3-9
麗軒飯店の暖簾が再び掲げられたのは、あの夜から二週間後のことだった。
油のはじける音、肉を焼く香ばしい匂い、立ちのぼる湯気――。
少しずつ客足が戻り、ひと月も経つ頃には、以前のように喧騒と熱気が渦を巻いていた。
今日はその“退院祝い”だった。
ドアを開けるや否や、エルは待ちきれないとばかりにメニューを広げた。
「うわぁ、本当に戻ったんだね! えっと……オレンジチキンとジェネラルソース、それからチャウメンに……あ、ヤンヤンエッグロールも!」
指先が走るたび、メニュー表の端から料理が飛び出してくるかのように、彼女の声は弾んでいた。
「……どれだけ頼む気だよ」
苦笑しながら私はジョッキを傾ける。冷えた喉越しに、ようやく「日常」というものが喉を通った気がした。
天井隅のテレビがニュースを流していた。
『続いての話題です。映画俳優の――』
『金融王の〇〇氏が、麻薬所持で――』
どうでもいいゴシップばかり。あの日以来、毎日目を凝らしていたが、列車の件が報じられることは一度もなかった。
「くだらない……全部煙に巻かれた」
皿に転がしたチキンの骨を弾き飛ばす。
「NOVAがもみ消したんでしょ。あの“対バイオテロ組織”が人身売買に関与してたなんて、スキャンダルすぎるもん」
そう言いながら、エルは私のスパイシーフライドライスに箸を伸ばし、豪快に頬張った。
――真実は葬られた。
秩序と政治を揺るがすから。
「そういえば、ダリアはまだ……あそこに?」
ふいにエルが顔を上げた。
「ああ。しばらくはシルヴィアのセーフティハウスだ。生活に困ることはないが、心は安らぐはずもない」
「ふふ、あの人のことだから……いっそ転職して、うちに就職するかもよ?」
冗談めかした声に、つい笑ってしまった。
厨房の奥からレイが姿を現した。
「なあ、エルヴィラ……そんなに食べて胃は大丈夫か?」
「大丈夫、大丈夫。これくらい前菜よ!」
にっこり笑う彼女の前で、皿は瞬く間に山を築いていく。
「……これで礼になるのかね。あんな命懸けのことをしてくれたのに、飯だけじゃ割に合わない」
レイは困ったように腕を組む。
「ま、エルの食いっぷりなら釣り合ってるかもな」
私が言うと、レイも小さく肩を揺らした。
そのとき、ドアベルが鳴った。
「配達終わったっすよー!」
ヤンヤンが岡持をぶら下げ、息を切らしながら帰ってきた。
「あっ、お二人さん! お久しぶりっすー!」
エルは勢いよく立ち上がり、ヤンヤンを抱きしめた。まるで何年も会えなかった親友に再会したかのように。
「……つい先週、見舞いに行ったばかりだろ」
呆れる私の言葉を無視し、エルは子どものように笑っていた。
ヤンヤンは変わった。
――いや、戻ったのだ。
過去の恐怖も、しがらみも手放し、ようやく“自分の足”で歩き始めた。
シルヴィアに用意された市民権を断り、「自分で稼いで取る」と宣言した。
それが、彼女なりの“人生の証明”だった。
今はスクーターで街を走り回り、ホールと配達を行き来している。
その姿を、エルは眩しそうに目で追っていた。
きっと彼女の中に、私たちが持てなかった“堅気の希望”を見ているのだろう。
レイもすっかり鍋を振れるまでに回復していた。
疲労による入院、だが退院は遅れた。毎日ヤンヤンが過保護に見舞いへ押しかけ、逆に寝不足になったらしい。
「困ったもんだ」と笑う彼の声には、以前の覇気が戻っていた。
――二人とも、強い。
私たちとは違う形で、確かなものを手にしている。
グラスを口に運びながら、私は彼らを見つめた。
「ミア? どうしたの、お腹でも痛いの?」
隣でエルが顔を覗き込む。どうやら私が考え込んでいたらしい。
「いや……エル、ほら。米粒ついてるぞ」
おしぼりで彼女の頬を拭うと、エルは照れたように舌を出した。
「ありがと。じゃあ次は小籠包ね!」
そう言って元気よくヤンヤンに声をかける。
笑っている。
ただそれだけで、いい。
「エル」
「ん? なぁに? あ、チキンもう一個いる?」
頬をいっぱいにふくらませながら振り返る彼女に、私は言葉を飲み込んだ。
伝えたいことは山ほどあったのに。
「……また、ついてるぞ」
彼女の頬についたチキンの欠片を指で取って、口に放り込む。
――もし、普通の暮らしが許されるなら。
エルと、ただの一般人として並んでいられるなら。
……その願いは胸に仕舞った。
今は、これで十分だ。