第七話 気づかれないほどの変化
第七話です。
小さい変化は、案外、他人に先に気づかれます。
澪は、その日、少しだけ遅れて教室に入ってきた。
遅刻というほどじゃない。
チャイムが鳴る前。
ただ、いつもより数分遅いだけ。
それだけのことなのに、
俺は無意識に時計を見てしまった。
「おはよー」
声は、いつも通り明るい。
机に鞄を置いて、
周りに軽く手を振って、
笑顔もちゃんとある。
――あるけど。
(……声、少し低いな)
それは本当に小さな違和感だった。
気づく人はいないだろうし、
気づいたとしても、気のせいで済まされる。
でも、
俺には引っかかった。
⸻
一限の途中、
司がノートを取りながら、ちらっと前を見た。
「宮下、今日静かじゃね?」
小声。
「……そうか?」
「朝は元気だったけどさ。
今、あんま喋ってない」
そう言われて、
俺はもう一度澪の背中を見る。
確かに、
周囲が話していても、
澪は相槌だけで済ませていた。
笑ってはいる。
でも、輪の中心にはいない。
(……やっぱり)
「珍しいな」
司が続ける。
「あいつ、
無理してでも場回すタイプだろ」
その言葉に、
胸の奥が少しだけ痛んだ。
無理してでも。
⸻
昼休み。
澪は、購買に行かなかった。
代わりに、
机に伏せるでもなく、
窓の外をぼんやり見ている。
声をかけるべきか、
迷っていると――
「宮下」
先に声をかけたのは、
司だった。
澪が振り返る。
「あ、司くんだっけ」
「そう。
拓真の幼馴染」
「うん、知ってる」
澪は笑った。
でもその笑顔は、
いつもの“教室用”より、
少しだけ薄い。
「今日さ」
司は、
遠慮がちな調子で言う。
「体調、悪くない?」
一瞬。
本当に一瞬だけ、
澪の表情が止まった。
「……え?」
「なんとなく」
司は肩をすくめる。
「元気ないってほどじゃないけど、
いつもと違うなーって」
澪は少し間を置いてから、
笑い直した。
「やだな、
そんなわかりやすい?」
「わかりやすいっていうか」
司はちらっと俺を見る。
「拓真が、
さっきから気にしてたから」
「……え」
澪の視線が、
俺に向く。
(あ)
司は余計なことを言った、
って顔をしていた。
「いや、その」
俺は言葉を探す。
「気にしてたっていうか……
いつもと違うなって」
澪は、
俺と司を交互に見てから、
小さく息を吐いた。
「……そっか」
それは、
責める声でも、
照れる声でもなくて。
少しだけ、
力が抜けた声だった。
⸻
「放課後さ」
澪が、ぽつりと言う。
「拓真、時間ある?」
司がすっと一歩引いた。
「俺、
今日は先帰るわ」
「いいの?」
「いいよ。
コンビニ寄りたいし」
そう言って、
司は軽く手を振った。
「宮下、
無理すんなよ」
澪は、
少し驚いた顔をしてから、
うなずいた。
「……ありがと」
⸻
放課後の教室。
昨日より、
さらに人が少ない。
澪は椅子に座ったまま、
少し疲れたように言った。
「さっきのさ」
「ん」
「気づかれると思わなかった」
「……俺も、
言われて確信した」
澪は、
小さく笑った。
「やっぱ、
完璧じゃなかったか」
「完璧だったら、
逆に怖い」
「それもそうだね」
沈黙。
でも、
今日はその沈黙が、
重くなかった。
「ねえ」
澪が、
俺の方を見る。
「司くんさ、
いい人だね」
「昔からああだよ」
「そっか」
少し間を置いて。
「……だからかな」
「何が」
「拓真が、
ちゃんと“自分の場所”に
立ってる感じするの」
その言葉に、
胸が静かに鳴った。
「私さ」
澪は、
窓の外を見る。
「今日みたいに、
ちょっと元気ない日、
誰にも気づかれないと思ってた」
「……」
「でも、
気づかれるのも、
悪くないね」
それは、
今まで聞いた中で、
いちばん素直な声だった。
「無理しなくていい」
俺は、
自然にそう言っていた。
澪は、
少しだけ驚いた顔をしてから、
ゆっくりうなずいた。
「……うん」
その距離は、
昨日よりも、
確実に近かった。
触れてはいない。
でも、
もう遠くはない。
澪の小さな変化は、
確かに始まっていた。
ここまで読んでいただき、ありがとうございます。
第七話では、
澪の小さな変化が、
拓真だけでなく、司にも見え始める回になりました。
距離はまだ曖昧ですが、
「気づく人が増える」ことで、
戻れなさが少しずつ形になります。
次話では、
この変化がもう一段、深いところへ進みます。




