『王宮を追われた伝説の蒸し職人、路地裏で三日間完全にすれ違い続ける』 ~俺の技術は揚げ物には要らんのか、と思ったら味噌汁に革命が起きた~ ep-7
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本作は【異世界定食】〜とんかつ屋「揚太郎」に集う、ワケありな人々〜シリーズ読み切りです。
三十年分の道具を木箱三つに詰めて、王宮の裏口から出た。
あの日から六年間、俺は一度も蒸籠に触っていない
理由は簡単だ。
「時代遅れの蒸し料理など、貴族の晩餐には相応しくない。今どきは焼きと煮込みの時代だ」
新任の宮廷料理長にそう言われた日から、アルベルト・クラウス七十二歳の世界は止まっていた。
三十年間、この国の食文化の頂点に君臨した男が、屋敷の一室で蒸籠の埃を眺めながら六年間を過ごした。
だが先週、孫娘に連れられて出かけた市場で、匂いがした。
油だ。
肉を揚げる、そういう種類の匂い。
(……この匂いを作る料理人は、本物だ)
翌朝。
アルベルトは三十年ぶりに、コック服を着た。
◇
揚太郎の店の暖簾の前で、アルベルトは背筋を伸ばした。
暖簾をくぐった瞬間、鼻が捉えた。
脂の甘み。焦げの苦み。その奥に潜む、岩塩の青白い気配。
(……複雑だ)
三十年間、素材の水分と蒸気だけで料理を作ってきたアルベルトの鼻には、この匂いの構造が異様に複雑に感じられた。何層にも重なっている。油と衣と肉と塩が、それぞれ主張しながら一つになっている。
蒸し料理とは、真逆の発想だ。
カウンターの奥で、男が振り向かずに言った。
「いらっしゃい。ロースかつ定食だけです」
「一つ頼む」
皿が出てきた。
一口食べた。
ザクゥゥゥッ。
アルベルトの目が、見開かれた。
(……うまい)
(……だが)
職人の本能が、即座に反応した。
(この肉の断面、水分の抜け方が惜しい。私の蒸し技術で下処理をすれば、肉汁がもっと——)
「あの」
「なんだ」
「私はアルベルト・クラウスという者だ。かつて王宮で蒸し料理を——」
「銀貨三枚、もらった。次の客が来る」
「あ、いや、その、貴殿の料理の肉の断面なのだが」
「なんだ」
「蒸しで下処理をすれば、肉汁の保水力が……」
揚太郎が初めて振り向いた。
目が、細くなった。
「蒸し?」
「そうだ。私の技術で……」
「いらない」
「……は?」
「二度揚げで全部解決してる。蒸しは要らない」
アルベルトは固まった。
三十年間、「蒸し」を必要としない料理人に会ったことがなかった。
「……そうか」
「ありがとう。次の客が来る」
アルベルトは立ち上がり、深々と頭を下げた。
「明日また来る」
「来なくていい」
「では明後日」
「……好きにしろ」
◇
翌朝。
アルベルトは開店前から暖簾の前に立っていた。
揚太郎が暖簾を掛けに出てきて、老人の姿を見て一瞬止まった。
「……来たのか」
「来た」
「何をしに来た」
「貴殿の料理の研究だ」
「客として来るなら銀貨三枚払え」
「払う」
アルベルトが席に着いた。
今日の研究テーマは衣だ。蒸し技術の観点から、この男の二度揚げの衣の構造を解明するつもりだった。
準備が始まった。
揚太郎が豚ロースを取り出した瞬間、アルベルトが身を乗り出した。
「その肉、下処理をしていないのか」
「している」
「だが蒸していないだろう」
「蒸す必要がない」
「しかし蒸しで繊維を開かせれば衣の密着度が——」
「二度揚げで解決している」
「……その二度揚げとやらが、どうも私には理解できないのだが」
「食えばわかる」
「昨日食べた」
「もう一度食え」
「……銀貨三枚また払うのか」
「払わないなら帰れ」
「……払う」
その日の定食も、無言で食べた。
うまかった。
だが職人の本能は言い続けた。
(蒸しで下処理をすれば、もっとうまくなる)
◇
三日目。
アルベルトが来たとき、店にはリーネがいた。
仕込みの途中で、エプロンを味噌だらけにしながら根菜を切っている。この店に住み込みで働いている協会を追放された聖女だ。
ここで見習いとして住み込みで働いている。見習いかどうかは本人も定かではないが包丁の入れ方が、壊滅的だった。
アルベルトの目が、無意識に反応した。
(……その切り方では、繊維が潰れる)
「あ、おじいさん、また来たんですね!」
「うむ」
「毎日来てるんですか?」
「研究に来ている」
「研究!? 何の研究ですか!?」
「蒸し技術の応用可能性について」
リーネがきょとんとした。
「むし、ですか?」
「そうだ。私は三十年間、蒸し料理の頂点に……」
「お兄さんの料理、蒸してないですよ?」
「わかっている。それが問題なのだ」
リーネはしばらく考えて、首を傾けた。
「あの、おじいさん。私の味噌汁の具、いつも上手く切れなくて。根菜が煮えにくかったりして、お兄さんにいつも怒られるんです」
アルベルトの目が、根菜に向いた。
繊維の潰れ方。切断面の粗さ。
(……これでは煮えムラが出る。当然だ)
「どれ、見せなさい」
包丁を借りた。
スッ、スッ、スッ。
音もなく、根菜が等間隔に切られていく。繊維の方向に沿って、断面が滑らかだ。
リーネが目を丸くした。
「すごい……! なんか全然違う切り方してる!」
「繊維を生かして切る。そうすれば蒸気が素材の中に均一に入る。煮るときも同じだ」
「へええ! でもおじいさん、蒸し職人なんですよね。なんで煮物の話になるんですか」
「蒸しと煮は根本が同じだ。熱の入り方が——」
そのとき、揚太郎が厨房から顔を出した。
「リーネ、根菜どうした」
「アル爺が切ってくれました!」
「アル爺?」
アルベルトが振り返った。
「アル爺と呼ぶな」
揚太郎が根菜を一切れ手に取り、断面を見た。
鼻がひくりと動いた。
「……爺さん、これ切ったのか」
「そうだ」
「味噌汁に使っていいか」
アルベルトは一瞬、止まった。
(味噌汁)
蒸し料理でも、二度揚げでもない。
味噌汁。
「……それは、私の技術とは関係ない話だが」
「関係ある。この切り方なら火の入り方が均一になる。出汁との絡みも変わる」
アルベルトの眉が、かすかに動いた。
「……どう変わる」
「食えばわかる」
揚太郎が根菜を鍋に入れた。
アルベルトは黙って、その仕込みを見た。
出汁が沸く。根菜が透き通っていく。
(……熱の入り方が、確かに均一だ)
リーネが味噌を溶いた。
碗が、カウンターに置かれた。
アルベルトは一口すすった。
「……っ」
声が漏れた。
根菜が、出汁を完全に抱き込んでいる。繊維が生きているから、噛むたびに旨味が溢れる。蒸し料理で素材を生かす原理と、全く同じだ。
(……私の技術は、ここにあった)
揚げ物ではなく。
この、一椀の中に。
「……うまい」
誰に言うでもなく、呟いた。
リーネが「でしょう! でもこれ、アル爺が切ってくれたからですよ!」と言い、揚太郎が「うるさい仕込みを続けろ」と言った。
アルベルトは碗を置いて、揚太郎を見た。
「一つ聞いていいか」
「なんだ」
「私の技術は、この店で役に立つか」
揚太郎は布巾で手を拭いた。
「肉の下処理と、具材の仕込み。そこなら使える」
「……揚げ物には使えないのか」
「俺の二度揚げに蒸しは要らない。だが味噌汁の具と、肉の下処理は別の話だ」
アルベルトはしばらく黙った。
三十年間、蒸しで全てを解決してきた。
だがこの男は、揚げで全てを解決する。
交わらないと思っていた。
だが今、この味噌汁の根菜が、言っている。
交わる場所が、ちゃんとある、と。
「……わかった」
「明日から来られるか」
「来る」
「銀貨は要らない。飯を出す」
リーネが「やったー! アル爺が仲間になった!」と叫んで、お玉を振り回した。
味噌が飛んだ。
アルベルトの顔に、盛大に着地した。
「……すまん」
「いつものことだ」と揚太郎が言った。
アルベルトは顔を拭いながら、三十年ぶりに笑った。
◇
その夜。
閉店後、アルベルトが帰った後。
揚太郎は一人で味噌汁を一口すすった。
昼間のアルベルトが切った根菜の残りで作った、閉店後の一杯だ。
旨い。
昼間と同じ味だ。
揚太郎は鍋を火から下ろし、窓の外を見た。
この国に来て、半年が過ぎた。
出汁を作るのに半年かかった。米を手に入れるのにリーネが必要だった。
そして今日、具材の仕込みに七十二歳の老職人が現れた。
一人では辿り着けなかった場所に、気づけば辿り着いている。
「……悪くない」
誰もいない厨房に、ひとりごとが落ちた。
◇
翌朝。
開店前の路地裏。
揚太郎が暖簾を掛けに出ると、アルベルトが木箱を三つ抱えて立っていた。
「なんだ、それは」
「三十年分の蒸籠と銅鍋だ。自宅に置いていても仕方ないので持ってきた」
「……置く場所がない」
「作ってくれ」
「……」
揚太郎は木箱を三つ一瞥して、無言で店に入った。
アルベルトが続く。
リーネがすでに仕込みを始めていて、アルベルトの姿を見て「おはようございます! アル爺!」と言った。
「アル爺と呼ぶな」
「アル爺!」
「聞いていないのか」
揚太郎がカウンターの奥の棚を指差した。
「爺さん、そこを使え」
蒸籠三つ分の場所が、確保されていた。
アルベルトは道具を一つずつ取り出しながら、窓の外を見た。
王宮の方角だ。
三十年間、あの厨房だけが自分の世界だった。
今、自分は路地裏の突き当たりにいる。
蒸籠の置き場所は、揚げ壺の隣だ。
蒸しと揚げ。
交わらないと思っていた二つが、この狭い厨房で並んでいる。
悪くない。
むしろ。
「アル爺、今日の根菜、楽しみにしてます!」
「だから、その呼び方は……」
「アル爺!」
「……わかった、アル爺でいい」
揚太郎が、アルベルトの背中を一瞬だけ見た。
揚太郎が鍋を火にかけた。
アルベルトが蒸籠の準備を始めた。
リーネが味噌を溶きながら鼻歌を歌っている。
ジュワァァァ……バチバチバチッ。
今日も、銀貨三枚の革命が始まる。
(完)
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