第1話 炎上と罰の味、そして対極の炎
その夜、ボクはまた炎の前にいた。
コールマン、スポーツスター2。
どこにでもある、だけど、ボクにとってはひとつしかない火。
静かな音で燃えるその炎を見ながら、ふと、あの真鍮のストーブのことを思い出していた。
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5月の新緑が眩しい茶臼山高原に、鈴木健太は一人で来ていた。
ごく普通の「鈴木健太」である自分にとって、ロマン枠の「スベア123R」に初めて火を入れる瞬間は、誰にも邪魔されない、完璧な場所で迎えたかったのだ。
彼は、完璧な手順で、最高の瞬間を迎えようとしていた。
くぼみにアルコールを注いで点火、プレヒートだ。
儀式とも呼ばれるこのストーブには必須の燃焼前の予熱だ。
本来ならバーナーを温めるためじっくりと行う。
しかし、彼はその最高の瞬間を自らの手で、最悪の結果にしてしまう。
逸る気持ちを抑えられず、まだ予熱途中、アルコールが燃えている途中でバルブを回してしまった。
「プシュゥゥゥゥ、、、」
液体のまま噴出したホワイトガソリンに引火してしまい瞬く間に炎は巨大化した。
そして無遠慮なオレンジ色の舌を突き出した。
健太は慌てて水を探した。
目の前にある飲料用の水のペットボトルも、すぐには目に入らなかった。
ようやくペットボトルを手にしてキャップを回し開け、転がるようにして炎にかけた。
数分後、燃え盛っていた小さなストーブは、ただの煤けた真鍮の塊と化していた。
動揺していた。
しばらく放心状態だったが、ペットボトルの残った水を飲み干し、ようやく少しだけ平静を取り戻した。
炎上したスベアの横で、健太はアルミ製の小さなアルコールストーブをポケットから取り出した。
バックアップとしていつも忍ばせているが、その存在すら意識したくなかった、ただの「機能の塊」だ。
彼はアルコール燃料を注ぎ、静かに火をつけた。
スベアの暴れる炎とは違い、アルコールの炎は青く、音もなく、ただ静かに揺らめいていた。
それはまるで、感情を失った彼の心をそのまま映し出しているようだった。
湯が沸き、コーヒーを淹れる。
豆も淹れ方も、いつもと同じはずだ。
しかし、一口飲んだ瞬間、胃の腑が締め付けられるような、異常な苦味が口の中に広がった。
――このコーヒーは、自分の特別が壊れた虚しさ、そして失敗を具現化した「罰の味」だ。
彼は、特別を追求できなかった自分自身への「悔しい匂い」が、そのまま「苦い味」となって舌に残っているのを感じた。
その頃、健太から少し離れたサイトで、一人の男が静かにその炎を見つめていた。
今日が、彼にとってのソロキャンプデビューの日だった。
この男は、数日前にコールマンスポーツスター2を購入したばかりだった。
父、清時から受け継いだヴィンテージの502ではなく、「自分だけの、新品のストーブ」を探し、父が行きつけだったアルペンへと向かった。
そこで対応してくれたのは、父が502を買った当時から店にいる人物で、今では店長の松野 治になっていた。
店長は、男の成長を見てきた。
店長は、男のソロデビューに満面の笑みを浮かべ、少し昔を懐かしむように言った。
松野店長: 「貞時くん、ついにソロデビューですか!おめでとうございます!お父様の清時さんからお話は伺っていますよ。
初めての一台は、これですね。コールマンスポーツスター2!型番は無くなりましたが508Aの後継でうちでもずっと変わらず、定番中の定番として愛され続けている安定のモデルです。
清時さんの502と同じように、耐久性も抜群!ずっと使い続けて手をかけてあげれば応えてくれます。一生モノの相棒になるはずですよ。」
男(貞時): 「ありがとうございます、松野さん。父と同じアルペンで、松野さんに選んでもらえて良かったです。父がいつも『松野さんが選ぶ道具は間違いない』って言ってますから。」
松野店長: 「いやいや。こちらこそありがとうございます。自分も、貞時くんが生まれる前から、清時さんと私はこの店で長くご一緒させていただきました。どうぞ、存分にお楽しみください。」
男(貞時)のスポーツスター2は、公然と祝福され、父の歴史と店員の温かい繋がり、そして「安定」という普遍的な価値に裏打ちされていた。
そして彼は完璧な手順で、飾り気のない実直な性能を持つストーブの力強い炎で湯を沸かし、持参した具材を投入したカップ麺に注ぎすすった。それは、変わらない、普遍的な味、日清カップヌードルだ。
しかし、この男にとっては違った。父と行くファミリーキャンプでいつも食べていた、変わらない定番の味。
それを、自分だけのストーブで、自分だけの力で作り上げたという事実が、その味を何物にも代えがたいものに変えた。
その安定感と、成功への安堵が生んだ味は、健太が先ほど味わった「罰の味」とは対極の、「何の屈託もない、忘れられない味」だった。
彼は、少し離れたサイトで起こった、あの一瞬の惨事を鮮明に覚えていた。
派手に炎上した金色に輝いていた真鍮のストーブ。慌てふためき、水をまき散らす男。火が消えた後、辺りにはガソリンの匂いと、失敗の濃い灰色の煙だけが立ち上っていた。
貞時は、その煙の中で呆然と立ち尽くす健太の姿を見て、一瞬、心臓を鷲掴みにされるような感覚を覚えた。
貞時の脳裏に浮かんだのは、「特別を追い求める道具が持つ、儀式(儀礼)の厳しさ」だった。
彼は、あのストーブが、自分の父が愛した502とは違う、ロマンと引き換えに、確実な手順と集中力を使い手に厳しく要求するストーブだと、道具への深い知識から理解していた。
そして、特別な道具が、持ち主のプライドごと、手続きを疎かにした一瞬で、炎上する瞬間を見てしまった。
貞時にとって、今日のソロキャンプデビューは、何のドラマもない、ただ安定したコールマンの炎によってもたらされた「普通の成功体験」として、彼の記憶に刻まれた。
彼は、灰色の煙の中で俯いている男(健太)を気にも留めなかった。だが、その強烈な失敗の光景だけは、彼の記憶に深く刻み込まれた。
健太は、その夜の焚き火を眺めた。
いつもなら、無心で炎を眺めているだけで心が落ち着く、最高の癒やしの時間だ。
その特別な行為は、大袈裟かもしれないが、健太にとっては神聖とまで言えるものだった。だが、今日は違った。
火は、薪が燃える木の香ばしさよりも、悔しい匂いが立ち上っている気がした。
いつもは赤々と燃える炎が、今日は灰色の色調を帯びているように見えた。
焚き火から聞こえる「パチパチ」という爆ぜる音。そして、薪の内部から聞こえる「シューッ」というガスが抜けるわずかな音。
虚しさが、周囲の音を異常に研ぎ澄ませていた。健太の耳には、その一つ一つの音が、自分の失敗と屈辱を嘲笑うように響いた。
神聖な癒やしの場を、自らの失敗で台無しにしてしまった。焦っただけの、一瞬の気の迷いだ。
アルコールプレヒートを疎かにしようとした、たった一つの行為が全てを壊した。
誰のせいでもない。オレが、オレ自身の特別を踏み躙ったんだ。
健太は、焚き火の熾火の上で、残った食材の上質なステーキ肉を焼いた。
いつもは、この「ただ焼くだけの肉」を「オレのソロキャンプのステーキ」として、儀式的に特別なものに昇華させてきた。
だが、今日は違った。一口噛みしめても、ただの塊だ。特別どころか、味すらしない。虚しかった。。。




