父の値札と、金貨百八十枚
父の葬式が終わって四日目の朝、工房に最初の客が来た。
修理の依頼ではなかった。
黒い鞄を持った男は、入口で帽子を取り、雨に濡れた靴底を丁寧にぬぐった。撫でつけた髪のこめかみに白いものが混じり、濃い色の上着には細かな雨粒が残っている。鞄からは、工房の油とは違う、手入れされた革の匂いがした。
「少し早かったかな。待とうか」
帽子を胸へ下ろした男が、まだ片側しか開いていない窓を見た。ノアは戸に掛けた手を引いた。
「いえ、どうぞ。……起きていましたから」
ノア・フェルドは、父を手伝っていた頃の癖で、相手の手荷物を見た。黒い前髪の下で視線だけが先に動く。肘の薄くなった作業着も、爪の脇に残る油も、父の隣で修理をしていた頃から変わっていなかった。
何を持ち込まれたのか。割れた魔石か、動かない水くみ具か。
今は、鞄の中身が分かっている。
父へ事業の金を貸していた、ケスナー商会主のルドルフだった。男は作業台へ帳簿を二冊置いた。
一冊は商会のもの。もう一冊は、父の字で表紙に『借入』と書いてあった。
「まず、二冊の数字が合うか見よう。違う所があれば、そこで止めてくれ」
帳簿を開く指は、爪の形がいびつだった。
金を数えるためだけに使ってきた手ではないらしい。
ノアは父の椅子を勧め、自分は丸椅子へ腰掛けた。
雨が、軒先の欠けた樋を叩いていた。
この音も直さなくては、と思った。そのあとで、直すべきものが家の樋だけなら、どれほどよかっただろうと思い直した。
「元本残高、金貨百八十枚」
ルドルフが数字を読み上げた。
父の帳簿にも、同じ数字があった。
銀貨一枚で、一日の力仕事を頼める。
金貨一枚は、その銀貨が百枚。
目の前の借金を自分一人の日当で返すところまで考えて、ノアはやめた。
工房の仕事は、そうやって計算するものではない。それでも、胃は律儀に縮んだ。
「これだけの金を……父は、何に使ったんですか」
「大きいのは共同水路の揚水設備。それに旋盤と、魔石の検査器。資金難になってからの運転資金が残りだ」
ルドルフは用途を一つずつ指した。
その指が検査器の項目に触れたとき、ノアは壁際を見た。
布をかぶせた機械の形が、そこにある。
父はあれを買った晩、子どもみたいな顔をしていた。
今まで見つけられなかった小さな亀裂が分かる、と。
実際、持ち込まれた魔石の不良を見つけ、客の家で起きるはずだった事故を防いだ。
だから、全部が無駄な借金だったわけではない。
そのことが、かえってつらかった。
「水路の代金は、入っていないんですね」
「前金は入った。残りは検収が済んでいない」
「試運転の前に、洪水で水路が壊れた。……そのまま、なんですね」
ノアの声を聞き、ルドルフは契約書を近くへ寄せた。
「ああ。機械の不良だと決まったわけではない。ただ、この条件では、検収が済むまで残金を請求できない」
契約書には、父の署名があった。
働いた分は、そのうち払ってもらえる。
父はそう言っていた。相手も困っているから、と。
ノアは契約書を机に戻した。
洪水だけが悪いわけでも、父だけが悪いわけでもない。
ただ、事情を分けて考えても、今日使える金は増えなかった。
「先に言っておく。君の一生を、父親の借金の担保にするつもりはない」
ルドルフは、別の紙を置いた。
「事業を閉じるなら、建物と設備を整理する。預かり品は持ち主に返す。君は、残った借金を個人で背負わずに済む手続きを選べる」
「……閉めずに、続けるとしたら?」
「事業として、資産と借入を引き継ぐ契約をする。その場合も、返済の責任を負う財産の範囲は、ここに書いてある」
ノアは指された行を読んだ。
一度で済ませず、もう一度読んだ。
文章は理解できる。
父がこの町で修理をしながら教えてくれた言葉だ。前の人生にはなかった文字も、数字の書き方も、二十二年の間に手になじんでいた。
それなのに、修理できないものを渡された気がした。
「今日、どちらかに決めないと……いけませんか」
「今日決めてほしいのは、三十日間、君の管理で営業を試すかどうかだ。続けるにしても閉じるにしても、先に中身を調べたい」
ルドルフは工房を見回した。
旋盤。作業台。天井からつるした滑車。
父がつけた小さな傷まで、ノアには分かるものばかりだった。
「設備をばらして売れば、買いたたかれる。ここで利益を生む方が、こちらも回収の見込みが立つ。だが、思い出だけに追加の金は貸せない」
「三十日で返せなければ閉める、という意味では……」
顔を上げたノアへ、ルドルフは初めて眉を動かした。
「百八十枚を? それができる働き方なら、私にも紹介してほしいね」
そこで初めて、ルドルフが少しだけ笑った。
「受注、原価、入金の見込みを出してもらう。当面の支払いを続けられるか、そこで判断する。君自身が食べていく費用も入れなさい。職人が倒れる計画では、返してもらえない」
ノアは、空の売上欄を見つめた。
今日から三十日。
その先を、ここに数字で置く。
「少しだけ、待っていただけますか。何が残っているか、僕の目で見てきます」
*
父は、物に値札をつけるのが苦手だった。
正確には、部品の値段はよく覚えていた。人の使った時間に値段をつけるのが下手だった。
作業台の端に、直りかけの灯具がある。
札には銅貨二十枚と書かれていた。部品代と、わずかな魔石代を引いたら、ほとんど何も残らない。
分解して、汚れを落とし、絶縁材を交換して、組み直す。
作業後の検査も要る。
これで、半日は使ったはずだ。
「……ここまでやって、二十枚かよ、父さん」
声に出したら、父が奥から返事をしそうだった。
仕事は値段だけじゃないぞ、と。
分かっている。
でも、値段をつけなければ仕事を続けられない。
ノアは灯具に触れかけ、先に札を裏返した。
どこまで済んでいるのか。通電してよいのか。
裏には、父の細かい字で、検査待ち、とあった。
手が止まる。
前の人生でも、こういう札をつけていた。
大きな工場の隅で、油の匂いをかぎながら。動かない設備の前で、どこまで電気が来ているかを一つずつ追いながら。
その人生は、事故で終わった。
そして、こちらの世界で、職人の家の息子として生まれた。
幼い頃は、知っている道具の作り方を思い出せば何でもできる気がした。
実際に作業台へ立つと、そうはいかなかった。
刻印の線を一つ削れば、魔石がどう熱を持つのか。軸受けに使う木が、湿気でどれだけ膨らむのか。
教えてくれたのは、父と、この町の職人たちだった。
前の世界の経験は役に立つ。
今の世界で覚えたことも、同じくらい役に立つ。
どちらも、借金を消してくれる魔法ではなかった。
検査器の布を外す。
乾いた油の匂いがした。
魔石を固定する爪を開き、空運転のための試験片をはめる。測定盤の針は、決まった位置へ動いて止まった。
基準片を替えても、針の戻りは滑らかだった。
使える。
次に、旋盤の軸を手で回した。
歯車は欠けていない。潤滑は要る。屋根から水が落ちていた側の工具には、錆が出ていた。
ノアは白紙を持ってきて、使えるもの、手入れが要るもの、分からないもの、と三つに分けた。
どこから始めたらよいか分からないときは、まず確かめられるところから。
そうしている間だけ、胸のつかえが少し軽くなった。
壁の低い位置に、茶色い筋が残っていた。
去年の洪水の水位だ。
父が削らずに残したのは、次に棚を作るとき、床近くへ大事なものを置かないためだった。
その上の棚に、図面が入っている。
共同水路の揚水設備。
前の町営井戸の修理記録。
西通りにある宿の配管。
誰の家のどこを、いつ直したか。
使う人が、何を困っていたか。
紙の端に、機械とは関係のないことまで書いてあった。
『裏口の段差、荷を持つと足元が見えない。次回、声をかける』
『冬は娘さんも手を使う。止め栓を軽く』
ノアは図面を閉じかけ、閉じられなくなった。
工房の静けさが、急に大きくなった。
「……父さん。これまで売ったら、誰が覚えてるんだよ」
機械を売るなら、値段はつく。
ここで父が覚えていたことには、買い手がいない。
誰かが引き継がなければ、ただなくなる。
奥の戸棚には、客から預かった品が並んでいた。
札を読む。
返せるもの。部品を待っているもの。まだ調べていないもの。
この棚も、いずれ空にしなくてはならない。
直して返すか、直せませんでしたと言って返すか。
その違いを、自分で決められるうちに決めたかった。
*
ルドルフは待っていた。
持参した書類に目を通しながら、冷めた茶を少しずつ飲んでいた。
「検査器と旋盤は動きます。修理の記録も残っています。在庫は、見た目だけでは使えるか分かりません。数えて、検査します」
ノアが言うと、男は茶碗を置いた。
「それで、ひと月に幾ら入る見込みだろう」
ルドルフが空いた売上欄へ目を移す。ノアは、膝の上の紙を揃えた。
「……そこは、まだ出せません」
そこは、ごまかせなかった。
「父が安く受けすぎていた仕事もあります。同じ値段で全部引き受ければ、赤字になるかもしれない。預かり品の約束を確認して、新しい仕事から値段を見直します」
「値段を上げれば、離れる客もいる」
「はい。怖いです。でも、何に幾らかかるかを、先に出してみます。それでも頼んでもらえる仕事があるか、見ないと」
ルドルフはうなずいた。
励まされるより、そのうなずきの方がありがたかった。
「三十日、やってみます。引き継ぐ方の条件は、一晩、持ち帰って読ませていただけますか」
ルドルフは茶碗を片づけかけた手を止めた。
「ここが君の家だろう、ノア君」
「……あ。そう、でした」
父の作業台を、自分が借りているような気がしていた。
ノアは営業管理の書面を読み、預かり品を売らないこと、設備を勝手に処分しないことを確かめ、署名した。
ルドルフはその場で控えを作り、期限の日付に印をつけた。
「五日ごとに収支を見せてくれ。待つだけの三十日にはしない」
「分かりました」
「私も、洪水前の契約を調べ直す。入るはずの代金があるなら、それを確認するのも回収の仕事だ」
男は帽子をかぶった。
扉を開けると、湿った冷気が工房へ入ってきた。
「君の父親の腕は、買っていた」
帰り際の声は、契約の説明より少し低かった。
「だが、腕があれば帳簿は要らない、と言うところには、何度も困らされた」
「僕も、隣で手伝っていたのに。帳簿は、父に任せたままでした」
もっと聞けばよかった。
部品の在庫を数えるついでに、帳簿も見ればよかった。
父が話したがらないことを、そのままにしていたのは自分も同じだった。
「なら、次は君の帳簿を見せてもらおう。五日後だ」
ルドルフはそう言って、雨の通りへ出た。
*
店先の札には、休業中、と書かれていた。
ノアはそれを外し、裏に何を書こうか迷った。
どんな物でも直します。
それは駄目だ。直せない物はある。
格安修理。
父と同じことになる。
結局、書いたのは短い言葉だった。
『修理相談、受け付けます。お預かりする前に、費用をご説明します』
少し硬い。
でも、今の自分に約束できることだった。
札を掛け終えたところで、背中から声がした。
「ノア。……店、開けるのかい」
隣の通りで洗濯屋を営むエダだった。白髪の混じる茶色の髪を小さく結び、濡れた前掛けのまま、戸口で雨を払っている。石鹼に荒れた赤い指が、籠の持ち手を握り直した。
両手に抱えた籠の上に、小さな暖房具が載っていた。丸い鉄の枠に、熱を広げる薄板を差し込んだ、古い型だ。
「はい。直せるかは、見てからになりますけど」
ノアが答えると、エダは籠の上の鉄枠を見下ろした。
「お父さんには、何度も助けてもらったよ。だから、今のお前さんに急がせたくはないんだけど……これが止まってね。雨の日に布が乾かないのは、うちも参るんだ」
ノアは籠に手を伸ばしかけた。
先に料金だ、と自分へ言い聞かせる。
「調べて、修理できるかと費用をお伝えするところまでは、銅貨十枚です。直す前に、もう一度確認します。それでもよければ」
エダは暖房具とノアの顔を交互に見た。
「開けてみてからかい。お父さんも、よくそう言ってたね」
懐かしそうな声に、ノアは暖房具から顔を上げた。
「はい。分からないまま、直りますとは……言えなくて」
少しだけ待つ時間があった。
通りの水たまりに、樋から落ちた雫が輪を作った。
「じゃあ、十枚で、まず調べてもらおうか。お願いするよ」
エダが頷いたのを見てから、ノアは受付札を取った。
「ありがとうございます。最後に火がついたのは、いつでした?」
「昨日の朝。昼に一度消えて、魔石を替えたらついたんだよ。だけど、夕方にはまた止まってね」
「替えた魔石も残っていますか」
「あるよ。悪い石を売ったのかって、店へ持っていこうかと思ってた」
ノアは、その石も一緒に預からせてほしいと頼んだ。
石が悪いとは、まだ決まっていない。新しい石でも止まったなら、本体で力を受け取る側にも原因があるかもしれない。
「今夜の干し場は、大丈夫ですか。これを預かってしまって」
「店の奥は竈があるから、何とかするさ。乾くまで場所を取るけどね」
「分かりました。明日の昼までに、まず調べた結果をご連絡します」
すぐ直ると言えなくても、いつまで待つかは伝えられる。
ノアはその約束も、受付札に書き足した。
エダが籠を差し出した。
思ったより重かった。
鉄枠が冷えきっていて、抱えると胸元まで冷たくなった。
ノアは暖房具を作業台に置き、新しい札へ持ち主と受付日を書いた。
入金欄に、銅貨十枚。
まだ利益でも、返済でもない。
これから使う自分の時間と、引き受けた仕事の始まりだ。
「お預かりします、エダさん。明日の昼までには、必ず声を掛けます」
言ってから、父の椅子を見た。
今度はそこに座り、手元の灯りを引き寄せた。




