第十二話 普通だと思っていた場所
第二章、第十二話です。
今日は、普通だと思っていた場所の話です。
「……宮下、今日も欠席な」
担任の声は、昨日と変わらない調子だった。
理由は言われない。誰も聞かない。
斜め前の席は、今日も空いている。
それだけのことなのに、
視界の端にずっと引っかかっていた。
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二限が終わったあと、
澪の机の上にプリントが重なっているのが目に入った。
「……結構たまってきたね」
前の席の女子が言う。
「今日も来てないし」
「次来たとき、まとめて渡す感じかな」
特別な心配の声じゃない。
ただの事務的なやりとり。
「まあ、澪だし」
その一言で、話題は終わった。
俺は何も言わず、
空いたままの席を見た。
机の上に、
連絡物だけが増えていく。
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昼休みの終わり、
廊下で佐倉結衣を見つけた。
澪の親友。
「佐倉」
声をかけると、結衣は立ち止まった。
「……なに?」
「宮下の家、分かる?」
一瞬、間が空く。
「連絡物?」
「ああ。たまってきてて」
結衣は小さくうなずいて、
スマホを取り出した。
「ここ」
画面を見せながら言う。
「家、普通だよ」
その言い方が、
どこか聞き覚えのある響きだった。
「アパートだけど、変なとこじゃない」
「……ありがとう」
「別に」
結衣は肩をすくめる。
「澪、あんまり家の話しないでしょ」
「うん」
「だからさ」
少しだけ言葉を選ぶ間があって。
「無理してるとき、分かりにくいんだよ」
それだけ言って、
結衣は教室に戻っていった。
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放課後。
地図を頼りに歩きながら、
ふと、ある会話が浮かぶ。
放課後の教室で、
何気なく聞いた。
家、嫌なのか。
そう言った俺に、
澪は少しだけ考えてから答えた。
ううん。
家は別に、普通。
軽すぎず、重すぎず。
それ以上話が続かないような言い方。
そのときの俺は、
それで十分だと思っていた。
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アパートの前に立つ。
見た目は、確かに普通だった。
古すぎるわけでも、新しすぎるわけでもない。
あのときの言葉は、嘘じゃなかった。
家は、普通だ。
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インターホンを押す。
反応はない。
もう一度。
……ない。
郵便受けを見る。
溜まっていない。
生活の気配はあるのに、
人の気配がしない。
ドアノブに、そっと手をかける。
鍵は、閉まっていなかった。
一瞬、迷ってから、
ノブを回した。
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「……拓真?」
部屋着の澪が立っていた。
驚いた顔。
でも、嫌そうではない。
「連絡物、届けに来た」
鞄からプリントを出す。
「今日も休みって聞いて」
澪は受け取って、
小さくうなずいた。
「……ありがとう」
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部屋の中は、静かだった。
散らかっていない。
変なところもない。
「家、普通でしょ」
澪が先に言う。
まるで、
俺の考えていることを
分かっているみたいに。
「……うん」
そう答えながら、
胸の奥で、あの言葉が反響する。
家は別に、普通。
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「……ご両親は?」
聞いた瞬間、少し遅かったと思う。
「いないよ」
澪は淡々と言った。
「一人暮らし」
その言葉が、静かに落ちる。
「高校入るタイミングで、ね」
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その瞬間、
「普通」という言葉の意味が変わった。
怒鳴られない。
干渉されない。
心配もされない。
普通。
それは、
何も起きないという意味であって、
誰かがいるという意味じゃなかった。
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「だからさ」
澪は、少しだけ笑う。
「休むとき、誰にも怒られない」
冗談みたいな言い方。
でも、
胸の奥がゆっくり沈んでいった。
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玄関で靴を履く。
「……無理しなくていい」
また、同じ言葉を言う。
澪は小さくうなずいた。
「……ありがとう」
ドアが閉まる。
鍵の音が、静かに響く。
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階段を下りながら、考える。
家は、普通だった。
ただ、
普通であることが、
澪を守ってはいなかった。
俺は、
普通だと思っていた場所の内側を
見てしまった。
もう、
知らなかったふりはできない。
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今日も、
澪は学校に来なかった。
それだけの事実が、
これまでよりずっと重く感じられた。
ここまで読んでいただき、ありがとうございます。
この話では、
「普通」という言葉が持っていた意味が、
少しだけ変わります。
安心でも嘘でもなく、
踏み込ませないための言葉。
それに気づいてしまうことは、
優しさでも正しさでもありません。
ただ、
戻れなくなるだけです。




