《閑話》サーシャのお見舞い
ある日のこと。
「あー、暇だなあ」
サーシャは部屋で一人ベッドの上に寝転び、実に退屈な午後を過ごしていた。一緒に遊べる友達の一人でもいればいいのだが、最近まで両親とともに世界を旅して回っていた余所者をすぐに受け入れてくれる子どもの派閥は存在せず、退屈でも一人で過ごすしかなかった。
「わー、暇だ暇だ暇だよーお兄ちゃーん!」
枕をバンバン叩きながら最近一緒に暮らし始めた和馬幸多を頭に思い浮かべる。幸多は日中王城に仕事に出ているのだが、帰ってきてからは夕飯の時間などでサーシャの話し相手をしてくれるため、彼と出会ってからの二週間は夕方までの辛抱と思って我慢できていた。
しかし、つい二日程前から幸多は王城の救護室に入院しているため長いこと話せておらず、サーシャの退屈からくるストレスはかなり蓄積されていた。
「むー、お兄ちゃんのばか。うちはしんりょーじょなんだからうちで入院すればいいのにー」
それは全くもってその通りで、心配性の国の王女に是非とも言って欲しい言葉であるが、八歳の少女にそこまでの考えは働いておらず、胸中では不安な思いが渦巻いていた。
「大丈夫かなお兄ちゃん、もう帰ってこないなんてことないかな? そんなに重いびょーきなのかな?」
幸多の入院理由を詳しく聞かされていないサーシャは、ゴホゴホと酷い咳に悩まされている幸多の姿を想像していた。入院は一週間と言っていたけれど悪化したら当然退院は先送りになるだろう。それは一ヶ月後? それとも一年後? それとももっと? 止まらない負の感情はどんどんとサーシャの全身を支配していき、完全に満たされたところで、ふと一つの案を思いついた。
「そうだ、お見舞いしに行こう! 私からお兄ちゃんに会いに行けばいいんだ!」
分からないなら自分の目で確認すればいい。どうせなら幸多の病気に最適な食べ物も持って行って食べさせてあげれば、退院が先送りになるどころか早まるかもしれない。
「いつもお兄ちゃんにはお話し相手になってもらってるし、たまには私がお兄ちゃんのために……うん、そうしよう!」
王城の中には関係者以外は中々入ることはできないが、前にブロンズが王城で働いていたことがあるという話を聞いていた。
もしかするとブロンズならなんとか出来るかもしれない、そう思ったサーシャは早速話をするべく、一階で午後の診療を行っている祖母の元へと向かった。
「おばあちゃーん!」
サーシャが診察室へ向かうと、ブロンズは丁度次の患者を診るための準備の真っ最中で、室内に患者の姿はなかった。
「なんだいサーシャ。準備しながらでいいなら聞くよ」
ブロンズは忙しそうにパタパタと動いていたが、いつものようにサーシャを無下には扱わない。サーシャもそのことには嬉しく思いつつ、しかし邪魔をしたくもないため部屋にこもっていたが、今回はやむを得なかった。
「おばあちゃん、私お兄ちゃんのお見舞いに行きたいの。でも一人じゃ王城に入れないだろうから、おばあちゃんならなんとかしてくれるかなーって思って」
「そうかお見舞いかー。なるほどね……」
と、ここでブロンズは何かの気配を察知したかのように顔を上げて虚空を眺めると、
「うん、大丈夫そうだね」
「え?」
「王城に入れるってことさ。入っても大丈夫」
「本当!」
「ああ、どこかの不法侵入者に任せればすぐにでも入れるよ」
訳のわからないことをブロンズが口にし、サーシャは頭を傾げるも、祖母の言葉を信じることにした。
「じゃあ、今から行ってくるね。それで、お兄ちゃんの病気の治りが早くなるような食べ物って何かな? 買って持って行きたいんだ」
「そうだねえ、あそこなら調理もしてくれるだろうし、切る以外の作業が必要な食べ物でも大丈夫そうだね。それならアーヒモノナカの実に、クマンサン、デアタの花、サク、モリノ、ミーカマ、サンダータとかかねえ」
「アーヒモノナカにクマンサン、デアタの花に……えっと、何だっけ?」
聞いたことはある名前たちだったが、一度に多くの名前を言われてサーシャは混乱した。
それにブロンズは「あーすまないねえ」と言ってメモ用紙を取り出し、サラサラと文字を書き連ねた。
「はいよ、今言ったものはこれ。全部市場の『いいもの八百屋』で売ってるからね。それと、はいお金。一応、今言ったものは全部買えるくらい入ってるからね」
ブロンズはメモ用紙とともにポケットに入れていた財布を取り出し、渡す。
「ありがとうおばあちゃん! お兄ちゃんには一日でも早く退院してもらいたし、全部買っていくね」
「そうかい、じゃあ買い物かごはいつものをもっていきな。サーシャがお見舞いに行くんだ、きっと幸多も喜ぶよ」
「うん! じゃあ行ってくるね!」
「はい気を付けて」
元気にそう言うと、サーシャは意気揚々にガラタ医院を飛び出して行った。
孫の出発を見送った後、ブロンズはポツリと呟く。
「どうせ幸多がいない間に幸多の部屋を見ておこうなどという理由で今ここへ来ていらっしゃているんでしょう? 後は頼みましたよ、姫様」
すると、どこか誰も見ていないところでビクッと震えた後に、誰かが頷いた気がした。
「おっみーまいー、おっみーまいー!」
丈夫な枝づるでできた大きな買い物かごとお金を持ち、サーシャは上機嫌であった。思えばこの街において一人で買い物をしたことはなく、何だか少し大人になった気分だった。
「ふっふー、私はもう一人でお買い物ができるお姉さんなのだー! えっとー、今日買わなきゃいけないものはなんだったかしらねー」
まるで毎日の買い物に追われる主婦のように振舞いつつ、サーシャはメモ用紙を取り出した。果物や野菜たちの名前がずらっと並んでいる。
「すごいなー、おばあちゃんは何も見ずに全部言えてたなー。……私にも出来るかな? えっと、アーヒモノナカにクマンサン……」
サーシャは市場までの道中でメモ用紙を見なくても買い物ができるよう暗記を始めた。勉強はガラタ医院でブロンズに教わり始めており、そこまで暗記という作業に苦手意識は持っていなかった。必死に紙に羅列した文字を覚えようと頭に単語を焼き付ける。
「ミーカマに……サンダータ! ふう、何とか覚えた」
歩き始めて五分、市場に到着したところでサーシャはどうにか全ての名前を覚えきった。
「よし、じゃあ頑張って紙を見ずに言ってみよーっと」
もし覚えきれていなければ紙を見ながら話せばいい。ちゃんと忘れた時の保険もあるため、サーシャは挑戦心に溢れた様子であったが、この後それが一変する。
「こらー、ここでクラージャス合戦やるんじゃねえ! やるならもっと広いとこ出てやれー!」
そんなおじいさんの怒鳴り声とともに、ドドドと何かが背後から走って近づいてくる音。
「クラージャス合戦?」
それは何? と思いながら背後を振り返ると、
「おりゃあ!」
「なんの!」
クラージャスの墨をかけ合いながら同い年くらいの二人の少年がサーシャのすぐそばまで近づいてきていた。
「まけっか、よ!」
そして、一方の少年が噴射した墨がサーシャの元へと迫り来る。
「きゃっ」
サーシャはそのことを早期に知ることができたため、反射的に左に避けて何とか直撃は免れた。
「そーりゃ」
「おりゃー」
その後も少年二人は一切周りの迷惑を気にすることなく、市場を走り抜けていった。
「まったくもー、これだから男の子は」
サーシャは頬を膨らませて去っていく少年たちの背中を睨みつける。異世界でも男子が馬鹿騒ぎし、女子が呆れた眼差しを向けるという立ち位置は変わらないようだ。
「まあいいわ、それじゃあ買い物の続きを……」
主婦モードに戻ったサーシャがもう一度覚えなおそうとメモ用紙を見つめたところで、石化した。
ーーメモ用紙の文字がクラージャスの墨に潰されてしまっていたからだ。
「え……えっそんな!」
すぐに現世へと戻ってきたサーシャだったが、焦りで全身の汗が噴き出してくる。墨は紙全体までは侵食していないものの、大部分の文字はやられてしまっていた。クラージャスの墨は簡単に水で落ちることを知っていたが、同時に持っているメモ用紙も水に濡らしたらぐちゃぐちゃになってしまうことを知っていた。
「どうしよう……えっと、アーヒモノナカの実に、クマンサン……」
サーシャは指を折りながら、暗記した単語の想起を始める。
「ミーカマに……サンダータ。なんとか言えた。でも……」
暗記の感覚が不安定で、一歩でも歩いたらどれかの単語が抜け落ちそうだった。最悪、忘れてしまったらそれを抜いたものを買っていけばいい。だが、全部買っていきたいという思いが強かった。
「お兄ちゃんには早く良くなってもらいたい。そのために全部買っていきたかったのに……」
サーシャの双眸が潤い始める。まだ買い物は自分に早かったのかなど、嫌な考えも次第に浮かび上がってきて、それらが暗記した単語の想起を妨害する。
「どうしよう……どうしようお兄ちゃん……」
すぐにでも会いに行きたいが、まだ会えない。会いに行けない。
諦めるしかないのか、サーシャがそう思い始めた、その時。
「……そうだ、歌」
サーシャは、数日前に幸多に教えてもらったことを思い出した。単語を暗記する時は、物語や歌にして覚えると思い出しやすくなるという話を。認知心理学がどうちゃらこうちゃらという理論の部分は分からなかったが、とにかくそうであることは覚えていた。
「えっと、アーヒモノナカ、クマンサン……ある日森の中、くまさん……!」
ぱあっとサーシャの表情が明るくなった。
「ある日森の中、くまさんに、出会った、花咲く森の道ーくまさんに出会った!」
何幸多が元いた世界のとある童謡と極めて酷似した歌が出来上がった。あくまで一からサーシャが思いついた歌であり、売り出すつもりもないため、ここでは著作権云々の話はやめておこう。
ともあれ、こうして忘れることのない覚え方が完成した。
「よーし、買いに行くぞー!」
再び元気を取り戻したサーシャだったが、乗り越えなければいけない関門はまだ存在した。
「いらっしゃい」
「…………」
辿り着いた『いいもの八百屋』の店主を見て、サーシャは再び石化する。そこの店主は、二週間前にサーシャをいわれのない罪で捕まえようとしてきた相手であったからだ。
ーーどうしよう……怖いなあ。
追われていた時の恐怖が蘇り、中々声が出ない。一度離れて心を落ち着けてから来ようかとも思ったが、あの時助けてもらった幸多のために、勇気を振り絞って今買うことにする。
「あの、アーヒモノナカの実と、クマンサンと……」
意を決して買いたいものの名前を言うと、店主は一つ一つ丁寧に商品をとっていく。
「ミーカマと、サンダータをください」
「はいよ、お嬢ちゃんお金は持ってるかい?」
「はい、ここにちゃんと」
ブロンズから預かった財布をしっかりと見せると、店主は少しばかり目を伏せ、商品たちをサーシャが持つかごに入れながら言った。
「悪かったな、この間は」
「!」
思いもよらぬ言葉を聞いて一瞬呆然と立ち尽くしてしまったサーシャだったが、にこっと満面の笑みで返した。
「うん!」
買い物を済ませて歩くこと十分弱、サーシャは王城の正門前に到着した。
ブロンズに大丈夫と言われたものの、本当にそうなのか少し心配になりながら、門の前を警備する兵士に自分の名前を伝えると、
「話は聞いてるよ。どうぞ中へ」
二つ返事で簡単に場内へと入れてくれた。
「凄いな、おばあちゃん」
改めて祖母が王城で働いていたことを理解するサーシャ。正門をくぐると、使用人と思われる女性が待ち構えており、幸多のいるところまで案内すると言って先導を始めた。
城内は、見るもの全てが上品で豪奢な造り。それらに見惚れながらついて行くと、『救護室』と書かれた部屋に到着した。
「幸多さんはこの中にいらっしゃいます。どうぞ中へお入りください」
使用人の言葉のままに、サーシャが思い切って扉を強く開くと、いくつものベッドが並んだ広い救護室の中央部分のベッドに、会いたかった人物は横になっていた。
「お兄ちゃん!」
声に対し、幸多は初め驚いた表情で入り口を見つめ、すぐにその表情を笑顔に変えた。
「サーシャ、お見舞いに来てくれたの?」
「うん!」
ダッシュで幸多の隣へと近づく。ほのかに幸多の匂いがサーシャの鼻腔を突き、安心した思いになる。
「お兄ちゃん、大丈夫?」
「うん、平気。ごめんね心配かけて」
言葉の通りすっかり元気そうな様子の幸多を見て、サーシャはどんどんハッピーになった。
「よかった! えっとね、今日はお兄ちゃんのために色々買ってきたんだけどね、その時に……」
嬉しくて仕方がないサーシャは、それから大好きなお兄ちゃんに話し始めた。
小さな小さな、サーシャの冒険を。