第二十六話 言葉にしないまま
第二十六話 言葉にしないまま
教室に入った瞬間、
拓真は前の席を見た。
澪は、もう来ていた。
奈々と梨央に囲まれて、
いつも通りの声で笑っている。
声も、表情も、昨日と変わらない。
(……ほんとに、変わってないのか)
そう思った自分に気づいて、
拓真は席に座る。
「おはよー」
司が後ろから声をかけてきた。
「顔、昨日の続きって感じ」
「続きってなに」
「自覚ないなら重症」
「うるさい」
司はそれ以上言わず、
机に肘をついた。
「まあでもさ」
少し声を落とす。
「今のままでも、壊れてはないよな」
その言葉が、
妙に胸に残った。
授業中、
拓真は何度か前を見た。
澪はノートを取りながら、
時々ペンを止める。
考え込むみたいに、視線を宙に泳がせる。
(あれ、前からだっけ)
休み時間。
澪が、ふいに後ろを振り返った。
目が合う。
「あ」
「……なに」
「いや」
澪は一度言葉を切ってから、
少しだけ声を落とす。
「昨日さ」
「うん」
「変じゃなかった?」
「……どこが」
「私」
その一言で、
拓真の背筋が少しだけ伸びる。
「変っていうか」
澪は、指で机の端をなぞる。
「私、ちゃんと喋れてた?」
「普通だったと思うけど」
「それがさ」
澪は小さく笑う。
「“普通”って、便利すぎない?」
「……どういう意味」
「元気そう、とか
明るいね、とか
全部“普通”で片づくじゃん」
拓真は、すぐに返せなかった。
「昨日さ」
澪は続ける。
「帰り道、楽しかったんだよ」
「……うん」
「でも、そのあと」
少しだけ間。
「楽しかった、って思った自分に
なんか、引っかかって」
「引っかかる?」
「うん」
澪は、困ったみたいに眉を寄せる。
「楽しいって思えるとさ、
次、しんどくなる気がして」
「……なんで」
「分かんない」
正直な答えだった。
「期待しちゃうからかな。
それとも、
“このままでいい”って
思っちゃうからかな」
拓真は、胸の奥がきゅっとするのを感じた。
(それ、俺もだ)
でも、その言葉は出てこなかった。
「拓真はさ」
澪が、まっすぐ見る。
「昨日、何言おうとしてたの?」
心臓が、一拍遅れる。
「……大したことじゃない」
「そうやって、すぐ引く」
「引いてない」
「引いてる」
澪はため息をついた。
「私さ、
踏み込まれるの怖いけど」
一瞬、言葉を選ぶ。
「踏み込まれないのも、
それはそれで、ちょっと怖い」
その言葉は、
冗談みたいに軽く言われたけど、
中身は軽くなかった。
「……俺も」
拓真は、やっと口を開く。
「踏み込んで、
壊したら嫌だなって思ってる」
「壊れるかな」
「分からない」
「分からないならさ」
澪は、少しだけ笑った。
「考えすぎじゃない?」
その笑顔は、
いつもの“騒ぐ澪”とは違った。
昼休みのチャイムが鳴る。
「続きは、また今度ね」
澪はそう言って、
奈々たちの方へ戻っていった。
拓真は、机に残ったまま思う。
澪は、悩んでいる。
明るいまま、ちゃんと悩んでいる。
そして自分は、
その悩みに触れたいのに、
触れたあとが怖くて、
言葉を選び続けている。
弱さに触れるたび、
ぼくらは沈む。
それでも、
沈むのを怖がって、
何も言わないままでいる方が、
もっと深く沈むのかもしれない。




