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『王宮を追われた伝説の蒸し職人、路地裏で三日間完全にすれ違い続ける』 ~俺の技術は揚げ物には要らんのか、と思ったら味噌汁に革命が起きた~ ep-7

掲載日:2026/04/25

数ある作品の中から見つけてくださりありがとうございます!

本作は【異世界定食】〜とんかつ屋「揚太郎」に集う、ワケありな人々〜シリーズ読み切りです。

 三十年分の道具を木箱三つに詰めて、王宮の裏口から出た。

あの日から六年間、俺は一度も蒸籠に触っていない

理由は簡単だ。


「時代遅れの蒸し料理など、貴族の晩餐には相応しくない。今どきは焼きと煮込みの時代だ」


 新任の宮廷料理長にそう言われた日から、アルベルト・クラウス七十二歳の世界は止まっていた。

 三十年間、この国の食文化の頂点に君臨した男が、屋敷の一室で蒸籠の埃を眺めながら六年間を過ごした。

 だが先週、孫娘に連れられて出かけた市場で、匂いがした。

 油だ。

 肉を揚げる、そういう種類の匂い。

(……この匂いを作る料理人は、本物だ)


 翌朝。

 アルベルトは三十年ぶりに、コック服を着た。


 ◇


 揚太郎の店の暖簾の前で、アルベルトは背筋を伸ばした。

 暖簾をくぐった瞬間、鼻が捉えた。

 脂の甘み。焦げの苦み。その奥に潜む、岩塩の青白い気配。


(……複雑だ)

 三十年間、素材の水分と蒸気だけで料理を作ってきたアルベルトの鼻には、この匂いの構造が異様に複雑に感じられた。何層にも重なっている。油と衣と肉と塩が、それぞれ主張しながら一つになっている。

 蒸し料理とは、真逆の発想だ。

 カウンターの奥で、男が振り向かずに言った。


「いらっしゃい。ロースかつ定食だけです」


「一つ頼む」

 皿が出てきた。

 一口食べた。


 ザクゥゥゥッ。

 アルベルトの目が、見開かれた。

(……うまい)

(……だが)


 職人の本能が、即座に反応した。

(この肉の断面、水分の抜け方が惜しい。私の蒸し技術で下処理をすれば、肉汁がもっと——)


「あの」


「なんだ」


「私はアルベルト・クラウスという者だ。かつて王宮で蒸し料理を——」


「銀貨三枚、もらった。次の客が来る」


「あ、いや、その、貴殿の料理の肉の断面なのだが」


「なんだ」


「蒸しで下処理をすれば、肉汁の保水力が……」


 揚太郎が初めて振り向いた。

 目が、細くなった。


「蒸し?」


「そうだ。私の技術で……」


「いらない」


「……は?」


「二度揚げで全部解決してる。蒸しは要らない」


 アルベルトは固まった。

 三十年間、「蒸し」を必要としない料理人に会ったことがなかった。


「……そうか」


「ありがとう。次の客が来る」


 アルベルトは立ち上がり、深々と頭を下げた。


「明日また来る」


「来なくていい」


「では明後日」


「……好きにしろ」


 ◇


 翌朝。

 アルベルトは開店前から暖簾の前に立っていた。

 揚太郎が暖簾を掛けに出てきて、老人の姿を見て一瞬止まった。


「……来たのか」


「来た」


「何をしに来た」


「貴殿の料理の研究だ」


「客として来るなら銀貨三枚払え」


「払う」


 アルベルトが席に着いた。

 今日の研究テーマは衣だ。蒸し技術の観点から、この男の二度揚げの衣の構造を解明するつもりだった。

 準備が始まった。

 揚太郎が豚ロースを取り出した瞬間、アルベルトが身を乗り出した。


「その肉、下処理をしていないのか」


「している」


「だが蒸していないだろう」


「蒸す必要がない」


「しかし蒸しで繊維を開かせれば衣の密着度が——」


「二度揚げで解決している」


「……その二度揚げとやらが、どうも私には理解できないのだが」


「食えばわかる」


「昨日食べた」


「もう一度食え」


「……銀貨三枚また払うのか」


「払わないなら帰れ」


「……払う」

 その日の定食も、無言で食べた。

 うまかった。

 だが職人の本能は言い続けた。

(蒸しで下処理をすれば、もっとうまくなる)


 ◇


 三日目。

 アルベルトが来たとき、店にはリーネがいた。

 仕込みの途中で、エプロンを味噌だらけにしながら根菜を切っている。この店に住み込みで働いている協会を追放された聖女だ。

 ここで見習いとして住み込みで働いている。見習いかどうかは本人も定かではないが包丁の入れ方が、壊滅的だった。

 アルベルトの目が、無意識に反応した。

(……その切り方では、繊維が潰れる)


「あ、おじいさん、また来たんですね!」


「うむ」


「毎日来てるんですか?」


「研究に来ている」


「研究!? 何の研究ですか!?」


「蒸し技術の応用可能性について」


 リーネがきょとんとした。


「むし、ですか?」


「そうだ。私は三十年間、蒸し料理の頂点に……」


「お兄さんの料理、蒸してないですよ?」


「わかっている。それが問題なのだ」


 リーネはしばらく考えて、首を傾けた。


「あの、おじいさん。私の味噌汁の具、いつも上手く切れなくて。根菜が煮えにくかったりして、お兄さんにいつも怒られるんです」


 アルベルトの目が、根菜に向いた。

 繊維の潰れ方。切断面の粗さ。

(……これでは煮えムラが出る。当然だ)


「どれ、見せなさい」


 包丁を借りた。

 スッ、スッ、スッ。

 音もなく、根菜が等間隔に切られていく。繊維の方向に沿って、断面が滑らかだ。

 リーネが目を丸くした。


「すごい……! なんか全然違う切り方してる!」


「繊維を生かして切る。そうすれば蒸気が素材の中に均一に入る。煮るときも同じだ」


「へええ! でもおじいさん、蒸し職人なんですよね。なんで煮物の話になるんですか」


「蒸しと煮は根本が同じだ。熱の入り方が——」


 そのとき、揚太郎が厨房から顔を出した。

「リーネ、根菜どうした」


「アル爺が切ってくれました!」


「アル爺?」

 アルベルトが振り返った。


「アル爺と呼ぶな」

 揚太郎が根菜を一切れ手に取り、断面を見た。

 鼻がひくりと動いた。


「……爺さん、これ切ったのか」


「そうだ」


「味噌汁に使っていいか」

 アルベルトは一瞬、止まった。

(味噌汁)

 蒸し料理でも、二度揚げでもない。

 味噌汁。


「……それは、私の技術とは関係ない話だが」

「関係ある。この切り方なら火の入り方が均一になる。出汁との絡みも変わる」

 アルベルトの眉が、かすかに動いた。


「……どう変わる」


「食えばわかる」

 揚太郎が根菜を鍋に入れた。

 アルベルトは黙って、その仕込みを見た。

 出汁が沸く。根菜が透き通っていく。

(……熱の入り方が、確かに均一だ)

 リーネが味噌を溶いた。

 碗が、カウンターに置かれた。

 アルベルトは一口すすった。


「……っ」

 声が漏れた。

 根菜が、出汁を完全に抱き込んでいる。繊維が生きているから、噛むたびに旨味が溢れる。蒸し料理で素材を生かす原理と、全く同じだ。

(……私の技術は、ここにあった)

 揚げ物ではなく。

 この、一椀の中に。


「……うまい」

 誰に言うでもなく、呟いた。

 リーネが「でしょう! でもこれ、アル爺が切ってくれたからですよ!」と言い、揚太郎が「うるさい仕込みを続けろ」と言った。

 アルベルトは碗を置いて、揚太郎を見た。


「一つ聞いていいか」


「なんだ」


「私の技術は、この店で役に立つか」


 揚太郎は布巾で手を拭いた。

「肉の下処理と、具材の仕込み。そこなら使える」


「……揚げ物には使えないのか」


「俺の二度揚げに蒸しは要らない。だが味噌汁の具と、肉の下処理は別の話だ」


 アルベルトはしばらく黙った。

 三十年間、蒸しで全てを解決してきた。

 だがこの男は、揚げで全てを解決する。

 交わらないと思っていた。

 だが今、この味噌汁の根菜が、言っている。

 交わる場所が、ちゃんとある、と。


「……わかった」


「明日から来られるか」


「来る」


「銀貨は要らない。飯を出す」

 リーネが「やったー! アル爺が仲間になった!」と叫んで、お玉を振り回した。

 味噌が飛んだ。

 アルベルトの顔に、盛大に着地した。


「……すまん」


「いつものことだ」と揚太郎が言った。

 アルベルトは顔を拭いながら、三十年ぶりに笑った。


 ◇


 その夜。

 閉店後、アルベルトが帰った後。

 揚太郎は一人で味噌汁を一口すすった。

 昼間のアルベルトが切った根菜の残りで作った、閉店後の一杯だ。

 旨い。

 昼間と同じ味だ。

 揚太郎は鍋を火から下ろし、窓の外を見た。

 この国に来て、半年が過ぎた。

 出汁を作るのに半年かかった。米を手に入れるのにリーネが必要だった。

 そして今日、具材の仕込みに七十二歳の老職人が現れた。

 一人では辿り着けなかった場所に、気づけば辿り着いている。


「……悪くない」

 誰もいない厨房に、ひとりごとが落ちた。


 ◇


 翌朝。

 開店前の路地裏。

 揚太郎が暖簾を掛けに出ると、アルベルトが木箱を三つ抱えて立っていた。


「なんだ、それは」


「三十年分の蒸籠と銅鍋だ。自宅に置いていても仕方ないので持ってきた」


「……置く場所がない」


「作ってくれ」


「……」

 揚太郎は木箱を三つ一瞥して、無言で店に入った。

 アルベルトが続く。

 リーネがすでに仕込みを始めていて、アルベルトの姿を見て「おはようございます! アル爺!」と言った。


「アル爺と呼ぶな」


「アル爺!」


「聞いていないのか」

 揚太郎がカウンターの奥の棚を指差した。


「爺さん、そこを使え」

 蒸籠三つ分の場所が、確保されていた。

 アルベルトは道具を一つずつ取り出しながら、窓の外を見た。

 王宮の方角だ。

 三十年間、あの厨房だけが自分の世界だった。

 今、自分は路地裏の突き当たりにいる。

 蒸籠の置き場所は、揚げ壺の隣だ。

 蒸しと揚げ。

 交わらないと思っていた二つが、この狭い厨房で並んでいる。


 悪くない。

 むしろ。


「アル爺、今日の根菜、楽しみにしてます!」


「だから、その呼び方は……」


「アル爺!」


「……わかった、アル爺でいい」

 揚太郎が、アルベルトの背中を一瞬だけ見た。

 揚太郎が鍋を火にかけた。

 アルベルトが蒸籠の準備を始めた。

 リーネが味噌を溶きながら鼻歌を歌っている。

 ジュワァァァ……バチバチバチッ。

 今日も、銀貨三枚の革命が始まる。


(完)


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