めようとしただけで……」
後衛役の発したとりなしの言葉は、六実の「うるせえ」の一言で片づけられてしまった。班で一番若い五十嵐は、もちろん優秀であることに変わりはないのだが、少し気の弱すぎる一面があった。配属から数ヶ月での成長には目を見張るものがあり、班員たちは思い思いに目をかけて――いるつもりで――いる。
「お喋りはそのぐらいにしてくれ。この辺りはもう会敵可能性が高い」
思念伝達が伝えるのは、単に言葉だけではない。発話が、その声音によって感情を表すように。しかしそれよりも直接的に、思念伝達は感情の色相を相手へ送ってしまう。であればこそ、今の言葉に全員が緊張感を取り戻したのがすぐに分かった。
どこまで行っても、霧は晴れない。擂鉢状の禁書封土の地形では、当然『深く』に降りて行くほど霧の濃さは増していく。それにともなって周囲の気温が下がっていくような錯覚にとらわれる。実際には気温はどこであろうと一定だったし、仮に変わっていたとしても侵索装の調節機能がそれを相殺しているはずだ。だから僕を襲うこの悪寒は、心因性のものだということになる。
戦場では、案外動物的な勘というものが馬鹿にできない。この違和感は決して無意味なものではないはずだ。僕は左を守る六実へと思念を飛ばす。
「音響索敵」
「了解」
四人全員がその場にしゃがみ、中心の索敵手を囲むように三人が周囲を警戒する態勢を取る。左隣では六実が音響兵器の針を地面に突き立て、耳の受音器に意識を集中し始めた。彼女の聴力は、有効視界距離が極端に短いこの空間では最大の武器になる。しかしながら、霧の持つ電磁波を攪乱させる特性は、僕らにこのような原始的手段による索敵行動を強いていた。
「………………」
鉄帽に覆われた彼女の頭が、不意に傾いだ。
「三時の方向、七〇〇米から四〇〇米の間。少なくとも七本以上の脚を持つ伽那久羅が一体接近」
天敵の出現にも、班員たちは一言も発しない。そのまま個体同定に移った六実は、観測された伽那久羅が、前回の侵索班を全滅させたものと同一個体である可能性が高いと報告した。
つまり、親友の仇かもしれない。四ツ田がこちらに視線を送ってきたが、僕はつとめて表情を変えることなく、六実の報告に耳を傾けていた。
「一直線に針路を取っているな。――感知された可能性が高い。この距離で気づけたのは運が良かった」
「……これで連続非遭遇記録は終わりだな」
四ツ田の軽口を目で制してから、この先の手立てを考える。今回の任務は、あくまでも全滅した侵索班の残した禁書を回収することだった。遭遇率を下げるために少人数で行動したのは裏目に出てしまったが、あいにく、あの化物を振り切って逃げられるほどここは『浅い』地点ではない。
「予定していた通路での到達をやめ、第三七通路で、座標〝て・ア・一一七〟『アカギ山』書架林を目指す。そこで迎撃態勢を整るぞ」
了解の返答とともに全員が立ち上がり、大腿部の人工筋繊維に特定の電気信号が走る。湿布のように張り付けられた筋繊維たちは、互いに連動し、高速移動のための準備運動を始める。これが不気味だとか気色悪いというやつは、単に練度が足りないか、この仕事に向いていない。
「移動開始」
瞬間、その場から僕らの姿が消える。
微細な何かでできた霧が切り裂かれ、硝子のような地表に亀裂が走る。時速数十粁で継続される僕らの長距離走は、信じられないほど無音のうちに遂行されている。樹脂と人工筋繊維で覆われた侵索装はとにかく静粛性にこだわられ、風を切る音すらも制御していた。
「目標の七脚型、かなり高速。相対距離が広がらない」
比較的小型な部類か、と脳内で瞬時に分析し「七八式弾準備」と指示を飛ばす。装甲の硬度がそこまで高くなければ、小型の装甲貫徹弾で外骨格ごと通すことができるだろう。僕らは常に、複数の種類の弾頭を持ち歩いている。総重量で言えば、弾薬だけで一五瓩に達するほどの量を。
「間もなく『アカギ山』書架林だ。各自散開」
白い視界に突然現れる〝書架〟の黒い森林は、一種の荘厳さをもって僕らを迎え入れる。全高一五米ほどの直方体はそのどれもが黒くすべすべとした樹皮で覆われ、他者の干渉を拒むようにして立っていた。この『アカギ山』にある書架は全部で七二本。その全てが内部の禁書を調査済であり、既にここに戦略的意義はない。
「定石通りに行く。僕と四ツ田が正面。六実が左側面。五十嵐が右側面で待機」
「接敵まであと二〇秒」
霧のどよめきが、やがて近づいてくる。硬質な地面が砕ける音が規則的に続き、白い異形がその姿を現す。
伽那久羅。禁書封土の守護者にして、侵索士最大の敵。
二・五米ほどの頭部に頭髪の類はなく、瞼のない瞳は灰色に濁っている。異様に長い腕の先には、不釣り合いなほど巨大な手が地面を探っている。そしてその下部には、およそ地上の生物とは思えぬ、七本の節くれだった脚が蠢動していた。
「撃ち方はじめ」
消音器を付けた機関砲が断続的に発火炎を上げ、たちまち七本の脚に鋼線が絡まり始める。鎖錠弾頭と呼ばれる対伽那久羅用兵装の一つで、着弾と同時に数本の鋼線を拡散させ、周囲を固定する効果を持つ。
鎖錠弾頭は十全に機能し、七本の脚のいくつかが鋼線に縛り上げられて姿勢を大きく崩す。
「徹甲弾撃て!」
書架の陰から四人は一斉に砲火を浴びせ、伽那久羅の全身が噴煙と爆炎で見えなくなる。無風状態で煙は中々晴れない。索敵手の六実はすぐさま針を刺し、全員へ回線を開いた。
「目標健在! 霧に紛れて移動している」
「なに」
煙幕へ向けて圧搾空気を詰めた手榴弾が投げ込まれ、その場に残された『それ』が露わになる。
「脚……」
第一関節から切断された二本の脚が、その場に直立していた。伽那久羅は自らの脚を切って拘束を解き、煙と霧に紛れたのだ。
「書架を登れ。発見次第、各個射撃を許可する」
一五米程度の書架であれば、侵索装の筋力補助で十分跳躍できる高さだった。しかしそれはあの伽那久羅にとっても同様で、長く発達した腕なら書架を登ることも可能なはずだ。
「こちら四ツ田。自走式の囮を展開する」
拳大の箱が二つ空中へ投擲されると、いきなり箱が膨張して人型をかたどった風船が出来上がる。囮風船はそのまま二足歩行で一直線に走り出した。たった数秒の内に交信限界距離を超え、網膜の戦闘情報表示から信号が消える。
「囮が間もなく走査行動にはい――」
四ツ田がそう言いかけたのと同時に、甲高い破裂音が響いた。全員の視線は一様に一一時の方向へ向けられ、ものの数秒の内に二度目の破裂音が続く。二つは別方向へ投げられていたはずだ。それを殆ど間断なく撃破したとなると、この伽那久羅はかなり速い個体だ。
「かなり敏捷だぞ。足がなくなってむしろ軽くなったか」
「囮に閃光弾を搭載して再度投擲。炸裂とともに攻撃を仕掛ける」
四ツ田は素早く閃光手榴弾をくくりつけると、再び別の方向へと投げる。囮は霧の中へと消えていき、張り詰めた空気だけがここに置き去りにされた。
狙撃の体勢へ入ると、頭の中が急に冷えてくる。これは比喩ではなく、実際に集中力を高める内分泌物質が侵索装によって投与され始めたのだ。一秒が何十倍にも延伸され、その瞬間を最も冷静な状態で迎えるために。
刹那、霧が強烈な光を乱反射するのに続いて、破裂音がやってくる。
「撃て」
徹甲弾の群れが大挙して光源へ撃ち出され、拡声子局の雑音のような呻き声が掻き消される。消音器が限界を迎えた僕は射撃をやめ、無駄とは知りつつ霧の向こうを睨む。
「索敵する」
鋼線の先に付いた針を地面へ刺し、六実が伽那久羅の生死を聞き取ろうとする。
「一〇〇米先、目標沈黙。移動していない可能性が高いです」
「僕と四ツ田が確認する。五十嵐、六実は待機。異変があれば信号弾を撃つ」
「了解」
静かに三点着地をし、最大限警戒しつつ伽那久羅のいる方角へ歩き出す。あれだけ徹甲弾を撃ちこまれて、無事で済むとは到底思われなかった。七本脚の伽那久羅――おそらくもとは八本の脚が生えていたはずだ。全くの想像にすぎないが、あの足の一本を千切り飛ばしたのは、前回全滅した侵索班なのではないか。
なんにせよ、伽那久羅は脚を全て折って殺すまで安心できない。たとえそのうちの一本を、全滅した同僚たちが千切っていたからと言って、なにがどうなるという話ではないのだ。僕は首を振って雑念を振り落とそうと試みた。しかしどんなに言い聞かせても、そんな考えが脳の襞に染み込んで、集中力を削いでくる。
「大丈夫か、三川。気分が悪いか」
異変に気が付いたのか、それとも思念伝達で何かが漏出していたか。繊細さとはかけ離れたこの男であっても気付けるぐらい、僕の調子は少々狂っているということだ。
「いや、平気だ。――それより、やけに静かだと思わないか」
言われた四ツ田も、同意見であるようだった。
「もう死んでるんだ、って思いたいところだが」
「伽那久羅だって死ぬときは死ぬ」
霧で薄明るい視界に、千切れ飛んだ伽那久羅の脚が転がっているのが見えてくる。一瞬身構えたが、すぐにその断裂は銃弾によって引き起こされたものだと分かった。
このすぐそばに本体の死骸があるはず――そう思って振り返った僕は、今まさに四ツ田の胴が切り裂かれているのを発見した。
「くそっ」
すぐに数発応射すると、胴を袈裟斬りしていた爪の動きが止まる。伽那久羅は四ツ田を盾にして攻撃を防ごうとしたが、四ツ田を引き裂いていた爪を銃把で叩き折ると、今度は逃げようと身をよじる。
敵前逃亡などという甘い判断は許されない。僕は射撃の手を緩めず、穴だらけになった本体の頭へ弾倉が空になるまで撃ち続けた。
最後の力で這いずり、検分に来たところを襲う。ずいぶん小癪な手を使う伽那久羅だと僕は思った。今度こそ絶命した伽那久羅は、虚ろな目で焼け爛れた空の一点を見ている。瞼のないこいつの目を閉じてやることはできない。
僕は最後に二発だけ、死んだ伽那久羅の目玉を潰すために弾丸を使った。
「ぐっ、ふっ……」
血の泡を吹いている四ツ田は、まだ辛うじて意識を保っていた。目だけがこちらを向き、「悪い……」と弱々しい思念を飛ばしてくる。
「置いて行けよ……もうすぐ死体になってやるから」
「自発的に死人になることは許されていない」
僕は背嚢から緊急用の医療分子機関の入った薬液を取り出し、傷口へかけていく。瓶を一つ使い切っても、四ツ田の再生能力は完全には回復できず、傷口も致命的なままだった。傷口の縫合にはさらに量が要る。そう思って顔を上げると、そこには既に六実と五十嵐がやってきていた。
「伽那久羅は始末できたか」
「ああ」
「よ、四ツ田さん」
五十嵐が慌てて薬液の瓶を取り出そうとして、六実に制止される。
「よく見ろ。どう見ても生還可能な傷じゃない」
「でも」
「……すまない」
僕は空瓶を隠すようにして立ち上がった。四ツ田は満足そうに笑っている。
「それでいい。……宴会はお預けだな」
「ああ、帰ったら一緒に行こう――必ず」
「……へへ。楽しみに、してるよ」
四ツ田の生命反応が、戦闘情報表示から消えた。
この地で僕の親しい人間が死んだのは、これで二度目だった。
回収すべき禁書は、無造作に落ちている。
そもそも禁書とは書架の内部に記録された情報を指すのであり、我々が一般に使う『禁書』とはその情報を保存した記憶装置を指している。記憶媒体は、伽那久羅の攻撃にも耐え得る特殊合金で作られているため、よほどのことがないかぎり失われるということはない。
今回の最優先目標である、前回他班が回収に失敗した――そして僕の親友が戦死する結果に終わった――禁書は、未確認の書架の近くに置かれていた。記録上、今までここに書架の存在が確認されていたという事実はない。
「新しい書架……」
「小さいですね」
精々、一・一米と言ったところか。大体の場合、内蔵している情報量に応じて書架の大きさは決まると言われている。この程度の大きさだと、大体七兆単位程度の内蔵量だと推察できる。
「とにかく禁書を回収しよう」
――十七。
書架のすぐそばに落ちている記憶装置を拾い上げると、不意に僕を呼ぶ声が聞こえたような気がした。
「……十五?」
思わず親友の名が口を突いて出る。親しい者に名前を呼ばれた時の、あの懐かしい感覚が急に湧き上がってきた。それは間違いなく、忌野十五の声だった。
「どうした、三川班長」
「いや」首を横に振って僕は答える。「なんでもない」
心拍数が急上昇しているのが自覚できる。手の中で鈍く光る記憶装置を見つめていると、不意に、これをここまで運んだのは彼なのではないか、という憶測が思い浮かんだ。
だとしたら。
「……全滅した人たちの遺体は、どこに」
五十嵐が青ざめた顔で言った。戻ってくる僕の、その背後を見ている。あの一・一米の小さな書架を。彼はそれ以上何も言わなかったが、彼の視線はその主張を委細にわたって表している。
――死んだ人間が、書架になったのではないか。侵索士の間でよく交わされる、与太話の類の一つだ。
「伽那久羅がここから引きずっていったのかもしれん。奴らにはそういう行動をとる種もある」
呆れ顔の六実の語気も、どこか脆く聞こえた。僕はなるべく動揺を気取られぬよう首を振って、「帰還しよう」と二人に告げた。
「で、でも。新しい書架なら禁書の回収をしても」
「ダメだ。予備容量を使ってまで回収すべき情報があるとは思えない」
「そんな」五十嵐は当惑した表情で、僕に詰め寄って来る。「十五さんなのかも知れないんですよ!」
「本気で言ってるのか」
咄嗟に返したその言葉には、かなり尖鋭な刺々しさがにじみ出ていた。僕は五十嵐に少し申し訳なさを感じつつ、そのまま固まる彼の脇をすり抜けていく。
死んだ人間で出来た書架。突飛な話だが、それを否定する材料はない。もしあれが十五だったとしたら、記憶装置に流れ込んでくる情報とは一体何なのだろう。僕らは自ら回収した禁書の中身を知らない。もしそれが、死んだ人間にまつわる何かであるのだとしたら。
このような考えは破滅的だ。僕は数歩進んだところで、後ろの二人が付いてきていないことに気が付く。
「何をしている」
「回収だ。規則通りだろ。三川班長、あんたの意見には賛同できない」
六実は振り返ろうとすらしない。五十嵐は中途半端なところでまごついていたが、やがて六実の作業を手伝うべく書架の方角へ戻っていく。
僕は無言でその様子を見守っていた。どうしても、あれが十五の成れの果てなのだとは信じたくなかった。
帰路に就く途上、僕らは四ツ田の亡骸のもとを立ち寄った。誰が指示するでもなく、物言わぬ同僚の身体に火がともされる。燃料になりそうなものはなかったが、機能を停止した侵索装が消火する見込みは低い。僕らができる、仲間への精一杯の手向けだった。
人として死ぬ。そのぐらいの権利は、この男にも、そしてたぶん十五にもあったはずだ。
「さようなら」
僕らは敬礼を終えると、その場を後にする。
上空では、霧と煙が混じってその境界があいまいに、夕焼け色の空に溶けていた。禁書封土の風景は変わらない。たとえその内部に、親友の死体を抱いていようとも。
次話は近日中に公開します。もしかしたら用語集みたいなのも作るかも