第八話 守られている場所
第八話です。
クラスという場所の話。
朝の教室には、
いくつもの小さな会話が同時に流れていた。
「今日の小テスト、絶対ムズいよね」
「やばい、普通にノー勉」
「まぁ赤点じゃなきゃいいっしょ」
そんな声の中で、
宮下澪は、いつも通り笑っていた。
「大丈夫大丈夫。
昨日ちゃんとアニメ我慢して寝たから」
「ほんとに?」
「ほんとほんと。たぶん」
笑い声が起きる。
(……普通だ)
少なくとも、
クラスの中では。
⸻
「宮下さん」
前の方から、落ち着いた声がした。
学級委員長の高坂葵だ。
派手ではないけれど、
クラス全体をよく見ているタイプの女子で、
声を荒げることも、無理に仕切ることもない。
「今日のプリント、
あとで配ってもらっていい?」
「りょーかい」
澪は軽く手を挙げる。
そのやり取りは自然で、
特別な意味なんて何もない。
クラスは、問題なく回っている。
(……回ってる、よな)
俺はノートを開きながら、
前の席に座る澪の背中を見る。
姿勢も、
仕草も、
声の調子も、
昨日までと変わらない。
それなのに、
なぜか目が離れなかった。
⸻
昼休み。
澪は、
クラスの女子二人と机を寄せていた。
「今日放課後どうする?」
「コンビニ寄る?」
「いいね、甘いの食べたい」
菜々(なな)と梨央。
澪のクラス内の友達だ。
深い話はしない。
でも、
一緒に笑って、
一緒に時間を過ごす相手。
澪はその輪の中で、
とても自然だった。
(……居場所、ちゃんとあるんだな)
隣で司が、
パンをかじりながら言う。
「宮下、
クラスだとほんと問題なさそうだな」
「……そうだな」
「逆にお前の方が、
ずっと気にしてる顔してる」
「気にしてない」
「無理あるって」
司は小さく笑った。
⸻
昼休みの終わり際、
高坂が俺の席に来た。
「拓真くん、
ちょっといい?」
「何?」
「宮下さんのことなんだけど」
一瞬、
胸の奥がざわつく。
「最近さ」
高坂は言葉を選ぶように続けた。
「元気は元気なんだけど、
どこか無理してる感じ、しない?」
「……」
「大したことじゃないかもしれないけどね」
高坂は苦笑する。
「委員長やってると、
クラスの小さな違和感に
気づくことが増えるんだ」
違和感。
その言葉は、
俺がずっと抱えてきた感覚と同じだった。
「宮下さんって、
クラスにいてくれると助かる存在だから」
「……」
「だから、
崩れる前に休めたらいいなって
思っただけ」
踏み込まない。
でも、
ちゃんと見ている。
それは、
正しい距離の心配だった。
「……ありがとう」
それだけ答えた。
⸻
放課後。
澪は、
クラスの友達と一緒に教室を出ていった。
「じゃあねー」
「また明日!」
笑い声が、
廊下に消えていく。
俺は少し遅れて教室を出る。
廊下の角で、
澪が一瞬だけ振り返った。
目が合う。
クラスで見せていた笑顔とは違う、
少しだけ力の抜けた表情。
「……またね」
小さな声。
「ああ」
それだけ返す。
澪はすぐに友達の方へ戻っていった。
⸻
クラスには、
澪の居場所がある。
笑う理由も、
役割も、
守ってくれる空気も、
ちゃんと用意されている。
それでも。
(……全部を預けられる場所じゃない)
クラスという場所は、
澪を守っている。
でも同時に、
守りきれないものも、
確かに残っている。
その境目に、
俺は立ってしまっている。
澪が守られているこの場所の外に、
俺の視線が向いてしまっている。
それだけは、
もう誤魔化せなかった。
ここまで読んでいただき、ありがとうございます。
第八話では、
澪がクラスの中で孤立していないことと、
それでも全部を預けられるわけではない場所を描きました。
守られているからこそ、
こぼれてしまうものもあります。
次話では、
この場所に小さな空白が生まれます。




