囚人のジレンマゲーム【後編】
「お、おい……正気か!?」
幸多の行動に思わずバルガスは訊ねてしまった。対する幸多は「あちゃー」と天を仰ぎ、
「いやーバルガスさんも『協力』で来てくれると信じてたんですけどね、やられましたよ。やばいなこれからどうしよー」
だが言動とは裏腹に幸多の声音は恐ろしいほど冷静で、その不気味さにバルガスは飲まれそうになるが、太ももを拳で殴って持ちこたえる。
ーー何を恐れているんだ、このセットで俺がリードしたんだぞ? このままゲームを進めれば俺の勝ちなんだ、集中しろ!
一セット目終了。
【逃がした囚人の数】幸多:ゼロ バルガス:一
「……っ! それでは二セット目。双方は、金貨提示の準備を」
セラも幸多の異様さに一時審判という職務を忘れていまっていたが、間もなく我に戻り二セット目の開始を告げた。
バルガスは金貨をテーブルの下に隠したが、何も変えずに待機する。二セット目も出すのは『裏切り』。これを出していればリードを失うことはない、負けることはないと心の中で自分自身に言い聞かせながら、セラの指示を待つ。
「では、双方同時に金貨をテーブルへ!」
声と同時にバルガスはバチンと金貨を机に叩きつけた。勝負はもちろん、気持ちでも異世界の相手に負けるわけにはいかない。きっと幸多が醸し出しているものはハッタリで本当は余裕などどこにもないのだ、ならば奥底に眠る本音を引きずり出してやるとバルガスは幸多を威圧でねじ伏せようとしていた。
にもかかわらず。
「あーやっばいなーまたやられちゃったよー」
幸多はやはり言葉とは真逆の声を発し、金貨の表ーー『協力』を提示していた。
「! ……おい、やる気がないなら下りろ。俺も決して暇なわけではないんだぞ」
「えー酷いですね、ちゃんと色々考えてやってますよ? そう言ってるバルガスさんもやる気あるんですか? 二連続『裏切り』とかなんの面白みもない戦法使っちゃって、負けちゃっても知りませんよ?」
「なん……だと……!!」
恐怖を通り越し怒りの感情が芽生え始めていたバルガスに、幸多は好戦的な態度で応対。反射的にバルガスは自分の右手を幸多の方へと伸ばし始めていたが、セラの面前であることを思い出し情動を抑え込んだ。それから互いの囚人の人数を確認して気持ちを落ち着ける。
二セット目終了。
【逃がした囚人の数】幸多:ゼロ バルガス:二
うんうんと、バルガスは小さく頷いた。
ーーそう、俺は今勝っているんだ。俺が圧倒的優勢の立場。逆にやつは絶体絶命の状況、俺を惑わせることしかやることが残っていないだけ。そうだ、そうに決まってる。もう点数は二人分離れた。これでもう勝ちは決定的、俺が『裏切り』を出し続けていれば、やつが勝つ可能性は……。
自らの勝利を確信していた中で、ふとバルガスはあることに気が付いた。何度か計算し、間違っていないことを確認した上で幸多に訊いた。
「そういえば聞いていなかったが、このゲームでもし引き分けが発生した場合、賭けはどうなるんだ?」
バルガスの問いかけに、幸多は何やらわざとらしく「んーそうですね」と口元に手を置いて考える素振りを見せた後、
「まあ、引き分けなんで、賭けはなしってことじゃないですか、やっぱり。 ねえ、姫様?」
「えっ!? あ、そ、そうですね。お互いに変化なしとするのが普通でしょうね」
「ですよね。じゃあバルガスさん、審判もそう言っているので、そういうことで」
「…………」
バルガスは無言で相手にバレないように唇を噛んだ。この二セット目終了時という遅すぎるタイミングで、幸多の狙いに見当がついてしまったからだ。
そして、この時バルガスに見えた未来は現実のものとなる。
「ーー双方同時に金貨をテーブルに」
三セット目。バルガスの『裏切り』に対し、幸多ーー『協力』。
「ーー双方同時に金貨をテーブルに」
四セット目。バルガスの『裏切り』に対し、幸多ーーやはり、『協力』。
「それでは五セット目。双方は、金貨提示の準備を」
五度目であり、最終となるセットが開始。ここで今までのセットであればすぐに決めて提示していたバルガスだったが、この最終セットで初めてどちらを提示するか迷っていた。
バルガスはもう一度今の囚人の人数を確認する。
【逃がした囚人の数】幸多:ゼロ バルガス:四
バルガスの圧勝。基本的に一セットのうち一人しか逃がすことができないこのゲームで、四という人数差は天と地、またはそれ以上の差がある。
それなのに、バルガスの心に潜む思いは、一つ。
ーーやられた。
なぜか。それは、追加ルールの存在が関係している。
二つの追加ルールのうちの一つ。
『一セット目から五セット目までずっと『協力』を出し続けた場合は、結果に関係なく最後一気に五人の囚人を逃がせることにします』
バルガスはこの追加ルールを自分の中から早々に捨て去っていた。それは一つにこの追加ルールの存在をもってしても『協力』の意思表示が有利と思えなかったためと、もう一つ、バルガスは幸多が自分を隊長から退けるために、勝利を手にするためにゲームを持ちかけてきたと思い込んでいたためである。仲間だと認めるつもりはないと言い切った自分を邪魔に感じ、辞めさせようとしているのだと。だから、勝ちにくる相手への対応としてバルガスも『裏切り』を提示し、慎重に様子を見ていたところがあった。
だが、前提が間違っていた。幸多は初めからバルガスに勝ちにきていたわけではなく、引き分けにきていたのである。
仮に幸多が次も『協力』を提示し、バルガスが『裏切り』を提示したとする。通常であればこのセットも囚人を逃がすことができるのはバルガスのみで、他に何もなければゼロ対五でバルガスの勝利となるが、追加ルールによって五回連続で『協力』を提示した幸多はボーナスとして一気に五人の囚人を逃がすことができ、結果は五対五。勝負は引き分けとなり賭けはなし。つまり、バルガスが隊長から退くことはなく、またーー幸多が王宮専属魔術師から退くこともない。
幸多の本当の目的、それは自分の王宮専属魔術師という職を守ることにあったのだ。
「では、双方同時に金貨をテーブルへ」
セラの提示指示の後も、バルガスは中々金貨を出せずにいた。それに対し幸多は「あれ?」と、
「どうしたんですか? 今まで僕より早くに出してたじゃないですか、何か迷うことでもあるんですか?」
幸多はすでに金貨を手で覆い隠しながらテーブルに載せていた。顔はポーカーフェイスを保っているが、うっすらとこちらを馬鹿にし嗤っているようにも見えた。
「……くそがッ」
バルガスは表情に悔しさを滲ませながら、金貨を『裏切り』のまま提示に移る。元々はセラに自分の知識を示し、幸多は必要ないことを証明するためにゲームに乗った。これでは引き分けとなって結果的に幸多が王宮専属魔術師となることを容認することにも繋がるが、かといってここから幸多に勝つためにはリスクを背負わなければならなかった。
追加ルールの二つ目。一セット目から四セット目まで『裏切り』を提示した後に五セット目で『協力』を提示し囚人を逃がすことができれば、プラス十人の囚人を逃がすことができる。だが、もし逃がすことができなかった場合は、今まで逃がしてきた囚人は再び逮捕されてしまう。
ここまでバルガスはずっと『裏切り』を提示してきている。もし次にバルガスが『協力』を提示し、幸多が『協力』を提示した場合はプラス十人解放の追加ルールが発動し、六対十五で幸多に勝つことができる。だが、幸多が『協力』ではなく『裏切り』を提示した場合は、一対ゼロでバルガスの負け。つまり隊長を辞めなければならなくなる。
これはバルガスにとって余りにもリスクが高すぎた。状況だけ見れば幸多も後がないため『協力』でボーナス五人を狙ってきているという見方もできるが、間違いなくこの状況に自分を陥れることを計算していたことを思うと、『裏切り』でこちらの裏をかいていることも捨て切れなかった。
ならば、苦渋の決断ではあるが負ける可能性のない『裏切り』を提示し、このゲームを終わらせようとバルガスが掌からテーブルへと金貨を移動させようとしたその時、
「バルガスさん、もしかして『裏切り』を出そうとしてませんか?」
幸多の声が、寸前のところでバルガスの手を止めた。
その動きで幸多も図星と察知し、
「えー、ゲームを始める前に散々僕に対して色々と偉そうなこと言っていた人が、勝てる可能性を捨ててとりあえず負けるのだけは回避しようっていう弱腰で来るなんてなー。正直がっかりですよ僕は」
「ーーッ!!!!!」
安い幸多の挑発。だが、今のバルガスにはそれで十分だった。
「幸多さん、品格のない発言は慎んでください」
審判のセラが幸多に注意を入れるが、時すでに遅し。
「………………………………………………ぉぉぉぉぉ」
始まりは、窓から風でも吹き込んでているのかと思う程度の囁くような声であったが、
「ぉぉぉぉぉぉぉぉおおおおおおおおおおおおお!」
次第に、音量は上昇していき、
「おおおおおおおおおおおおおおおああああああああああああああああああ!!」
やがて大声は絶叫へと変遷し、
「ああああああああああああああああああああああああああああああああああああアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアア!!!!」
ついにバルガスは、発狂した。
「ちょ、バルガーー」
「アアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアア!!!!!」
セラが興奮を抑えようと試みるも、バルガスの迫力に気圧され後退する。
「アアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアア!!!!!!」
全身で咆哮を轟かすバルガスは、椅子を吹き飛ばすように立ち上がり、拳を持ち上げた。目線の先は、今も座ってゲームの対戦相手を凝視する幸多。
「幸多さん逃げてください! 誰か、誰か幸多さんをーー」
バルガスの声に反応して部屋の様子を伺っていた数名の兵士たちが、セラの声に幸多の元へと駆け始めるも間に合わなかった。バルガスの拳はそれよりも早く幸多の顔面ーー
ーーの寸前で止まり、テーブルの上に降りた。
それからバルガスはすぐに拳を解き、中から金貨を落とす。裏側ーー『裏切り』の状態で金貨はテーブルの上に置かれた。
それを見て幸多は柔和な笑みを浮かべると、それまで金貨の上に乗せていた手をどける。下からは表側ーー『協力』の金貨が現れた。
『協力』と『裏切り』。この瞬間、五対五の引き分けが決定した。
「……ふー」
つい十秒前まで声を荒げていたとは思えないほどにバルガスは静かに息を吐いた後、戸惑う兵士たちの間を抜けて部屋の外へと歩き出すも、扉のすぐ手前で立ち止まり、背中を向けたまま幸多へ訊ねた。
「教えろ。お前はなぜこのゲームで『協力』を出し続けていたんだ? そもそも最初から引き分けを狙っていたのであれば、ずっと『裏切り』を出し続けていればもっと簡単に達成できていたはずだ。それだけじゃない。最終セット、もし俺がお前の挑発に乗って『協力』に変えていたら、お前は負けていたんだぞ。挑発することまでがお前の計算だとしたら『裏切り』ではなく『協力』を提示したことはいささか疑問だ。何がお前をそうさせていたんだ?」
ボルガスは『協力』を出すことによってボーナスが得られる追加ルールを聞いたことで、てっきり『協力』と『裏切り』は対等とはならなくとも以前よりは格差が縮まったのだと思い込んでいたが、実際は『裏切り』を出し続けていれば負けることはないという点は変わっていなかったことをゲームの中で知った。当然これは追加ルールの提案者である幸多が知らないはずもないのに、なぜ幸多はあえてそれでも『協力』を出し続けたのか気になったのだ。
こちらへ振り向くことのないバルガスに、幸多は至極真面目に答えた。
「ボルガスさんを信じる思い、ですかね」
「はあ!?」
予想の遥か上空を飛び立つ回答に、ボルガスはたまらず振り返った。
「おい、年上をからかうのも大概にしろよ。今度は止めずに振り抜くぞ」
「おーそれは怖いです。でも、冗談じゃないですよ今のは」
幸多は笑いながら話していたが、瞳は本気であることをボルガスは感じ取った。
幸多は続ける。
「ボルガスさん、今僕らがやっていた囚人のジレンマはですね、人間の社会を表しているゲームなんです。よくありませんか『本当は互いにそれを選んだほうが得なのに、それを選ぶことができず結局互いに損をする選択をしてしまう』ということが?」
代表的な例が、第二次世界対戦後に起こった冷戦。この時代、アメリカとソ連は互いに核兵器開発に奔走していた。本当は双方ともに核兵器を廃棄するという『協力』と『協力』の組み合わせがあったはずであるにもかかわらず、両国は大量の資金を核兵器へとつぎ込んでいき『裏切り』と『裏切り』を続けた。
囚人のジレンマはそれだけでなく、企業の値下げ競争といったものにも当てはめて考えることができる。このゲームはそんな人々の身近にも多く存在するーークソゲーなのである。
「最良の選択が出来ないなんて、実に惨めでつまらないゲームだと最初に思いませんでした? 負けないためには『裏切り』を続けなければならないなんて、全くあきれてしまうくらいにこのゲームは社会、さらに人間の本質を露わにしていますよ」
と、ここまで否定的に話していた幸多だったが、ここで「だけれど」という逆接の接続詞を用いた。
「僕はそれが悪いとは思わないんですよね。だって、何かを守るためにベストではない選択をしなきゃいけないことぐらいあるじゃないですか。むしろそれをせずにただベストだけを追い求め、誤って最悪の道を進んでしまう方が頭がおかしいと思います。集団の長には絶対に置きたくない人材ですね」
幸多はバルガスを直視せずに、次を言う。
「だから、今回バルガスさんとゲームをして、あなたがいかに優秀な隊長であるかを直に認識しました。あなたは私の挑発で明らかに冷静な判断力を失っていましたが、そんな中でも『協力』という目先の勝利を選ぶことなく、プライドを捨ててまで『裏切り』を選択し、引き分けの道を選びましたーー敗北という最悪の道へと足を進めないために。これは人々の長にとって必要不可欠な能力だと思いますし、バルガスさんはきっとその能力を持っている人で隊長であるべき人材であると僕は信じていたんです。だから、結果的に僕もあなたも辞めずに済んで心から良かったと思っていますよ」
最終セット、バルガスは『協力』と『裏切り』どちらも選択し難い状況ーージレンマの中で、ベストではなくてもベターと思える選択をした。これは決して悪いことではないと、囚人のジレンマが、社会が、そして人間が決してクソゲーではないと幸多は信じ、それがゲームを通しての『協力』の意思表示へと繋がったのだ。
「……本当にそれだけの理由で『協力』を選び俺を挑発していたとしたら、お前は変人だよ」
「よく言われます」
「だろうな」
ふんと鼻を鳴らしほのかに微笑みながら、バルガスは部屋の外へと出て行った。