第九話 遅れてくる違和感
第二章が始まります。
この話では、まだ何も失われていません。
澪は、少しだけ遅れて教室に入ってきた。
遅刻というほどじゃない。
チャイムが鳴る前。
ほんの数分。
それでも、
俺は無意識に時計を見てしまった。
「おはよー」
声は明るい。
いつも通り。
教室の空気も、
特に変わらない。
「珍しいじゃん、ギリギリ」
「朝ちょっとバタバタしてさ」
澪は笑って、
自分の席に座る。
(……いる)
その事実に、
少しだけ安心してしまった自分に気づく。
⸻
一限の途中、
澪はノートを取っていた。
姿勢も、
ペンの動きも、
ちゃんとしている。
けれど。
(……遅い)
黒板を書き写すスピードが、
ほんの少しだけ遅れている。
気づくかどうかは、
見る側次第の差だった。
「宮下さん」
前の方から声がする。
学級委員長の高坂葵だ。
「今日のプリント、
あとで私と一緒に確認してもらっていい?」
「うん、大丈夫」
澪は即答した。
声も、
表情も、
問題ない。
(……問題ない、はず)
⸻
昼休み。
澪は菜々と梨央と一緒にいた。
いつもの場所。
いつもの距離。
「今日放課後どうする?」
「どうしよ。
帰るかも」
「え、珍し」
「ちょっと眠くてさ」
眠い。
それだけの理由。
誰も深く聞かない。
それが、
クラスという場所の優しさだった。
⸻
「拓真」
隣で司が小声で言う。
「宮下、
今日ちょっと静かじゃね?」
「……そうか?」
「いや、
元気は元気なんだけどさ」
司は言葉を探す。
「“出てこない”感じ」
その表現は、
妙にしっくりきた。
出てこない。
無理してでも前に出る澪が、
今日は一歩引いている。
⸻
昼休みの終わり、
高坂が俺の席に来た。
「拓真くん」
「何?」
「宮下さん、
体調悪いとかじゃないよね?」
「……分からない」
「そっか」
高坂はそれ以上聞かなかった。
「無理させたくないなって思っただけ」
その距離感は、
相変わらず正しかった。
⸻
放課後。
澪は鞄を持って立ち上がる。
「今日は先帰るね」
「友達と?」
「ううん、一人で」
一瞬、
俺の方を見る。
「……また明日」
「……ああ」
澪は、
いつもより少しだけ早く教室を出ていった。
⸻
残された教室で、
俺は思う。
何も起きていない。
澪は今日も学校に来た。
笑って、話して、役割も果たした。
それでも。
(……遅れてる)
時間じゃない。
距離だ。
名前のない距離が、
ほんの少しだけ、
ずれ始めている。
沈むほどじゃない。
壊れるほどでもない。
でも、
次はきっと。
この「少し」が、
理由になる。
ここまで読んでいただき、ありがとうございます。
第九話では、
澪はまだ欠席していません。
笑って、話して、クラスにいます。
それでも、
ほんの少しだけ「遅れ」が生まれました。
この章は、
何かが壊れる話ではなく、
壊れ始める前の話です。




