第十七話 騒がしいだけの春終わり
四月が終わって、教室の空気が少し緩んだ。
朝のチャイム前、誰かが窓を開けると、外の風がそのまま入ってくる。五月って、こういう匂いだったなと思う。
「今日、体育だよな」
司が椅子に座ったまま、伸びをしながら言った。
「女子バレーだっけ」
拓真が返す。
「そうそう。男子は見学兼サポート」
「楽でいいな」
「絶対サボるやつ出る」
「お前のことだろ」
「失礼な」
そんなやり取りの向こうで、澪が奈々と梨央に囲まれているのが見えた。髪をまとめて、体操服の上にジャージを羽織っているだけなのに、やけに目につく。
「宮下、バレーできるんだっけ?」
奈々が聞く。
「中学でちょっと」
「“ちょっと”の言い方ができる人のやつ」
梨央が即座に突っ込む。
澪は肩をすくめて笑った。
体育館に入ると、音が変わる。
ボールの弾む音、笛の短い音、床を踏む足音。声も、教室より一段大きい。
澪は動きが軽かった。
構えが早くて、ボールに入る位置がいい。レシーブが上がるたびに、自然と次の場所へ移っている。
「ナイス、宮下!」
「今のうま」
女子の声が飛ぶ。
男子はコートの端に座って、順番を待っていた。
「宮下、普通に上手くね?」
誰かが言う。
「運動神経いいタイプだな」
「なんか、見てて安心する」
司が横で笑う。
「お前ら、体育くらい真面目に見ろよ」
「見てるから言ってんだろ」
「違いない」
小さな笑いが広がる。
拓真は、澪の動きを目で追っていた。派手なプレーはない。でも、ミスが少ない。声も出していて、周りが動きやすそうだ。
「なあ」
司が、肘で拓真をつつく。
「宮下、クラスで人気出そうだな」
「……今さらだろ」
拓真が答える。
「前から目立ってたし」
「冷静だな」
「事実だろ」
そのやり取りを聞いていた男子が、前を向いたまま言った。
「てかさ、宮下って可愛いよな」
一瞬、空気が止まって、それから笑いに変わる。
「今それ言う?」
「今だからだろ」
「分かるけどさ」
澪は気づいていないのか、気づかないふりをしているのか。ボールを拾って、すぐ次のプレーに入る。
拓真は、少しだけ眉を寄せた。
「……あんま本人の前で言うなよ」
自分でも、少し驚くくらい、はっきりした声だった。
司が一瞬、拓真を見る。
「珍しい」
「何が」
「そういうこと言うの」
「別に」
拓真は視線をコートに戻す。
「集中してる時に、変な空気作るなってだけ」
「はいはい」
司は笑って、それ以上突っ込まなかった。
そのとき、澪がこちらを見た。
目が合って、一瞬だけ、間が空く。
澪は小さく手を上げる。
「見てた?」って確認するみたいに。
拓真は、親指を立てるでもなく、手を振るでもなく、軽く頷いた。
それで、十分だった。
体育が終わって、戻る途中。
「疲れたー」
奈々が言う。
「でも楽しかった」
梨央が続ける。
澪は息を整えながら笑った。
「久しぶりに動いた気する」
後ろから、司が声をかける。
「宮下、今日よかったぞ」
「何目線?」
「クラス代表」
「そんな役職あったっけ」
「今できた」
拓真も、少し間を置いて言った。
「……無理はするなよ」
澪が一瞬だけ驚いて、それから、いつもの笑い方より少し柔らかく笑った。
「うん。ありがと」
それだけで、会話は終わる。
五月の空気は、少しあたたかくて、少しだけ騒がしい。
その中で、澪は自然に目立っていて、拓真はそれを、言葉にしきれないまま受け止めていた。




