第十話 夜に触れてしまう
第二章、第十話です。
この話は、昼の続きの夜の話です。
夜は、昼よりも正直だ。
部屋の明かりを落として、
ベッドに横になると、
昼間に見なかったことにした感情が
勝手に浮かび上がってくる。
澪の顔が、
何度も頭に浮かんだ。
遅れてきた朝。
少しだけ静かだった昼。
早めに帰っていった背中。
どれも、
理由にするには弱すぎる。
でも、
気にしないで済ますには、
もう無理だった。
⸻
スマホを手に取る。
画面をつけて、
すぐに消す。
送る言葉が、
決まらない。
「大丈夫?」
重い。
「今日どうだった?」
逃げてる。
「無理しなくていい」
それは、
もう言ってしまった言葉だ。
澪の弱さに、
これ以上触れていいのか分からなかった。
触れたら、
何かが壊れる気がして。
でも、
触れなかったら、
もう戻れない気もして。
⸻
結局、
短い文を打った。
「今、起きてる?」
送信して、
すぐに後悔する。
既読がつくまでの時間が、
やけに長く感じた。
スマホを置いて、
天井を見る。
この沈黙は、
俺が作った。
⸻
振動。
画面を見る。
「起きてるよ」
それだけ。
それだけなのに、
胸の奥が少し緩んだ。
「今日は、ありがとう」
何に対しての、
ありがとうなのか。
昼のことか。
それとも、
触れなかったことか。
⸻
少し間を置いて、
また文が届く。
「ちょっとだけ、話してもいい?」
指が止まる。
拒む理由はない。
でも、
受け止める準備もできていない。
それでも、
返事を打つ。
「うん」
⸻
「今日ね」
澪からの文は、
短く途切れながら続いた。
「学校は、普通だった」
「ちゃんと笑ったし」
「ちゃんと話した」
読んでいるうちに、
胸の奥が沈んでいく。
ちゃんと、という言葉が、
やけに重い。
「でも」
その一文字のあと、
少しだけ時間が空いた。
「遅れてる感じがして」
何に、
と聞けなかった。
分かってしまったから。
⸻
しばらくして、
次の文が届く。
「拓真くんのこと」
指が、
一瞬止まる。
「今日、見られた気がした」
「悪い意味じゃないんだけど」
「ちゃんとしなきゃって思ってるところ」
画面が、
少し滲んだ。
これは、
弱さだ。
泣き言でも、
助けでもない。
ただ、
触れてはいけない場所だ。
⸻
「ごめん」
そう送ろうとして、
やめた。
謝るのは、
違う気がした。
代わりに、
時間をかけて打つ。
「見てたかも」
「でも、言わなかった」
「言えなかった」
既読がつく。
少し、
時間が流れる。
⸻
「……うん」
澪からの返事は、
それだけだった。
続けて、
もう一通。
「それで、よかった」
それが、
本当なのかどうかは、
分からない。
でも、
その言葉の裏にあるものを、
見てしまった。
⸻
触れてしまった。
昼間よりも、
ずっと深いところに。
慰めたわけでも、
励ましたわけでもない。
ただ、
同じ場所に立ってしまった。
沈みかけている場所に。
⸻
「今日は、もう休もう」
俺はそう送った。
逃げでも、
拒絶でもない。
これ以上進んだら、
戻れなくなる気がしたから。
「うん」
澪の返事は、
すぐに来た。
「ありがとう」
画面を閉じて、
スマホを伏せる。
胸の奥が、
静かに沈んでいく。
⸻
弱さに触れるというのは、
手を伸ばすことじゃない。
踏み込むことでもない。
同じ夜を、
同じ重さで過ごしてしまうことだ。
もう、
知らなかった頃には戻れない。
この夜は、
たしかに境目だった。
ここまで読んでいただき、ありがとうございます。
この話では、
助けることも、救うこともしていません。
ただ、同じ夜を過ごしただけです。
弱さに触れるというのは、
何かを言うことではなく、
引き返せなくなることなのかもしれません。
この夜が、
境目になります。




