魔術発動
【恐怖の魔術】。その魔術は、掌の上に集めた魔術素を相手にぶつけることで術をかけることができる。ただし、この魔術には同時に発動要件も存在する。その発動要件とはーー
『ーー相手に恐怖の体験をイメージさせることだよ。そのイメージがもたらす恐怖を増幅させることで、この魔術は完成するのさ』
王城の装備品倉庫でのブロンズの説明である。つまり、魔術をかけたい相手が恐怖を感じた体験をイメージさせた上で魔術素の塊をぶつけることで、【恐怖の魔術】は発動するということだ。
これが意味するのは、すなわち相手が恐怖体験をイメージしてくれなければいくら術をかけようとしても無駄なわけで、相手に恐怖を抱く事柄がなければ全く使えない魔術であるということだ。
幸多は発動要件について考え、対戦相手に向く 。『覇者』の称号を持つ隻眼の男は、自ら受け身のスタイルに移行しながらこちらをギラギラとした肉食動物の目つきで見つめ、今にも飛びかかって潰しにかかりたいという心境が透けて見えていた。
ーーこの人の中の辞書に恐怖なんていう文字があるとはとても思えない……。
はっきり言って現状は最悪、絶望以外の何者でもなかった。相手はどんな攻撃を繰り出しても自分を一撃で仕留めることができるのに、対する自分には打つ手がない。僅かな勝機をたぐり寄せるために【恐怖の魔術】をかけたいところだが、何かに恐怖する姿が少しも想像できない相手にどうやってかければいいというのだ。それでもイメージをさせるために相手が恐怖を抱く何かを探るしかないのだが、あまりその時間も残されていない。
「おい、どうしたよ? どっからでもかかってこいよ」
攻撃してくる様子が見られない幸多に、待ちきれなくなったギバルドが声をかけてきた。
「早く来てくんねえと暇でしょうがねえよ。それとも、お前からは攻撃できない理由でもあんのか?」
「…………」
あくまで無表情を保つが、幸多の中で焦りの色が一層強くなる。今は相手に対し魔術師の和馬幸多として魔術の存在を匂わせることで『何かあるかもしれない』と警戒心を持たせることができているが、ここで何もできなければこちらが攻撃する手段を持っていないことを悟られ、再び相手の攻撃フェイズに戻ってしまう。そうなればまたフェイントでかわしていくしかないが、それもいつまで持つか分からない。相手に動きを見切られるのが先か、それとも自分の体力切れが先か……どちらにせよ、そう先の未来ではない。
どうする、どうするんだと自分に訴えかける。このまま何もできずにタイムオーバーになるくらいなら仕掛けるか、相手の潰れた片目の方へ回って死角からナイフで刺してみるか?
その映像を想像してみたが、あまりにも無理がありすぎた。第一、そのような攻撃手段はとっくにコロッセオで多くの相手選手から受けてきただろうと考えて……。
「……っ!」
と、ここで幸多の中に一つ疑問点が浮かび上がった。
「あの、一つ訊いてもいいですか?」
「んあ? 何だよ唐突に、まあ暇だしいいけどよ」
まさか戦っている最中に何か質問を受けるとは思っていなかったのだろう、ギバルドは虚を突かれて変な声をあげたが、承諾した。
その言葉に甘え、幸多は早速問う。
「ギバルドさん、片目を失ったのはいつですか?」
『ーー目の前の男は体に一切の傷を負わぬまま『覇者』の称号を手に入れたコロッセオ史上最強の男と言われている人間だ』
バルガスからギバルドの説明を受けた際、ギバルドは無傷で『覇者』の称号を手に入れたと確かに言っていた。とすると明らかに刃物でやられた形跡のある片目はいつ失明したのか、と思ったのだ。
それに対して、バルガスは「うーん」としばしの間唸ってから、
「忘れた」
「え?」
今度は幸多の口から可笑しな声。当たり前である、失明という大きな契機を忘れたという一言で片付けられてしまったのだから。
しかし、ギバルドにふざけている様子は見られなかった。
「えって言われたってよ、忘れたもんはしょうがないだろ。本当なんだからよ」
ここで幸多はそういえばと、怒り狂うセラとギバルドの会話を思い出す。
『ーー生まれ育った国に戻って、ご両親に礼儀作法というものを一から教えてもらいなさい!』
『両親が誰か、生まれ育った国がどこなのかなんてもう昔のこと過ぎて覚えちゃいねーよーー』
「あの、両親が誰か、生まれ育った国かなんて忘れたって言っていましたが、それは本当ですか?」
「ああ、そうだよ。でもなんでそんなこと聞くんだよ、変だなお前」
訝しげに幸多を見つめながらギバルドは答えた。セラとギバルドが言い合っていた際、幸多はただギバルドがセラの言葉を受け流すために言っただけだと思っていたが、どうやら本当に忘れていることが判明した。
「忘れているって、どこまでですか? どこからなら昔のことを思い出せます?」
「どこからって、そうだなあ……気が付いた時には十三になってて、もう生まれた場所を出て別の街にいたな。あ? 何で俺は生まれ故郷を覚えてねえのに『別の街にいた』って分かるんだ?」
「…………」
ここで分かった、ギバルドの二つの忘却。片目の喪失と、自らの幼少期。
これらが何も関係を持たないとはとても思えず、点と点を繋げる思考を行っているうちに、やがて幸多の中で一つの結論が導き出された。
確証はない、全くもって的外れである可能性も十分考えられる。ただ、もし今浮かび上がっているものが答えだとしたらーーそれは、幸多自身の勝敗を大きく左右するものだった。
賭けるとしたらここだと、幸多は右手に意識を集中させて魔術素を集め始める。言うまでもなく【恐怖の魔術】を発動するためだ。掌を天に向け、魔術素の塊を作り出す。集めながら、幸多はギバルドの方へと向かって歩き出した。
「お、ようやくその気になったか」
向かってくる幸多を見て、バルガスは歯を剥き出しにして笑っていた。楽しい戦闘の時間だと、両手の拳をバンとぶつけて興奮を高ぶらせる。
目の前で狂喜する相手がとてつもなく恐ろしく、今からそんな相手に一か八か仕掛けるのかと思った途端、幸多の両方の膝が震え始めた。すかさずパンと太ももを叩いて鼓舞する。ここまで来てつくづく自分は臆病な人間だなと自嘲しながら、ギバルドとの距離を二、三メートルまで詰めたのち、しゃがみ込んで魔術素を集める方とは反対の手を背後に回し、土をいくらかすくった。土は粘土質ではなくすぐに手の中でパラパラと砕け、幸多は手を動かして更に土を分離させ、砂状にする。
ーーやらなきゃいけない、ここでやるんだ。僕は、ここで僕を超える。
瞬間、幸多は何かから抜け出したような感覚を抱いた。まさに一皮向けたような、そんな感覚。ここまでは作戦とはいえ、死と隣り合わせの状況に飲まれて逃げることに必死になっていただけだった自分を、完全に打ち破った。
勝つために動けると、心からそう思った。
「……始め」
幸多は魔術素の塊が溜まりきると同時にそう呟き、手にしていた土を下手投げでギバルドの顔へ目掛けて投げつけた。砂状になっていた土は広範囲に拡散しつつ、ギバルドの顔へと向かって行く。
「チッ!」
本日二度目の舌打ちを鳴らしたギバルドは、腕で生きている方の片目を覆って土が目に入るのを防ぐ。
「小細工を、そんなもんを俺が食らうとでもーーッ!」
真正面から向かってこない幸多にバルガスは吠えて腕を退けたが、その刹那。見ていないうちに距離をかなり詰めていた幸多は、手元から黒い液体をバルガスの顔面に向かって放射した。
「なっ!」
目くらましの後の更なる目くらまし。そういった戦法も、それからクラージャスなんていう子どものおもちゃの使用もコロッセオの戦闘で経験がなかったギバルドは墨をモロに浴びた。作戦成功に、幸多は歯で引き抜いたクラージャスのコルクをぺっと吐き出して口元をにんまりとさせた。
「ぐっ……畜生!」
ピリピリと目が痛む中ギバルドは無理矢理まぶたを持ち上げるも、クラージャスの墨によって目の前は真っ暗、幸多の位置はおろか、どこに何があるのか全く視認できなかった。一刻も早く洗い流したいところだが、手元に水を入れた水筒はなく、一面草原地帯で川や湖も近くに存在しない。
「くっそ」
今更ながら自分の油断を悔やむ。個人としては油断せず、しっかり幸多の力も警戒しながら戦闘を進めていたつもりだった。が、自分がコロッセオの『覇者』であり、今までの経験を持ってすれば負けることなどあり得ないと、経験に頼り過ぎていたところがあった。コロッセオでがむしゃらに戦っていた時は、そんなことはまずなかったというのに。
幸多が元いた世界で、スポーツのトッププレイヤーの中には怪我をしたわけでもないのに突如調子を崩してしまい、そのまま若くして引退してしまう選手がいる。スポーツにおいて『一番の敵は自分』という言葉が存在するが、特に頂点を極めたトッププレイヤーはそれが当てはまる。プレッシャーによる重圧、そして今の自分に満足し次に辿り着くべき自分の目標を見失ってしまうことでメンタルバランスを崩し、重いスランプや無気力状態に陥ってしまうのだ。これはどんな選手にも起こりうることであり、そのためトッププレイヤーの中には専門家から定期的にカウンセリングを受けてメンタルバランスを整えている選手も存在する。
それくらいに警戒するべき事柄をギバルドは軽んじ、その結果足をすくわれてしまった。コロッセオの『覇者』となって次に極めるべき目標が思うように見つからず、国の姫様の護衛というのも気分でなることを決めていてとても新たな目標とは言えなかった。俺は『覇者』なんだからこの世で一番強く偉いのだと、表には出さずともどこかでそのような驕りが生じていて、らしからぬミスを犯した。ことごとく自分に敗北していた。
「どこだ! どこにいやがる!」
それでもギバルドは諦めきれず、必死に手を伸ばして幸多を探す。が、いくら運動が苦手と言っても、手探りの相手に捕まるほど運動音痴ではなかった。
「ギバルドさん……もう一つ、いいですか?」
どこかからか幸多の声がした。ギバルドは声が聞こえた方へ向いて手を伸ばすも、幸多に当たる気配はない。幸多自身も、捕まる気は全くなかった。
「何だよおい! どこにいんだくそ!」
「ギバルドさんに、もう一つ聞きたいことがあるんです」
ギバルドは聞く耳持たずの状態だったが、それでも幸多は構わず言った。
「ギバルドさん、もしかして幼い頃にーー虐待を受けていませんでしたか?」
「どこに……」
幸多の言葉を聞いたギバルドは突然静まり、その場でただ直立した姿勢となった。
幸多は続ける。
「思い出してみてください、昔のことを。あなたは親御さんから虐待を受け、片目もそれによって失った。違いますか?」
「…………」
幸多が問いただしても、ギバルドの反応は見られなかった。ずっと突っ立ったまま五秒が経過し、
「……っ!」
「!」
このまま賭けは失敗に終わるのかと幸多が思いかけたところで、僅かにギバルドの表情が苦悶に歪んだ。苦しそうに、悲しそうに、恐怖を受けていた。
ーー今だ!
確信した幸多は、右手に溜めていた魔術素の塊を迷わずギバルドへと打ち込む。
「【恐怖の魔術】!!」
ギバルドの胴体に打ち付けられた魔術素は一瞬毒々しい濃い紫色に輝いたかのように見え、直後にギバルドの全身へ溶け込んでいった。それから間もなくしてーー
「ーーうわあああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああ!!」