戦闘開始
「さて、ここまで来りゃいいんじゃねえか?」
ガサっと草を思い切り踏み潰し、ギバルドは後をついてきていた幸多に向かい合った。
準備を整えた幸多が正門前で待ち構えるギバルドと合流した後、二人は街を出て近くの草原の丘を登っていた。街の中には余計な心配をすることなくお互いが戦える開けた場所がなかったため、どこかにないかと模索した結果幸多が丘の上を思いついたのだ。
「幸多さん……」
幸多とギバルドの二人から少し距離が離れた場所で、セラが今にも泣き出しそうな顔で作る両手の拳を震わせていた。セラの隣にはブロンズ、またバルガスも並んで様子を見ている。
本音としては、もちろんセラは目の前で行われようとしている戦いを止めたいと思っている。ギバルドという隻眼の男は無礼者ではあるが、間違いなく強者。対する自分の部下はまだ一つも魔術を習得できていない専属魔術師。当然幸多の身を案じる思いが大半を占めているが、魔術に対する才能を認知しているだけに、これからの成長の障害となり得るものは避けておきたかったところもあった。
しかし、幸多は対戦を望んだ。彼自身、相手の強さは理解しているだろう。そのような中でも未だに逃げることなく対峙しているということは、幸多がこの戦いから何かを得ようとしていることに他ならない。それなのに自分が妨げてしまってはむしろ逆効果なのではないか、と部下の決意を信じることにした。
ーー幸多さんなら……幸多さんならきっと……。
胸の内で『奇跡』と思ってしまっていることを、それでも幸多はやってくれるとセラは目を背けることなく、しっかりと見つめていた。
「んじゃあもう始めんぜ。ルールは特にねえ、とにかく相手を戦闘不能にすりゃ勝ちだ。いいな?」
「はい、お願いします」
幸多が了承すると、ギバルドは顔を歓喜一色に崩壊させ、
「そんじゃあ、スタートだ!」
自らの合図と同時に、戦闘狂が始動した。十メートル程あった距離をたった一歩で詰められたことを幸多が認識した時には、すでにバルガスは拳を固め右腕を振り上げていた。
「ーーッ!」
想像以上の化け物度合いに幸多は虚を突かれるも、咄嗟の判断で左に飛んだことで直撃は避ける。が、バルガスの拳が幸多の肩を掠め、覆っていた鎧の肩部分の一部が砕け散った。
ーー掠めただけで……ッ!
ギバルドは外見から武器と呼べるものを所持していなかったため、攻撃手段は近接格闘であることをあらかじめ予想はしていたものの威力は想像よりも桁違いだった。鎧が禿げた右肩を手で確かめながら幸多は改めて一撃でも食らったら自分は負けることを身をもって知った。
「おらおら、まだ一発だけじゃねえか! どんどんいくぜー!」
アドレナリンが溢れ興奮しきったギバルドは幸多に向かって再度拳を振り出す。幸多は一度回避行動をとったことで体勢は不安定となっていたが、それでも無理矢理体を捩らせて拳をかわし、直後に直立しギバルドに背を向けて走る。なるべく距離を稼ごうと、全力で。
「逃げたって無駄だぜ!」
しかし相手は十メートルを一歩で詰める男、幸多はあっという間に差を詰められ、ギバルドの拳が背後に迫る。急激に走る方向を変えて一撃から逃れようとするも、
「くッ!」
ギバルドの拳は想像以上に速く、避け切る前に腰をかすめていき、今度は鎧とともに少し皮膚をもっていかれた。腰全体にじんじんとした嫌な痛みがべったりと貼りつくように覆う。
「幸多さん!」
セラの悲壮に満ちた悲鳴が幸多の耳元まで聞こえてきたが、それに答えている暇はなかった。休む間も無く新たに飛んでくる拳を避けることに神経を回して横っ飛び。ドンと地面が鼓動した音が聞こえ、振り返るとギバルドの拳は丸々地面にめり込んでいた。直撃していたら自分の腹部も同じようにと想像しかけ、すぐに振り払ってとにかく走った。
「おっらあ! おらおらあ! おらあ!」
それからも、ギバルドの拳は次々に幸多へと降り注いだ。流石コロッセオの『覇者』というべきか、飛んでくる拳も単調な軌道ではなく、フック気味のものであったりまた下から上へのアッパーのようなものも織り交ぜたりと、逃げ惑う幸多に拳をぶつけるべく多彩なバリエーションで攻めていた。幸多はそれらの攻撃を全て紙一重でどうにか切り抜けるしかなく、自分が攻める隙は一切貰えない。
「おいおい、逃げてるだけじゃ勝てねえぜ? つっても、逃げるだけで必死なのは無理もねえけどな」
戦闘開始から二分、ギバルドは余裕の表情で語った。ギバルドにとってはまだまだウォーミングアップ程度、本番はこれからといった様子だった。
「はあ……はあ……」
対する幸多は膝に手をついて息を切らし、頬からポタポタと汗を垂らしていた。魔術を扱うために二週間ジョギングなどを行い体力作りにも励んでいたが、まだまだ体力不足なのは否めない。瞳は未だ死んでいないものの、再三にわたる拳の接近で鎧もボロボロとなり、見るからに限界が近づいている幸多の姿に、ギバルドは呆れながら言う。
「なんかよお、弱いものいじめしてるみてえでこっちとしたら心が痛むっつうか……俺としたらもういいからよ、棄権してくんねえかなあ?」
対する幸多は、手の甲で頬の汗を拭き、体勢を直立に戻すと、
「……まだ、やれます」
「……はあ」
ギバルドは嘆息して首をポキっと鳴らしてから、声音を変えて言った。
「まあいいけどよーーこの一戦で一生立てなくなっても恨むなよ」
刹那、原っぱの大地を蹴って幸多に肉薄。同時に、空気を切り裂く轟音を響かせながら拳を突き出した。
「ーーふっ!」
幸多は短く息を吐き、両足に力を込めて横っ飛びで避けた。その後、ごろんと前回りを経由し両足で着地し、ギバルドの追撃を走って距離を離し逃れた。
「この……!」
避ける、かわす、逃げる。あまりにも非戦闘的な幸多に行動に、さすがにギバルドは苛立ちを見せ始めていた。
「男ならしっかり戦え! 戦わないならやめちまえ!」
こちらに背を向け走り続ける幸多に吠えると、幸多は顔だけギバルドに向け、
「早く勝負を終わらせたいなら僕に一発当てれば終わりますよ。当てることができたら、ですけど」
「ーーッ!」
分かりきった挑発だったが、そんな挑発が言える余裕が残っていることがギバルドは許せなかった。
「じゃあ、当ててやるよッ!」
ドカンと周囲に葉や土が飛び散る程に地面を蹴り出しギバルドはロケットのごとく幸多に迫り、そのまま足裏を向ける。これまではハンデの意味もあって攻撃は両手の拳のみに限っていたが、もうその必要はないと両足の解放に至った。
凄まじい勢いでギバルドの飛び蹴りが接近ーーそれを、幸多は倒れ込むようにして地面に伏せてやり過ごす。
「ちっ!」
ギバルドは空中で体勢を変更、両足で着地後ザザザと擦って勢いを殺しながら舌打ちを鳴らした。
ギバルドの中で、今のは確実に当てにいった一撃だった。ギバルドは長年のコロッセオでの戦闘経験で、相手を仕留める攻撃のタイミングや術を見極める力を持っている。経験からの判断では、今のタイミングで全力の飛び蹴りを繰り出せば、逃げることに集中していた相手を仕留められたはずだった。が、結果は伏せられてまたも失敗。終わらせようとした一撃は不発に終わり、それは自分が判断を誤ったことを意味していた。
ーーいや……待て。
今のは、果たして本当に判断を誤ったという結論で良かったのかとギバルドは考え直す。思えば、ここまでのギバルドの攻撃は掠めてこそいたが、幸多の体にクリーンヒットすることは一度もなかった。飛び蹴りとは違い、必ずしも仕留めにいく一撃ではなかったものの、だからと言ってわざと外していたわけでもない。しっかり相手を狙って放っていた攻撃の数々は、全てことごとく避けられ、逃げられていた。安安と潜り抜けられるほど自分の攻撃は荒くなかったはず。コロッセオで戦ってきた奴らが相手の時は、防御されるにせよここまでで確実に一発は当てている、全てを避けたやつなどいない……では、目の前の人間はなぜ回避出来ている?
つーっと、ここで初めてギバルドは背筋に汗が伝う感覚をおぼえた。今まで無抵抗に追い詰められていると思われていた相手が何かを秘めているかもしれないことに気が付き、心拍数が急上昇する。
「なあお前、一体何をしているんだ?」
試しに直接訊いてみると、幸多は疲れ切った表情でわずかに口角を上げ、
「何をしているって何です? 別に何もしてないですよ」
否定したが、絶対に何かやっている。それこそ相手は魔術師なのだから、魔術と呼ばれるものをかけているに違いない。
確信したギバルドは今までのような一方的に追い詰める攻撃ではなく、幸多の『仕掛け』に警戒心を持ちながら探るように拳や足を繰り出す。幸多はそれらをやはり体に触れるか触れないかの寸前で避けていく、向かって来る攻撃の数が減った分回避しやすくなっているようだった。
「っあああ!」
いくら数を打ってもカラクリが見えてこないことに、ギバルドはその場で軽く地響きが起こる程に大きく地団駄を踏んだ。もはや幻を相手に戦っているのではないかと思わされるほどに拳は空を切っていたが、幻であればわざわざ避ける必要はなく、本体が攻撃を仕掛けてきていいものをその気配は全く見受けられない。となると、目の前の相手は幻でもなんでもなく生身の肉体を持つ人間であるとこれまでの経験が訴えていた。
だが、同時に疑心感も生まれる。自分の経験が正しいのであれば、なぜいつまで経っても攻撃が相手に当たらないのかと。想定とは異なることが起きているということは、そこには必ず自分が経験したことのない何かがある、ということは今までの経験も容易に信じることはできないのでは、と。
そう思うも、すぐに首を振った。自分自身を疑っても仕方がない。今までにない経験ならばここで覚え、攻略すればいい話。そのために、まずは相手をじっくり観察することから始めよう。掴めるかは分からないが、攻撃しているときには見えなかったものも見えてくるかもしれない。
ギバルドはこれまで行っていたとにかく距離を詰めて相手を潰しにかかる攻撃的戦法を一度止め、初めて自ら距離をとって待ちの姿勢をとった。幸い相手からの攻撃はこれまで皆無であり、これによって攻守の立場が切り替わる可能性は低い。もし相手が攻撃に向かって来るとしても、それはそれで隙を見つけるチャンスになる。
さあ来い、倒せるものなら倒してみろと、ギバルドは片手で幸多にサインを送った。
ーーここまでは、なんとか想定通りに進んでくれた。
ギバルドのサインを見て幸多は内心安堵し、この世界では五十年間顕現していないとされている神様に対し感謝した。ここまでの流れは計算通りではあったものの、かなりギリギリで賭けの色が濃いものだった。
ギバルドは幸多が魔術によって自分の攻撃を避け続けているのではないかと疑っているが、悲しいことについ先程初めて師匠から魔術を一つ教わったばかりで、回避に使える魔術は会得していない。かと言ってここまで全ての攻撃を避けているのは偶然というわけではなく、しっかりとした理由がある。
フェイント。
スポーツ心理学の分野では、様々なスポーツにおけるフェイントについて研究している論文も存在する。眼球運動、筋肉弛緩、重心移動などによって選手は相手を騙し、逆を突く。幸多はこのフェイントの研究資料の記録や実際のスポーツ選手の動きを参考にし、運動に全く興味がないにもかかわらずある程度自分の動作を誤認識させやすいフェイント動作を数年前から心得ており、実際に様々な体勢におけるそれを自身の身体に叩き込んでいる。そのため、今回も動き出す前にフェイントを入れて動く方向をギバルドに誤認識させることで直撃を相手から避けさせていたのだ。幸多は一人暮らしということもあり、自分の身を守る術として必要と判断し身に付けていた技だったが、それが異世界においてついに役立った。
それでも、いくら心得ているとはいえ所詮幸多は戦闘の素人。フェイント動作が浅く、こんなわずかな動きで人を騙せるのかというレベルであったが、この点は相手が長年コロッセオで戦闘を繰り返してきていた『覇者』であることが逆に功を奏した。普通の人間が目で追えないような動作もギバルドには追えてしまい、また見過ごすこともできない。浅ささえ取り除いてしまえば幸多のフェイントは誤認識させやすい研究された動きであるため、血気盛んな格闘家たちが集まるコロッセオにおいてここまでフェイントだけに特化した相手と対戦した経験がなかったギバルドは騙され続けてしまっているわけだった。
しかし、フェイントのみでかわし切れるほど『覇者』は甘くない。事実序盤は完全には騙せておらず僅かに攻撃を食らい、厳密に言えばかわしきれていなかった。にもかかわらずギバルドが魔術によるものと誤解してしまう程にクリーンヒットを避けれているのはもう二点付加要素がある。
一つは統計学の利用。統計学と心理学は関係がないようにも思えるが、t検定や分散分析といった統計分析は心理学の研究において不可欠なものであり、むしろ切っても切れない仲である。それを理解している幸多は統計学にも勉学の幅を伸ばしており、特に幾度かの攻撃を観察した後半からは頭の中で何通りもの統計分析をかけてギバルドの攻撃フォーム一つ一つに少しでも多くの関連性、法則性を見出し、行動を先読みしやすくしていた。
もう一つはプロファイリングだ。犯罪心理学で取り上げられるものだが、実際の言動などから性格を読み取り、そこから行動傾向を推察する。これにより、ギバルドの格闘スタイルを予想ながらあらかじめ頭に入れることができ、それに基づいて動くことで回避の確率を上げていた。いくら相手が化け物のような戦闘力を持っていても人間であることに変わりはなく、心さえ持っていれば幸多の知識は通用する。
二つはともに付加要素であり、あくまで攻撃を避ける確率を上げているに過ぎない。よって絶対性はないが、これらを組み合わせて効果的に活用することで、フェイントのみでは絶対に対処しきれない、またフェイントを行えない状況に陥っても乗り切ることができ、強者を相手に未だに向かい立つことができていた。
そして攻撃をかわし続けていれば、意外と相手の能力を危険視する用心深い性格でもあるギバルドは不審に思い、必ず一度は様子見で受け身に回るだろうという推測も的中。ここまでは順調、細い綱のような道筋ではあったもののちゃんと渡りきれた。
だが問題はここからだった。今やっているのはどちらかが戦闘不能になるまでの格闘勝負、ただ避けているだけでは勝てはしない。だからといってむやみに物理攻撃を入れてもろくにダメージは見込めないし、持久戦に持ち込まれても圧倒的に不利。そもそも格闘技におけるステータス値全てに大きな差をつけられているため、真っ向からの勝負では全く勝ち目はない。
ということで、幸多が勝つ手段は……一つ。
一つだけ、あるにはある。それは師匠から初めて教えてもらった魔術。名前の通り、相手に恐怖を与えて精神面にダメージを与えるもの。
ーー【恐怖の魔術】。その一択のみである。