第十六話 戻る場所の温度
教室のドアを開けた瞬間、音が一気に流れ込んできた。椅子を引く音、ページをめくる音、誰かの笑い声。昨日までと同じ朝のはずなのに、少しだけ距離がある。
それが、今はありがたかった。
特別に扱われたくない。
心配されすぎたくもない。
だから澪は、なるべくいつも通りの声を作る。
「おはよ」
近くの席の子が軽く手を上げる。それだけで胸の奥が少し緩んだ。
席に向かう途中、奈々が真っ先に気づいた。
「澪じゃん」
声のトーンがいつもと同じで、少し笑いそうになる。
「久しぶり。元気?」
「まあね」
「その“まあね”、ほんと澪」
隣で梨央が小さく笑う。梨央は奈々より少し静かで、でも人の様子を見るのがうまい。
「とりあえず、生きててよかった」
「言い方ひどくない?」
「褒めてる」
「褒め方が雑」
三人で笑う。
ちゃんと笑えている自分に、少しだけ安心する。
鞄を足元に置いて席に座る。机の感触も、椅子の高さも変わらない。変わっていないはずなのに、体だけが少し遅れている感じがした。
「そういえばさ」
梨央が言う。
「連絡物、前に届けてもらってたよね?」
「うん。大体は」
「ならよかった。今日の分だけ気をつければいいね」
「助かる」
奈々が頷く。
「今日はリハビリみたいなもんでしょ。無理しない」
「してないし」
「してる」
二人同時に言われて、澪は吹き出した。
そのまま朝のホームルームが始まる。担任が淡々と話し、出欠を取る。
返事はちゃんと出た。
それだけで、少し肩の力が抜ける。
ホームルームが終わる頃、学級委員長の高坂葵が澪の席に来た。手には数枚のプリント。
「宮下さん、体調は大丈夫でしたか?」
「……高坂さん、うん、大丈夫だよ、ありがとう!」
「今日配った分だけ、念のため共有しておくね」
必要な分だけを差し出してくる。無駄がない。
「無理はしないで。何かあったら言って」
声は事務的なのに、言葉はちゃんと人を向いていた。高坂はそれ以上踏み込まず、自分の席へ戻っていく。
授業が始まる。
ノートを取り、先生の声を聞く。周りと同じことをするだけで、教室の音が少しずつ自分のものに戻っていく。
休み時間。
「澪、昼どうする?」
奈々が聞く。
「一緒に食べる」
即答すると、梨央が小さく頷いた。
「よかった。今日はそれでいい」
「なにその判断」
「経験則」
三人で笑う。
そのとき、視界の端で拓真と目が合った。
すぐに逸らす。
拓真は、何も聞いてこない。
昨日も、今日も。
心配していないわけじゃないのは分かる。でも、距離を詰めてこない。それが少し不思議で、少しだけ楽だった。
昼休み。
澪は奈々と梨央と弁当を食べる。アニメの話、クラスの小ネタ、どうでもいい話題。ちゃんと笑って、ちゃんと食べる。
少し離れたところで、司が拓真に絡んでいる。
「お前、今日静かじゃね?」
「お前がうるさいからな」
「ひど」
「いつも通りだろ」
「それがひどいって話」
司が笑って、拓真の肩を軽く叩く。拓真は嫌そうにしながら、結局笑ってしまう。
ああ、学校だ。
澪はそう思った。
午後の授業が終わる頃には、体の遅れが少しだけ縮まっていた。完全じゃないけど、歩ける。
放課後。
廊下に出ると、向こうから手を振る人影があった。
「澪!」
佐倉結衣だった。別クラスの制服で、テンポは相変わらず速い。
「来れたんだ」
「うん。今日から」
「よかった。普通に心配してた」
言い方は軽いけど、視線はちゃんと合っている。
「連絡物は、もう受け取ってるって聞いたよ」
「うん。前にね」
「そっか。じゃあ今日は顔出しだけだ」
「それが一番ありがたい」
結衣は少し声を落とす。
「無理すんなよ。戻ったばっかなんだから」
「……うん」
それ以上は言わない。その距離感が、ありがたかった。
結衣と別れて教室に戻ると、拓真と司が廊下に出てくるところだった。
「お、宮下」
司が口角を上げる。
「完全復活?」
「完全体ではない」
「じゃあ七割でいこ」
「司の七割、信用できない」
澪が言うと、司は楽しそうに笑う。
「分かる。拓真もそう思うだろ?」
急に振られて、拓真が少し困った顔をする。
「……お前、雑だな」
「優しさは雑なくらいがちょうどいいんだよ」
「それ、ただの言い訳だろ」
司はそれ以上突っ込まず、空気を切り替えた。
三人で並んで歩く。
澪は少しだけ遅れて聞いている。笑うタイミングも一拍遅れる。でも、それでもいいと思えた。
校舎の出口で、拓真がほんの少し歩幅を落とす。
目が合う。
「……おかえり」
声は小さくて、無理に明るくもなくて、何かを求めるでもなかった。
澪は一度息を吐いてから、答える。
「ただいま」
それだけで、胸の奥があたたかくなる。
言葉が少なくても、距離はちゃんとある。
踏み込まれなかったことが、今日は救いだった。
澪はそう思いながら、廊下を歩いた。




