カフェ『霧隠れ』 開店一周年記念日のできごと
『もうすっかり定着した感がある嫌煙措置。わがままな民衆を抑えきれない政治家の大失敗ですね。
タバコは発ガン性が高いだの、臭いだのと悪口ざんまい。公共の場では喫煙できなくなってしまいました。
そのくせワインは健康的だとか、税金を抑えたビールもどき、だとかはおかまいなしです。
でもよく考えていただきたい。国鉄精算のための資金として愛煙家は喫煙しない人にくらべて多額の援助をしているのです。
生産農家の収入がなくなり、配送業者が職を失い、税金が見込めなくなったら、それらはすべて国の予算を圧迫するのです。
旅行にでも行こうものなら、バスも鉄道も全面禁煙。なのに酒やビールは当たり前。飲まなきゃ損という風潮です。
嫌煙権を声高に叫ぶなら、嫌酒権だって認めなさい。
バスも電車も禁酒にしなさい。地域全体を禁酒にしなさい。
新幹線をごらんなさい。酔客が大声で社内販売の女性をからかう姿がよくみられます。
そして、国鉄清算の費用を上乗せしなさい。
それをせずに片手落ちの状態を続けるのなら、国鉄精算に協力する義理などどこにもありません。つまり、税金で賄うか、料金値上げしかないのです。
嫌煙を叫ぶ人は、それを率先して引き受ける覚悟がありますか?
下は中学生? から、上は片足棺桶まで、列車に乗らなくても強制的に協力させられています。
権利意識をもつのは大切ですが、限度を越えた権利意識は凶器そのもの。
煙が害? だったらディーゼルエンジンを廃止しなさい。ガソリンエンジンを廃止しなさい。そっちの方がよほど毒です』
大都会の中心街。大通りに面して銀行や百貨店が軒を連ね、商社や証券会社の店舗もにぎやかしい、活気に溢れた地域である。商店や卸問屋の集まった一角もあり、平日はもちろん休日も多くの人が行き交うところでもある。が、皮肉なもので嫌煙意識というものがたかまってきて、この地域一帯が禁煙指定されてしまった。
そうでなくてもオフィスの禁煙が徹底され、愛煙家はその都度建物の外に出なければタバコを吸うことができなくなった。
いくら一帯が禁煙指定だからといっても敷地内は除外されていたので、かろうじてタバコを吸うことはできる。しかし、玄関先や裏口で従業員がわびしく煙を吐いているのは体裁のよいものではないのだが、喫煙室を設置する勇気をもった経営者はいなかった。
そんな哀しい現状を憂い、集客をあてこんで一つの店が新規開店した。
その名は、『カフェ 霧隠れ』
カフェという名が示すように、喫茶店である。酒も提供はするが、店内は喫煙のための場所。そういう謳い文句で営業している店が、めでたく一周年を迎えた。
運よく金曜日を定時で切り上げられた俺は、そそくさと店にむかった。
店の入り口は、一人がやっと入れるくらいの小さなドアである。その横に、先のアピールがでかでかと掲げてあった。
「てやんでぃ、馬鹿野郎!」
店の前に立つと、客は通りを向いてそう叫ぶ。それが入店時のルールである。
入り口のボタンを押すと、人一人がやっと通れるほどの入り口が開いた。一歩入れば、店内は静かな音楽が床を這い、声高に話し合う人など一人もいない。
「これは水島様、お一人様ですか?」
からだにぴったりフィットしたスーツ姿の女給が入り口に佇んでいた。
この店に通い始めて九ヶ月たち、ようやく少し物怖じせずに言葉を交わすことができるようになった女性だ。糸香という名と知ったのも、まだほんの一月ほど前のことである。
まだ大学を卒業していくらもたっていないような年齢なのに、男の視線に動じない力のある眼をしている。そのくせいつもにこやかで、たえず値踏みされているように感じていた。
挨拶に毛が生えた程度のことしか話さないのだが、崩れた言葉はまったくなく、ゆっくりめに話すことがとても安らぐのだ。
「ごめんなさいね、どうもこういう店は気後れする仲間ばかりで、今日も一人なんだけど、かまいませんか?」
気後れしているのは俺自身だ。足繁く通っているのに、糸香に声をかけられると、とたんに純情な高校生に戻ってしまう。きっと相手のほうが年下だろうが、変に緊張してしまい、言葉遣いまで丁寧になってしまう。
今だって、左目尻の泣き黒子に吸い寄せられている。が、いくら見とれても、彼女は、俺が伴侶にできるような存在ではないのだ。
「とんでもありません、大歓迎ですよ。今日は、開店一周年記念日です。こういう日にご来店くださり、ありがとうございます。では、水嶋様の専用席にご案内します」
かるく会釈した彼女は、キビキビとした足取りで案内に立った。
程よく明りを抑えた店内を彼女は奥へ進む。
コツコツコツコツ
板張りの床を刻むハイヒールの音。
トレードマークになっているポニーテールが、彼女の背で左右に揺れる。
それを眺める楽しさは、しかし、今日は緩くウェーブをかけた髪を自然に垂らしているのでおあずけだ。そのかわり、今日は足首にキラキラ煌めく鎖をかけている。華奢に見えて着痩せを想像させる肉付きだ。それが、雪洞を模した灯りが点る通路を滑るように進むのを見られるだけでも、この店に来ただけの価値があるというものだ。
最近は、糸香に会うために来るのか、ゆっくりタバコを喫むために来るのか、自分でも曖昧になっている。
いずれにせよ糸香は、小粋な空間へ俺を誘う水先案内人なのだ。
彼女は、二つあるカウンターの一つに俺を導いた。一番奥まった目立たない席、天井から苔玉が下がっている俺の定席だ。
「あれ? 苔玉を取り替えたのですか? すいぶん小さくなって、だけど、若々しい緑ですね」
苔玉の違いにすぐ気づいた俺は、水とおしぼりを用意してくれている糸香に訊ねてみた。
「水島様、苔玉ではなくて、吊りしのぶというのですよ」
ちょっとだけ睨むような仕草で俺に向き合うと、きっと開店記念日だから俺が来店するだろうと、自宅から持ってきたのだと言った。
「へえ、そうなのですか。糸香さんの手作りですか、器用なんですね。じゃあ、前に提がっていたのも糸香さんの手作り?」
「そんな、誰にだって作れますよ。水島様、吊りしのぶを眺めるのがお好きなようですので」
糸香は照れたように手を止めた。たしかに、苔玉をぼんやり見ている時間が長いのだろう。
注文をさばいたり、伝票整理をしたりの仕事を苦痛に感じることが多く、指で突けばゆらゆらする苔玉に癒されていたのかもしれない。
それにしても、妙なところを見られたものだ。糸香の目には、阿呆に映っているのではないかと不安になった。
が、そんなことを心配してみてもはじまらない。糸香は高嶺の花なのだから。
「あのう……、今日はどなたかとお約束は?」
いきなり何を思ったのか、糸香がちょっと気後れした様子で早口になった。
「いいえ、誰とも約束なんてありませんよ。一服させてもらったら、まっすぐに帰宅します」
「そうですか、よかった。……あっ、わ、私、失礼なことを言ってしまいました」
謝るにしては嬉しそうに、小さな歯がこぼれた。
濃い茶のカウンターは天井の仄かな照明に照らされ、テラテラと光沢を放っている。
そして、隣との境目には等間隔に細かい穴が明けてあり、カウンターの向う端、つまり、バーテンダーの手元近くにも細かい穴が明けてある。その穴を結ぶ線の中が、俺に用意された場所なのだ。特に俺は、左隣には誰もこないこの席が好きだ。
「何にいたしましょうか」
蝶タイを締めたバーテンダーが、水の入ったグラスを差し出した。そして、メニューをそっと添える。
国産、舶来、銘柄不明。様々な銘柄のタバコがメニューに並んでいるが、まずは飲み物で人心地つけてから本命を注文するのがセオリーになっている。だから店の常連は、せかせかとコーラを注文する。さんざんタバコを我慢させられて、居ても立ってもいられぬ状況の客ばかりなのだ。
初めて来た時はいきなり「エコー」を注文したのだが、バーテンダーは微笑むばかりで応じようとはせず、灰皿すら出さなかった。安物を注文したのがいけなかったのだろうかと戸惑っている俺に、そっと教えてくれたのだ。
「お客様、当店では、まず咽を湿していただいてからでなければご注文をお受けしません。コーヒーでも紅茶でもけっこうですので、まずは寛いでいただかねば」
体の前で手を交差させたまま、彼はじっと俺の注文を待っていた。
まあ、喫茶店だと考えればすむことだと周囲を見回してみたら、誰もが判で押したようにコーラを飲んでいることに気付いた。そこで俺もコーラを一杯飲み干すと、バーテンダーが静かに近寄ってきた。
「ではご注文を。どの銘柄になさいますか? それとも、ご希望がありましたら、特別に巻くこともいたしますが」
そういう悠長なやりとりを楽しむ余裕のなかった俺は、無意識に胸ポケットからショートホープを取り出していた。
「お客様、大変申しわけありませんが、当店は持ち込みをご遠慮いただいております。そのかわり、あらゆる銘柄を取り揃えておりますし、お好みのブレンドも承っております。そのようにご承知ください」
そのようにして、店のしきたりを教えてくれたのだった。
「まずは、駆けつけの一杯をお願いします。とりあえず人心地がついたら、次はエスプレッソを飲ませてください」
俺がいつも注文するのは、他の客と同じくコーラである。それが一番手っ取り早くテーブルに載るし、すぐに飲み干すことができるからだ。
ぎっしりと氷を詰めた大きなグラスに褐色の液体が注がれ、コースターとともにそっと出てきた。暑いときなら咽も鳴るだろうが、こんな木枯らしが吹く日に飲みたいものではない。見るだけで寒気がするし、咽がつまるような感じもする。しかし、早く本命をいただくにはコーラが手っ取り早いのだ。
そりゃあミルクでもかまわないが、キンキンに冷えたミルクを一気飲みしたら腹が緩くなってしまう。本当はコーヒーが飲みたい。だけど猫舌の俺にとって、飲み干すのに時間がかかってしまう。そんな悠長なことをするよりも、手っ取り早くて安上がりなのがコーラなのだ。
「ピース、両切りをください。ダブルで」
鼻先にしぶきを浴びながら三口で飲み干した俺は、こみ上げるゲップを我慢しながら指を二本示した。
漆黒の頭髪をポマードでオールバックにした彼は、客の話し相手をしながらクリスタルの皿を丁寧に磨いていたが、俺の注文に愛想良く微笑んだ。
そして、少し大振りのコースターを敷いた上に、今磨いていた皿を載せた。次いで、お絞りの受け皿に懐紙を載せ、そこに両切りピースを二本とマッチを載せた。
巻紙の印字が上にくるよう、見事な心配りがされている。
右手でそっと摘んだタバコを灰皿の縁でトントンと弾ませ、葉を詰めてから火を点けるのが俺の好みだ。葉を詰めたところでどうということもないのはわかっている。しかし、ついやってしまう。
トントンと弾ませながら、左手はマッチを取り上げていた。
印字された方を口にするのもいつもと変らない。そして、マッチを一本引き抜くと短く擦った。
チッ、シュワー
微かな音とともに炎が上がる。それを両手で囲ってタバコに火を点した。
口の中いっぱいに煙をため、すぐに口を半開きにして適量を喫み込む。一口目からジーンとした痺れがこめかみをズリズリと這い上がる。手の甲から指先にむけて血が凍ってゆき、数瞬後にはそれが溶解するような酩酊感。この瞬間がなにより爽快なのだ。
苛ついていた気分がゆっくり鎮まってくるこの瞬間。
ここで慌てると良くない。慌てて吸えば目眩をおこしかねない。せっかく我慢していたのだから、なるべく長く味あわねば損というものだ。
二口目はからだが慣れてくる。少しくらい深く喫み込んでもどうということはないが、まだ慎重にしたほうが良いだろう。
「そろそろエスプレッソをお出ししてかまいませんか?」
半分ほどになってしまったタバコをどうしようか迷っていた時、バーテンダーが静かに微笑んだ。
「はい、人心地つきました。今ならコーヒーを楽しむことができます」
もう一服して消そう。その頃になってようやく他の客の様子を観察する余裕が出るものだ。それまでは、ただ早く喫みたい一心なのだ。
タバコを吸うのは素人の所業、俺たち粋人はタバコを喫みにくるのだ。
タバコを喫むという言い方を教えてくれたのも、バーテンダーだ。
喫煙、喫茶。喫という字はのむと読むのだと教えてくれた。せかせかと吸うのではなく、ゆったり寛いで喫んでもらいたいと教えてくれたものだ。
胸いっぱいに喫み込んだ煙を静かに吐き出した。
この香りは両切りピースならではの芳醇な香りだ。愛煙家でなくても好きな者が大勢いる。そんな香りのつまった煙が俺の座るわずか六十センチほどの空間に立ちこめた。
カウンターに明けられた小さな穴から天井にむけ、空気が噴出している。それはカウンターだけでなく、床からも噴出していた。要は俺の周りが空気のカーテンでトンネルになっているのだ。特にバーテンダーとを隔てるカーテンは強力なように感じられる。
だから彼は、一日中俺たちを相手にできるのだし、客である俺は隣の客が放つ匂いに邪魔されることもない。
俺がこの店を知ったのは去年の春だった。おもしろい店ができたと同僚に誘われて足を踏み入れたのが最初だった。
見るからにバーである。カウンターの奥には洋酒のビンが並んでいる。が、それにしてはグラスの数が少なかったし、酔客の騒々しい話し声もなかった。それより強烈な印象を受けたのは、陳列棚に並んだタバコの種類だった。そこには、どうやって手に入れたのか、すでに販売をとりやめている銘柄もあった。更には噛みタバコや嗅ぎタバコまで陳列してあるし、紙巻き器は現役で使っているらしい。
客の求めに応じて、銘柄の違う葉をブレンドするのがバーテンダーの見せ場なのだ。
しかし、そんなことを要求する客は稀で、俺など、まだ一度しか見たことがない。
安物のタバコを一本と飲み物で六百円ほどだから、高級な喫茶店で休んだのと変らないし、町では見かけない珍品を賞味することもできるのが何より魅力だ。
俺がもし中年だとしたら、奮発して葉巻を味わうこともできる。パイプや葉巻の甘い香りに包まれてコーヒーを楽しめば、時を忘れて小難しい本のページを繰るだろう。想像するだけで絵になる。が、まだ大学を卒業して間がない俺には生意気な妄想だ。しかし、そういう想像をかきたててくれる雰囲気なのを気に入って、以来通い続けたのだ。
何度も何度も通ううちにバーテンダーと気心が通じてくる。そしてある日、彼は悪戯小僧のような目をして俺に囁きかけた。
「皆さんに可愛がっていただいたおかげで開店半年を迎えました。そこで、ぜひ皆さんに喜んでいただこうと秘蔵品を用意しました。お一人三服までなのですが、おためしになりますか?」
そっと取り出したのは、時代物の煙草入れだった。
網代編みの筒から抜き出したのは銀の煙管。
彼は吸い口を丁寧に拭って、熟れた手つきで雁首に刻みタバコを詰めた。
そこで初めて刻みタバコを喫んだのだが、ただいがらっぽいだけだったのを覚えている。
「水島さん、お口に合いませんか? ウィスキーでいえば、これはモルトと同じですからねぇ。葉を刻んだだけで、香り付けすらしていませんから」
俺の顔を覗き込み、彼は朗らかに笑った。
昔の人はこんなものをありがたがっていたのかと、ちょっと呆れる。が、そんなことよりも、彼の手つきが粋に見えて仕方がなかった。喫み終えるたびに手に持った真鍮製の火皿に灰を叩き落し、煙管で味噌を擦るようにして刻みを詰め込む。最近では時代劇でもそんな細かい場面はなくなり、落語でしか仕草を見ることができなくなってしまった。それを、いとも簡単に彼がしてのけたのである。俺は、矢も盾もたまらずさせてほしいと頼んだのだが、穏やかな微笑みが返ってきただけだった。
それから半年、俺は二日に一度くらいのペースで通い続けている。
ある時、女給のことをウェイトレスと呼んだら、バーテンダーに大層困った顔をされたことがある。
「うちはカフエですので、女給という呼び方を使っています」
妙なこだわりのある店主なのだろう。カフェではなく、カフエと発音した。
そんな発音といい、店で働く女性を女給と呼ぶなんて、時代がかっているとしか思えない。そもそも、女給なるものの意味を俺は知らなかった。
「水島さんが知らなくて、当然です。明治の末に、喫茶店ができまして、それをカフェと呼んだそうです。そこには女性の給仕がいましてね、胸まであるエプロンをしていたそうです。ところが、昭和の初めには女給がお客に体をすりよせる接待を始めたそうで、それからイメージが悪くなってしまいました。女性の給仕ですので女給と呼んだそうです。そういえば作家の林芙美子は、女給をしていた経験をもとにした小説を書いていますね」
初めて知ることだった。
「当時の女給は、十五歳くらいから三十五歳くらいまで。一番輝く年頃だったのですね。初々しさと、こなれた妖艶さですか。おっと、水島さんには毒になることですね」
俺が糸香の名前を知ったのもその時だった。
「糸香さん、水島様がお帰りになるそうですよ」
偶然通りかかった彼女に、水島が帰ることを伝えたのだ。
彼女は俺のすぐ側までやって来て、またいらしてくださいね、と微笑んだ。
糸香。その名前を聞いて真っ先に連想したのは、彼女のしなやかな後ろ姿でも、微かに香る香水でも、繊細な微笑みでもなく……
ポニーテールをくくる紅の細紐だった。
ほんのたまにしか姿をあらわさないけれど、凛とし、溌剌とした印象をあたえる影の立役者だ。
そういえば、今日は開店一周年記念日だ。もしかしたら、また刻みタバコを喫ませてくれるかもしれない。
刻みタバコを知ってすぐ、俺はこっそりと豆煙管を手に入れ、自室で密かに使っている。最近では、古くなった財布を縫い直してケースを作り、持ち歩いている。今日だって、内ポケットに忍ばせているのだ。
しばらく冷まして、ようやく口をつけられるようになったコーヒーを一口含んだ。
ドロリとした苦味が清々しい。苦味の奥にほのかな甘みを感じる。店がしきたりに頑固なことの意味がおぼろげに感じられる。
こんなのを持っているぞと得意になりたい、話題の種になりたいと、俺は忍ばせている煙管を取り出して、残ったピースを雁首に突き立てた。
マッチに点火し、十分に軸が燃えるのを待って灰皿に置く。そこへ煙管を近づけるだけのことだが、時代劇の役者になったような気がした。
俺のすることに気づいたバーテンダーが、離れた場所で手を叩いて笑った。
「水島さん、こんな都都逸がありますよ」
笑いながら俺の前へやってきた。
「まだ青い、素人芸者玄がって、赤い顔して黄な声を出し。たしか落語の枕で聴いた都都逸です。水島さん、背伸びはいけません。もっと……、もっと身の丈に合ったことを」
止まらなくなった笑いに苦しみながら、またしても面白いことを教えてくれたのだ。
「水島さん、一周年記念日をこんなふうにお祝いしていただき、本当にありがとうございます。記念に、上得意様限定でお礼を用意してございますが、お受けいただけますか?」
きたっ、きっとまた刻みタバコを喫ませてくれるのだろう。心が躍った。
「今日は自家用車でお越しですか?」
なんとも奇妙な質問だった。
「いいえ、定時で仕事を終えたところですから」
「これから運転されるご予定は?」
「いいえ、特に予定はないから帰宅しますが、僕は電車通勤ですので」
「そうですか、それなら安心です」
俺の返事を聞いたバーテンダーは気持の良い笑顔をみせ、糸香を手招きした。
「糸香さんをどうするのです?」
糸香は入り口で来客を案内する女給で、この店の看板娘なのだ。
「今日は、上得意様ならではの企画を用意しました。背伸びをなさる水島さんへの特別サービスですが……、郭遊びの真似事を思いつきました」
彼は、いつもの営業スマイルとは違う笑顔になり、小腰を屈めるように俺を覗き込んだ。
「くるわ? もし間違っていたらごめんなさいね。難しいことがわからないのでお訊ねしますが、郭って、あの、時代劇にでてくる吉原みたいな? 遊郭のことですか?」
素っ頓狂な声だったかもしれない。だいいち、俺は酒を飲む店に出入りした経験などないのだ。いくらなんでも刺激的すぎる。
俺は、スーッと立ち上る紫煙を見、彼を見、そして糸香を見た。
「はい。なんでも吉原というところは、馴染みになるまで花魁を呼ぶことすらできなかったそうですよ。何度も通って馴染みになって、ようやく花魁が席に来たとしても、何もしてはくれませんで、お客が花魁をもてなしたのだそうです」
言いながら、彼はカウンターの下でしきりに手を動かしていた。そのときになって、ようやく糸香が席に来た。
考えてみれば、俺は糸香の後姿しか知らない。彼女がどんな顔で歩くのかも知らなければ、手をどう振って歩くのかも知らない。今は、席へ案内してくれるときとはどこか違う。いくらか俯きかげんだ。ほんの少し横に手を振り出す歩き方は初めて知った。
膝から下をきれいに振り出す歩き方ではなく、ためらうような、戸惑うような歩の進め方だ。足首をかざる金鎖も、ともすれば止まりそうになる。
俺の横で会釈をした糸香は、誰もいない右隣にそっと腰をおちつけた。
腰高の椅子にすわったからか、短めのスカートがずり上がった。短い横スリットのせいで、よけいに白い太ももがあらわになった。ご丁寧に俺の方を向いたものだから、目のやりばに困ってしまう。
いつの間にか空気のカーテンが止められていたのだろう。糸香が俺のほうに向き直ったとたんに、ほんのりとだが甘い薫りが漂ってきた。
「あらぁ、それはひどい。そんなに高飛車なのですか」
糸香の登場にドギマギしているのを悟られまいと、俺は話の続きを促すために相槌をうった。
「それが仕来りなのだそうです。花魁も人の子ですから、宴会を続けるうちに気心が通います。お客の人柄を見極めて、一夜を共にする覚悟ができて、初めて床入りができたんだとか。もっとも、私は見たことなんてありませんよ」
言いながら、バーテンダーは飲みかけのカップを脇へやり、ついでに灰皿も横へ置き直した。
「それじゃあ、お金がいくらあっても足りないでしょうに」
「そうですね、莫大なお金が必要だったそうですよ。そうして、花魁が心を許したことを伝える手段がタバコだったって、ご存知ですか?」
「いいえ、そんなことはまったく知りません。初めて聞きました」
そんなことを昔の人がしていたのか。面倒といえば面倒だが、なんと奥ゆかしいことだ。今はどうなのだろう、今でも風習として残っているのだろうか。
「花魁がタバコに火を移し、客に差し出すのが承諾のサインだったのです」
「へぇー、そういう面倒なことをしていたのですか」
「まあ、そうやって相手を値踏みし、情を通わせていたのでしょうね。……お糸さんも」
「おいとさん? 糸香さんじゃなくて?」
「ですから遊びですよ、今だけです。お糸さんも、水島さんを憎からず思っているようなので、特別に郭遊びをしてさしあげようと思い立ちました」
「はあ……、それは嬉しいことですが……」
俺には彼の言おうとしていることが良く理解できなかった。
「では、まずは盃事をしましょうか」
カウンターに朱塗りの盆が現れた。同じく朱塗りの盃台の上には鈍い光を放つ盃が重ねてある。そして、やはり朱塗りの銚子が載っていた。
「これは?」
「本来なら朱塗りの盃だそうですが、特別に銀盃を用意しました」
こんなに時代がかったことをするなんて、露ほども想像していなかった。用意された道具は、親戚の結婚式に招かれたときに、遠くから見た道具によく似ている。今しようとしていることが、婚礼の盃事とあまりにも似ているので、俺は急に居心地が悪くなった。 だけど、目を伏せれば糸香のふとももを覗いているように思われてしまう。
「どうぞ」
右隣に腰掛けた糸香が一番小さな盃を俺に持たせた。
くっきりとした眉、額にかかる髪、うすく紅をさした唇。艶々した頬は桜色に染まっている。化粧を感じさせないのも俺の好みだ。
糸香のしなやかな指が銚子を持ち上げ、俺の盃にほんの一滴の酒を注いだ。
彼がにこやかに右手をあおって干すように勧める。
盃なんかで酒を飲んだことのない俺は、両手でかしこまって口をつけた。
すると、糸香は盃を持たせたときの手つきでじっとしていた。
「水島さん、お糸さんにご返杯を」
糸香に盃を返せと彼が促した。
そんなことを全部で三度繰り返すと、盃事はそれで終りである。朱塗りの盆が下げるられて、こんどはタバコ盆がカウンターに載った。
「いずれ水島さんも正式な盃事をされるはずです。そのときは、巫女さんが酌をしてくれるでしょう。そうです、婚礼でもなけりゃ、こんなことはもうないでしょう」
「婚礼? 三々九度の盃ですか?」
「そうですよ。予行演習はどうでした? ドキドキしませんか?」
にこやかに笑いながら、彼は綺麗な袋をカウンターに置いた。
様々な色の混じった豪華な袋である。こういうのを錦と呼ぶのだろう。
糸香が錦の袋から取り出したものは、雁首と吸い口に金象嵌をほどこした長煙管である。
矢竹のように節の少ない黒斑竹の胴体。羅宇というのだそうだ。
盆の小引き出しを引いた糸香は、雁首を差し入れると左の指でタバコを詰めた。
そして、盆の取っ手を少し持ち上げると、流し目をくれながら炭の火をタバコに移した。とたんに眉をしかめる。
「どうぞ」
少しむせた。そのとき、唇から逃れ出た煙が糸香の顔を撫でながら天井へ吸い上げられてゆく。糸香は、吸い口を指で形だけ拭い、煙管を俺に差し出した。
よく見れば目尻にじんわりと涙がたまっている。長煙管だから煙が目に入ることはないだろうに。……まてよ、糸香はタバコの経験がないのではなかろうか。だとすれば、糸香は俺のためにこんなことをしてくれているのだろうか。
おずおずとそれを受け取り、ためらいながら吸い口を口にした。
少し頬をへこませるくらいがちょうど良い。大きくへこませれば一度で燃えきってしまうからだ。そうして香り付けをしていない、タバコ本来の匂いとともに胸に喫みこんだ。
こめかみを這い上がる痺れが心地良い。糸香の口移しだから余計だろうか。
もう一服すれば、もうほとんど燃え尽きてしまう。
紫煙の色を見ながら、バーテンダーが詰め替えの合図をした。
糸香は煙管を手にし、灰吹でポンと火皿の灰を落とした。そして、俺が咥えた吸い口をためらいなく口にし、ふっと息を吐いた。
火皿の灰を吹き飛ばした糸香は、タバコの詰め替えをする。
またしても、流し目をくれながらうすく紅をさした唇に吸い口をはこび、泣き黒子の下のふっくらした頬を少しへこませた。
ポッと赤い火が点る。やっぱり糸香は苦そうな表情をみせた。
彼女は顔を背けて煙を吐き、そして今度は、吸い口を拭わずに差し出した。
「水島さん、これは商売ぬきの話ですが、糸香さんは水島さんに惹かれているのです。大学を卒業してまだ二年目ですが、落ち着いた娘さんですよ。水島さんとは年齢もお似合いだと思います。今日はもう上がりの時刻ですので、もしよろしければ、これからデイトをされたらいかがですか? なあに、突然のことだから懐具合が心配でしょう。喫茶店でお茶を飲むだけでかまいません。もっとも、水島さんがどなたかと交際されているのなら諦めます。いまどき珍しいほど純情な娘さんですのでね、特に、女にだらしない男は願い下げです」
意外な言葉だった。小さな衣料品問屋に勤める俺は、学生時代を通して女性と親密になったことなど一度としてなかった。それに、糸香のキビキビした身のこなしにホレボレしていたし、話し方の速さや落ち着いた言葉遣いに好感をもっていた。だけど、女性と触れ合う経験がなかったのでただ憧れるだけだったのだ。
俺に異存のあろうはずはなかった。
「僕でよければぜひ!」
俺の返事を聞いた糸香は、はっとしたように俺を見つめ、首筋まで朱に染めながらうつむいた。頬に額に手を当て、なんということをしてしまったのかと恥じ入っているようにさえ見えた。店先での落ち着きや、自信に満ちた仕草はどこへやら、かわりに、若さを感じさせる恥じらいをみせている。
俺がどんな返事をするのか緊張していたのかもしれない。俺のが答えるのと同時に、きれいに揃えていた膝が緩んだことにも気付かぬようだった。
「糸香さん、膝。大胆というか、はしたないというか、私だって狼になってしまうよ」
バーテンダーにからかわれてハッとしたように膝を閉め、慌ててスカートの裾に手をやった。
「すぐに着替えてきます」
せっかくの煙管をへし折るほどに握りしめた糸香は、はにかみながら控え室に姿を消した。
「慌てなくていいからね。水島さんなら、ちゃんと待っていてもらうから」
咽の奥で笑うバーテンダーの声など、きっと糸香には届いていまい。
『カフェ 霧隠れ』開店一周年記念の今日、俺は新しい出会いをもらった。