第三話 触れないままではいられなかった
第三話です。
少しだけ、踏み込みます。
放課後の教室は、昼間よりずっと広く感じた。
机の間を抜ける風も、
誰かの話し声も、
もうここにはない。
俺と澪だけ。
昨日と同じ状況なのに、
昨日よりずっと空気が重かった。
「……なんかさ」
澪が、椅子の背もたれに体重を預けたまま言った。
「放課後って、ちょっと怖くない?」
「怖い?」
「うん。
昼間はさ、考える暇ないじゃん。
人いるし、音あるし」
そう言って、澪は教室を見回す。
「でも、放課後って一気に静かになるでしょ。
その瞬間にさ、
あ、今ひとりだ、って気づく感じ」
俺は黙って聞いていた。
相づちを打つと、
彼女がまた軽い調子に戻る気がしたから。
「……昨日もさ」
澪は机の上の消しゴムを、指先でくるくる回した。
「家帰る前、ちょっとだけ、
この時間が嫌だなって思ってた」
「家が嫌なのか?」
「ううん。
家は別に、普通」
少しだけ間が空く。
「……“普通”すぎて、逃げ場ない感じ」
その言葉に、胸の奥がきしんだ。
「普通」って言葉は、
安心でもあるけど、
同時に、逃げ道を塞ぐこともある。
「拓真ってさ」
澪が、唐突に俺を見る。
「放課後、何してんの?」
「特に。
まっすぐ帰るか、
司とちょっと寄り道するくらい」
「……いいな」
「どこが」
「予定が“空っぽ”なところ」
澪は苦笑した。
「私さ、
何も予定ないのに、
勝手に疲れてる日あるんだよね」
「それ、結構あるやつじゃないか?」
「あるあるって言っていいやつかな、それ」
澪は少しだけ眉を下げた。
「だってさ、
何もしてないのに疲れてるって、
自分がダメみたいじゃん」
その言葉は、
冗談みたいなトーンなのに、
やけに真っ直ぐだった。
俺は、言葉を選びながら口を開く。
「……ダメってことはないと思うけど」
「ほら、そういう優しいこと言う」
「事実だろ」
「優しいの自覚ないタイプ?」
「たぶん」
「たぶんね」
澪は小さく笑ったあと、
ふっと視線を落とした。
「……ねえ」
声が、少し低くなる。
「昨日言ったこと、
覚えてる?」
「“ホッとする”ってやつ?」
「そこだけピンポイントで覚えるの、
ちょっと恥ずかしいんだけど」
「じゃあ忘れる」
「忘れないで」
即答だった。
澪は自分でも驚いたのか、
少しだけ目を瞬かせる。
「……あ、ごめ。
今の、重かったよね」
「いや」
俺は首を振った。
「別に」
本当は、
軽くはなかった。
でも、
重いからって、
切り捨てるほどでもなかった。
「……さ」
澪は、机に肘をついた。
「私、
ちゃんと悩んでる自分を見られるの、
あんまり得意じゃないんだ」
「なんとなく、わかる」
「でしょ。
だから、
真面目に話すときほど、
冗談っぽく言うし、
笑うし」
「……うん」
「でも」
澪は、そこで一度言葉を切った。
教室の時計が、
カチ、と鳴る。
「拓真の前だとさ、
変に盛らなくても、
時間が流れる感じがして」
その言葉に、
心臓が少しだけ強く打った。
「それが、楽で」
「……それって」
俺は、
言うか迷った。
ここから先は、
踏み込むラインだ。
「それって、
俺だから、なのか?」
澪は、少しだけ目を見開いた。
それから、
ゆっくりと視線を逸らす。
「……わかんない」
正直な答えだった。
「でも、
誰でもいい感じじゃないのは、
たぶん、そう」
その言葉が、
胸に残った。
「……そっか」
それ以上、
踏み込まなかった。
踏み込めば、
戻れなくなる気がしたから。
沈黙が落ちる。
でも、
昨日よりその沈黙は、
少しだけ長く、
少しだけ柔らかかった。
「ねえ」
澪が立ち上がる。
「今日は一緒に帰ろ」
「……いいのか?」
「いいよ。
誰かと帰るって理由があれば、
放課後、ちょっと楽になるから」
俺は、鞄を肩にかけた。
「……じゃあ」
二人で教室を出る。
廊下に足音が響く。
並んで歩く距離は、
近すぎず、遠すぎず。
でも、
昨日より確実に違っていた。
澪は、歩きながらぽつりと言う。
「……さっきの質問」
「どれだ」
「“拓真だからか”ってやつ」
一拍置いて。
「……たぶん、そう」
それだけ言って、
澪は前を向いた。
俺は、
その背中を見ながら思う。
(これは、
もうただのクラスメイトじゃない)
何かが始まったわけじゃない。
でも、
何かを知ってしまった。
触れないままでは、
いられなかった。
ここまで読んでいただき、ありがとうございます。
第三話では、
言葉にしなかったことと、
言ってしまったことの境目を書きました。
踏み込んだわけではないけれど、
もう戻れなくなっている。
そんな感覚が、少しでも伝わっていれば嬉しいです。
次話も、静かに続きます。




