第十五話 言葉を置かない距離
この回では、
出来事そのものよりも、
「何も起きていない時間」を長く描いています。
誰かが来なくて、
理由が分からないまま一日が過ぎて、
それでも世界は普通に動いていく。
言葉を置かないことを選ぶまでの、
その途中の時間の話です。
朝の教室は、まだ完全には動き出していない。窓から入る光は白くて、机の表面を均等に照らしている。鞄を足元に置き、席に腰を下ろした瞬間、視線が自然と前に向いた。
宮下澪の席は、空いていた。
昨日も、そうだった。
たったそれだけの事実なのに、胸の奥に小さな引っかかりが残る。一日休むのは珍しくない。二日続けば、少しだけ気になる。それ以上の意味はないはずなのに、理由を探しそうになる自分がいる。
「……」
俺は、ノートを開いた。
理由を考えるより、書くべき文字はある。
後ろの席から、椅子を引く音がした。
「今日もいないな」
司の声は低く、独り言に近かった。
「そうだな」
短く返す。
それ以上続けなかったのは、続けたくなかったからだ。
「前から思ってたけどさ」
司が、少し間を置いて言う。
「お前、分かりやすすぎ」
「なにが」
「気にしてる時の動き」
「してねぇって」
「今ので確信した」
小さく笑われて、俺はそれ以上言い返さなかった。
担任が教室に入ってくる。朝の連絡が始まり、提出物や行事の話が続く。澪の名前は出なかった。欠席の理由も、連絡も、何も。
それが普通だ。
誰かが休んでも、世界は止まらない。
それでも、板書を書き写しながら、視界の端に空席が入り続ける。見ないようにしても、完全には消えてくれない。
休み時間。
「宮下、今日も休み?」
女子の一人が、別の女子に聞いている。
「さあ。LINEも返ってこない」
「珍しいよね」
「まあ、たまにはあるでしょ」
会話は、それ以上続かない。
心配よりも、納得のほうが早い。
昼休み。
弁当を広げながら、司がぽつりと言った。
「聞かないのか」
「なにを」
「どうしたの、って」
「……聞いてどうする」
「どうもしないだろ」
司は箸を止めて、俺を見る。
「でも、聞くなら今だし。聞かないなら、最後まで聞くな」
「極端だな」
「中途半端が一番、相手を疲れさせる」
その言葉が、静かに刺さる。
反論はできた。でも、しなかった。
午後の授業は、内容が頭に入ってこない。
時計の針が進む音だけが、やけに意識に残る。
放課後。
教室の人数が少しずつ減っていく。部活へ向かう声、廊下を走る足音。澪の席は、最後まで空いたままだった。
鞄を持ち上げたとき、昨日の光景が浮かぶ。
外灯の下。
少し冷たい空気。
鍵が閉まる音。
中には入っていない。ただ、そこに立った。それだけなのに、距離の境目を踏んだ感覚が消えない。
「……」
声に出しそうになって、やめた。
廊下に出ると、足音が近づいてくる。顔を上げると、澪が立っていた。制服のまま、少しだけ肩を落としている。
「……あ」
言葉が詰まる。
「おはよ」
声は低くて、教室で聞くより静かだった。
笑っているけど、いつもの明るさとは違う。
「今日、来てたんだ」
「うん。さっきね」
それ以上は言わない。
俺も、聞かない。
「そっか」
短い返事。
聞きたいことは確かにある。でも、頭の奥に浮かんだのは、誘い続けて、正しい言葉を重ねてしまった過去の感触だった。
「……なに?」
澪が、少し首を傾げる。
「いや、なんでもない」
本当に、今はそれでいい。
並んで歩き出す。
会話はない。けれど、沈黙が苦しいわけでもない。靴音だけが、一定のリズムで続く。
「ね」
澪が、前を向いたまま言う。
「今日はさ、無理に喋んなくていいから」
一瞬、言葉に詰まる。
「……それ、俺が言うやつじゃね?」
「でしょ。でも」
少しだけ、間があって。
「今日は、そういう日」
それ以上、言葉は足されない。
校舎の出口で、澪は立ち止まる。
「じゃ、また」
「おう」
短いやりとり。
それだけなのに、胸の奥に残る感覚が、今までと少し違った。
踏み込まなかった。
でも、逃げたわけでもない。
何かを言わなかったことが、初めて「選んだ行動」になった気がした。
「……難しいな」
誰に向けるでもなく呟いて、俺は帰路についた。
夕方の空は、まだ明るかった。
ここまで読んでいただき、ありがとうございます。
第十五話では、
「踏み込まなかった側」の時間を、
できるだけ細かく書きました。
心配することも、
声をかけることも、
正しい選択だと思います。
でも、
何も言われないことで
守られる余白も、確かに存在します。
この回で拓真が選んだのは、
勇気のある行動ではありません。
むしろ、迷い続けた結果の
消極的な選択です。
それでも、
同じ失敗を繰り返さないための
一歩目ではあったと思います。
この先で、
この距離がどう変わっていくのか。
まだ、答えは出ていません。




